2024 年 2 月 18 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「試みにあわせないでください~主の祈り7」

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2023.2.18

鴨下直樹

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 今週から受難節、レントを迎えました。主イエスが十字架にかけられるまでの40日間、教会では主の苦しみを心に留めて過ごすという習慣があります。国によってはこのレントの期間、肉を絶って生活するというような習慣のある国もあります。謝肉祭とか、カーニバルという言葉を聞いたことのある方もあると思います。これは、この期間は主の受難を覚えるために肉が食べられなくなるので、その前にどんちゃん騒ぎをして、この期間を乗り越えるためのエネルギーをつけておこうなどという習慣が生まれたのです。

 私たちは今週からレントを迎えるというタイミングで、主の祈りの中にある「私たちに試みにあわせないでください」という御言葉に耳を傾けようとしています。レントの期間というのは、先ほどお話したように、肉を食べないとか、好きなものを絶って、主イエスの苦しみを偲ぶ季節ということができます。このように、一方では自らに試練を課して、主の苦難を偲ぼうという習慣、もう一方では「試みにあわせないでください」と祈る。こうなると、私たちは互いに相反するようなことをしているのではないかという印象を持つのではないでしょうか?

 私たちは「試練」をどう考えているでしょう? 多くの場合、「試練」というのは、私たちを成長させるためには必要不可欠なものという認識が、どこかで私たちにはあると思います。けれども、ここでは「試みにあわせないでください」と祈るように勧められています。とすれば試練はない方がいいというわけです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 「若い時の苦労は買ってでもしろ」という諺もあるくらいです。そう考えると、私たちが「試み」にあわないようにと祈るのは少しおかしい気もするのです。

「試練」というのは、この言葉にも表されていますが「試み」という言葉と「練る」という言葉で作られています。たとえば、私は鉄の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、鉄を強くするためには精錬して、鉄を高熱で練り上げて、不純物を取り除いて、強い鉄を作り出していきます。ここには鉄の専門家がおりますから、あまり適当なことを言わない方がいいかもしれませんが、少なくとも私にはそんなイメージがあります。

 それで、少し気になって「試み」という日本語の意味を調べてみました。すると、面白いことが書かれていました。「心を見る」という言葉から、「試み」という言葉が生まれたというのです。その人の心を見る。その人が本当は何を考えているのかを見る。表面に出てきていない、その内側を見るというわけです。私たちは普段、心の内側は誰にも知られていないと思って、うまいこと表面上を取り繕って、ごまかしながら生きているかも知れません。だから、その人の内面を、心を見るために、試みに合わせる、テストするというわけです。

 私たちは、ひょっとすると神様からテストされてばかりではなくて、私たちの方でも神様の心を見てやろうと、テストするということがあるのかもしれません。本当にこのお方は信じるに値するのか、試してみたくなる。そうやって、たとえば願い事を祈ってみて、それが叶うかどうか、そういうことで判断をしようとすることがあるかもしれません。私たちが神を試みるということについては、今日のテーマではないので簡単にお話したいと思いますが、これは神を侮る態度ですし、結局のところ自分本位な態度だと言わなければなりません。

 今日、私たちが考えたいのは神が私たちを試みられることです。私たちが試されることがある。私たちの心が見られることがあるのです。けれどもそれは、神からの罰ではないということを、一方で私たちは知る必要があります。私たちは思いがけない不幸が訪れると、それは試練だと考えます。それと同時に、反射的に考えてしまうのは「何か悪いことをしてしまって、神様を怒らせてしまっただろうか?」と考えたり、「神のバチが当たった」と考えたりしてしまうのではないでしょうか。

 原因があって結果があるわけで、こうなったのには自分に何か悪い原因があるのではないかと、自分を責めてしまったり、神様を恨んだりする感情が私たちの心の中に浮かんできてしまいます。ここが、試練の怖いところです。

 病気になる、事故に遭う、災害で被害を被る、いろんな試練が私たちの人生の中で襲いかかってくることがあります。それらの出来事が起こると、それに付随して色々なことが起こります。そのためにたとえば仕事ができなくなる、経済的に厳しくなる、人が怖くなって外に出られなくなる、人を信じられなくなる。さまざまな感情が私たちを襲うようになります。そうなっていくと、平安でいられなくなってしまいます。そんな中で他の人を見ると、案外幸せそうにやっている気がして、他の人が羨ましく思えてしまう。自分だけが苦労を背負っているかのような錯覚を起こしてしまうことがあるのです。

 簡単に乗り越えられそうなことを「試練」とは言いません。「試練」には深い闇が潜んでいます。私たちはこの試練に対して、どう向き合うことができるのでしょう。 (続きを読む…)

2024 年 2 月 11 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「罪の赦しを~主の祈り6」

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2023.2.11

鴨下直樹

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 主の祈りも今日で6回目になりました。こんなにゆっくりと解き明かしをしなくても良いのではないかという声も有るかもしれません。けれども、この祈りは私たちの信仰の歩みの根幹を支えるものですから、できるだけ丁寧にみ言葉に耳を傾けたいと願っています。

 今日は「私たちの罪をお赦しください」という祈りです。ここでは、罪の赦しを祈り求めます。

 「罪」。この言葉は、教会に来るようになった人の多くが、最初に戸惑う言葉の一つです。私たちは、クリスチャンになる前は、「罪」という言葉を「犯罪を犯すこと」という意味で認識している場合が多いと思います。ですから「あなたには罪があります」と言われると、「自分は警察にお世話になるようなことはしていない」と抵抗したくなります。けれども、教会に集うようになって、聖書の話を聞いていくうちに、この「罪」というのはどうやら「犯罪を犯した」という意味ではないことが少しずつ理解できるようになってきます。

 この「罪」という言葉は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言います。そのもともとの意味は「的が外れている」という意味です。向くべき方向を向いていないことという意味です。では、その「的とは何か?」というと、それは「神」と言ってもいいし、「神が願っている生き方」と言っても良いものです。この私たちが向かうべき「的」とも言えるゴールというのは、神の目にかなう生き方ができていることを指します。このことを「義」と言います。そして、この神の目にかなわない生き方のことを「罪」と言うのです。

 では、その神の願う生き方とは何か?と言った時に、教会は何を教えてくたかというと、「十戒」と「主の祈り」と「使徒信条」の三つの文章を、三つの要の文、「三要文」として、これをを中心に教会は信徒に教えてきました。もちろん、三つの文章で神の御心をすべて知ることができるわけではありませんが、中心的な事柄が、この三要文で扱われているのです。そういう意味でも、今私たちはこの主の祈りの、み言葉を丁寧に聞き取っていこうとしているわけです。

 特に、三要文の中の「十戒」には、神からの10の戒めが記されています。そこでは、神がどう私たちに生きることを命じられているかが分かります。この十戒は、さらにまとめると二つのことを教えています。ここでは「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の大切さが教えられていると言えます。ということは、「愛すること」が、神の御心の中心部分だということが分かってきます。つまり「罪」というのは、「犯罪を犯した」ということではなくて「愛さなかったこと」が問題になっているとも言えるわけです。神を愛さなかったこと、あるいは私たちの周りの人々を愛さなかったことが罪と言えるのです。

 「愛する」というのは、私たちの内側から出てくる自覚的な行動によって示されます。そして、その愛というのは、ギブ・アンド・テイクの愛、見返りを求める愛ではなくて、一方的に与える愛だということを私たちは何度も何度も聞いています。これが神の愛だからです。けれども、一方的に与える愛というのは、どういうものなのかとなると途端に解らなくなってしまいます。

 愛を知る。これは、とても短い言葉ですが、とても難しいことです。けれども、どうして愛を知ることを難しく感じてしまうのでしょうか? 私たちは生まれた時から、たくさん愛を受けて育ってきたはずです。だから、本当は愛をたくさん知っているはずです。ところが、私たちは子どもの頃から、この愛を受け取ることがうまくできないようです。慣れてしまうからでしょうか。それとも当たり前だと思ってしまうのでしょうか。毎日毎日、私たちが生きていけるように、親が働いてくれて、親が世話をしてくれて、衣食住を整えてくれていて、そこには十分な愛が示されているはずなのに、気づくと不満ばかりを見つけてしまう、これは一体どうしてなのでしょう。

 押し付けが過ぎるのでしょうか?それとも、もっと高品質の愛を求めているからなのでしょうか? (続きを読む…)

2024 年 2 月 4 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「日毎の糧を~主の祈り5」

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2023.2.4

鴨下直樹

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 ドストエフスキーの書いた短編小説で、しかも子ども向けに書かれた「キリストのヨルカに召されし少年」という児童文学とも呼べる作品があります。この作品はとても珍しいもので、「私は小説家だから、どうやらひとつの『物語』を思いついたようだ」という書き出しから始まります。小説家が小説を書くのはあたりまえのことですから、わざわざこう言うのはなんでだろうと思ったのですが、読んで、なるほどと思いました。

 この物語の少年は、どこかから移り住んできた少年のようで、病気の母親を看病しながら地下の暗い部屋で、飢えと寒さで身動きがとれないでいるのです。お腹があまりにも空いて母親のところに行くと、母はもう冷たくなって死んでいました。

 その後、地下から外に出ると、街中にはクリスマスの賑やかで眩い世界が広がっていて、広場の真ん中には大きなヨルカ、クリスマスツリーが飾られています。そんな中で、お腹の空いた少年が食べ物と暖かさを求めて歩いていると、ある家のパーティーの様子が目に飛び込んできます。そのあまりにも楽しそうな世界に心惹かれ、自分も入れてもらえるのではと思い、家の扉を開けるのですが、追い出されてしまいます。その時、銅貨を一枚握らされるのですが、手がかじかんで、その銅貨を掴むこともできませんでした。

 その後、大勢の人だかりのできていた所で人形劇を眺めていると、いきなり後ろから、わんぱく小僧に蹴飛ばされ、一目散に逃げ出します。そうして、路地裏の陰に隠れ込んでしまうのです。少年はそこで、急にぽかぽかと暖かさを感じるようになってきて、お母さんの子守唄が聞こえてきます。そして「ヨルカのお祝いに行こう、坊や」というお母さんの声を聞きます。その時、自分は眠たいのだと気づくとともに、自分の周りに他にもたくさんの子どもたちがいることに気づいていきます。自分の周りにいる子どもたちは皆、苦労していた子どもたちばかりなのです。こうして、その暖かな世界に招かれた親子たちは天の主なる神様のみもとで巡り会っていく。けれども、その街の傍で、その少年は冷たい死を迎えていく、そんな物語です。

 この物語の最後にドストエフスキーは、どうして自分は作家の日記としてもふさわしくない物語を書いたのだろうと言いながら、これが本当のことかどうかは言えないけれども、私は小説家だから、こういう話を創作するのが商売だと言って物語を結んでいるのです。

 この小説のあとがきを読むと、どうもこの時ドストエフスキーは少年犯罪者の感化院を訪れていて、その時の訪問記も、この小説が載せられた雑誌の同じ号に書いているようです。ということは、犯罪に手を伸ばしてしまう少年たちの現状を知って、こういう子どもたちが自分たちの周りにはたくさんいるんだと、知らせたかったのだろうということが分かってきます。そして、それと同時に、もし子どもたちがこの物語を読んだなら、その先には神のあたたかい御手の中に迎えられるのだということを、ドストエフスキーなりに伝えたかったのではないかと気づかされるのです。ドストエフスキー自身が、そこまで熱心なクリスチャンであったかどうかまでは私には分かりませんが、少なくともこの物語を書いた時にはそんな思いになっていたことは間違いないのです。

 私たちは、主の祈りを生活の歩みの中で祈ります。「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。」と祈ります。

 私たちが普段、この祈りを祈る時に意識している「私たち」というのは、自分の家族のことだと思います。そこで祈られている「私たち」は狭い範囲をさしているはずです。あるいは、教会で主の祈りを祈る時には、この「私たち」は「教会の人たち」という意味で祈るのかもしれません。あるいは、時々はもっと外に目を向けて、被災地の人たちや、戦地の人たちのことを心に留めたり、あるいは、食べるものが無くて困っている人に思いを馳せたりしながら祈るのかもしれません。けれども、基本的にはやはり、自分の家族のことを一番に考えながら祈るのだと思うのです。 (続きを読む…)

2024 年 1 月 28 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御国が来ますように~主の祈り4」

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2023.1.28

鴨下直樹

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 少し前のことですが、あるクリスチャンホームの家庭で、幼稚園の子どもが教会で教えてもらった子ども賛美を口ずさんでいたそうです。元気な賛美で、子どもに人気のある歌です。

イエス様を信じるだけで 天国へ一直線に進む 
涙ふいていっしょに乗ろう 喜びがあふれてくるよ
さあ 救いの汽車に乗り かがやく天国へ行こう 
さあ イエス様のまってる 天国へいっしょに行こう

 その娘の歌う歌を聴いていた、その家のクリスチャンではないご主人が、奥さんにこう言ったそうです。
「教会では、こんな小さな子どもに早く死ねって教えているのか?」

 この話を聞いたのはもうずいぶんと前のことですが、私にとって忘れられない出来事でした。この子どものお父さんの質問は、一つの信仰の急所をついた言葉だと言えます。

 まず、長い間、福音派の教会は「天国」のことを「死後の世界」のことだと教えてきたという事実があります。イエス様を信じたら、天国へ行ける。死の不安から抜け出して、来世に希望を見出すことができる。いわゆる大衆伝道者と呼ばれた牧師たちは、そういう福音を語ってきました。

 これは、完全に間違っているわけではないのですが、かなり偏った信仰理解を生み出してしまったと言わなければなりません。「イエスさまを信じたら、天国に行ける」と聞くと、今の苦しみから目を背けさせることができるかもしれませんが、今の生活から目を逸らさせる、現実逃避の信仰ということになりかねないのです。

 けれども、この主の祈りの今日の言葉、「御国が来ますように」という祈りは、そういう信仰の理解に対して、はっきりと「NO!」と告げていると言えます。

 この祈りは、「御国に行けますように」と祈っているのではない。「天国に入れますように」と祈るのではないのです。ここで、主イエスは「御国が来ますように」と教えているのです。 (続きを読む…)

2024 年 1 月 21 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「御名が聖なるものとなる~主の祈り3」

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2023.1.21

鴨下直樹

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 新改訳2017になって、「主の祈り」の文章が大きく変わりました。一番大きく変わったのは、この「聖なるものとされますように」という文章です。これまでは「御名があがめられますように」となっていました。いつも、礼拝で主の祈りを祈るときも、「御名があがめられますように」と祈っています。

 この「御名があがめられますように」というのは、どんなイメージでしょうか。この「あがめられる」というのは、みなさんにとっていろんなイメージがあるかもしれません。「あがめられる」というのは、「尊敬される」とか「褒められる」というような意味の言葉です。もっと分かりやすく言うと「すごいと思われる」というようなイメージなのではないでしょうか。

 神様の名前が、尊敬される、すごいお方だと思われる。これがこの祈りの主要な意味の一つだと言っていいと思います。この世界のすべての人に神があがめられるようになることです。この祈りがまず第一に私たちに訴えているのは、主の主権がこの世界で確立するようにという祈りだということが分かると思います。

 この世界を創造され、お造りになられたのは、私たちの父なる神です。この世界は主の御手の中にあって、主なる神様がこの世界の主権者であり支配者です。けれども、この世界の多くの人はそのことを知らないでいます。それは、とても残念なことです。何よりも、神ご自身がそのことを残念に思っておられます。

 かつて、ドイツの説教者ヘルムート・ティリケは主の祈りの説教のなかで「主の祈りの最初の祈願は、隠れた悔い改めである」と語りました。この言葉は、まさにこの箇所は、このことを言い表しています。多くの人々が、この世界の創造主であられる父なる神に、語りかけることをしてこなかったのです。

 そんな世界の中にあって、多くの人に忘れ去られている神のことを、心の中に留める人たちが起こされるようになる。人々がもう一度、主の神の御名を思い起こして祈りを捧げるようになる。このお方のことをあがめるようになる。このお方を、尊敬し、すごいお方なのだと告白するようになる。それが、この祈りの中心的な内容です。

 この「あがめる」という言葉をもう少し考えてみると、この日本語は「きわめて尊いものとして敬う」という意味だと書かれています。そして、二番目の意味としては「寵愛する」とか「大事に扱う」と書かれています。まさに、神様を敬う、神様を拝むというような場合に使われる言葉だということが分かってきます。ということは、この「あがめる」というのは、「お祈りをする」ということを私たちに連想させます。

 多くの人が神様のことを知るようになって、このお方がこの世界の創り主であることを知って祈るようになる。そんな祈りを祈っていくことが、求められていると言えるかもしれません。

 これまで「あがめる」と訳していたこの言葉ですが、今回からは「御名が聖なるものとされますように」と訳されることになりました。けれども、こうなると、私たちのこの祈りの印象はかなり変わるのではないでしょうか? (続きを読む…)

2024 年 1 月 7 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「祈りの呼びかけ、父よ!~主の祈り2」

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2023.1.7

鴨下直樹

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「祈りとは天と地が口づけするようなものである」

 私がこの言葉を耳にしたのは、北海道に向かうフェリーの中でした。もう20年ほど前のことになるでしょうか。教団の学生キャンプを北海道で行ったことがあります。その時のテーマは「主の祈りを学ぶ」というものでした。その中でこの言葉を私に教えてくださったのは、芥見教会の前任の浅野直樹牧師でした。

 フェリーに乗って京都の舞鶴港を出て、日本海から北海道の函館を目指します。1日半の船旅ですが、甲板に出ても見えるのは、ひたすら海と水平線です。その水平線を見ながら、「祈りとは天と地が口づけするようなもの」との言葉を耳にしたのです。私の心の中に、深くその言葉が刻まれました。

 天と地を結びつけるもの。私たちは普段、地平線も水平線も見えないような山際に住んでいます。目に入るのは建物であり、山で遮られた世界です。それはそれで味わいがありますが、天と地が結びつくイメージはなかなか描けません。祈りとは天と地を結びつけるものだというのです。

 私たちがこの地上から祈りを捧げる時、それは天と繋がりを持つ。もっと言えば、祈りだけが、天と地を結びつけるものなのです。

 この時、主はこの祈りを教える中で、「父よ」と呼びかけています。この天地を創造されたお方を父と呼ぶ。これが、天と地を結びつける祈りの呼びかけです。神は、私たちの父である。この呼びかけが、天と地を結びつけるのです。

 この「父よ」との呼びかけは、主イエスの弟子たちにとって驚きであったに違いありません。神は、「ヤハウェ」という名を持っています。けれども、この神の御名は軽々しく口にして良いものではありませんでした。十戒で、「主の御名をみだりに唱えてはならない」と戒められているほどです。それで、「主」(アドナイ)という言葉を代わりに使ったのです。

 しかも、この父よという呼びかけは「アバ」という呼びかけでした。「アバ」というのは幼児語です。生まれた赤ちゃんが最初に口にする言葉であるとも言われています。そんな誰もが使うような言葉で、畏れ多い神に呼びかけるようにと、主イエスは教えられたのです。

 子どもが生まれて、それまで「オギャー」と泣いていた赤ちゃんが、ある時から「ママ」と呼び「パパ」と呼ぶようになる。これは親にとっては感動の経験です。子どもを得て、最初の感動と呼べるものかもしれません。この赤ちゃんは、この子どもは自分の子であるという感動が、この呼びかけにはあるのです。

 そして、驚くのは父なる神ご自身が、そのように呼びかけられることを願っておられるのだという事実です。「御名をみだりに唱えてはならない」という戒めから受ける印象とは、まるで真逆な印象を受けるのではないでしょうか。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 31 日

・説教 コリント人への手紙第一 16章14節「愛すること覚える一年」

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2023.12.31

鴨下直樹

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「一切のことを、愛をもって行いなさい。」 

コリント人への手紙第一16章14節

 パウロのコリントに宛てた手紙の最後に記した結びの言葉と言ってもいいのが、この言葉です。これは、2024年のローズンゲンによる年間聖句です。

 「一切のことを、愛をもって行いなさい。」とパウロはここで語っています。パウロがコリントの教会に宛てた手紙の最後で、どうしてもこの言葉でまとめたかった言葉、そう言っていいと思います。

 芥見に来てから、かなり丁寧に聖書の講解をしていますが、まだコリント人への手紙は取り扱っていません。このコリントの教会はかなり問題を抱えていた教会だったと言えます。少しこの手紙に何が書かれているか、概略をお話しすると、このコリントの教会がどれほどの問題を抱えていた教会だったかということが見えてきます。

 まず、この手紙の第1章には、争い、仲間割れがあり、自分たちの知恵を誇ったとあります。2章では成熟していない人々だったと記されています。3章ではこの教会の人々は、肉に属する人々とあり、4章では自分を誇り、人を見下していると書かれています。5章では教会の人々の中にみだらな行いがあり、6章では仲間と言い争い、仲裁できずに裁判に訴えることが問題とされています。7章では、結婚関係に問題を抱えていることが挙げられ、8章では偶像に捧げた肉のことで争いがあったことが記されています。

 ここ迄でまだ半分ですが、もうこれ以上あげなくてもいいかもしれません。どうでしょうか。ちょっとこんな教会の牧師になるのは嫌だなと、思ってしまいたくなるほどの問題の数々です。これらの内容から分かるのは、コリントの教会の人々は、キリストの福音に触れているはずなのに、その福音がなんら生活に影響を与えていなかったと言えるのかもしれません。

 福音が分かっているはずなのに、分かっていないのです。

 昔、東京の銀座教会で牧師をしていた渡辺善太牧師が、『わかって、わからないキリスト教』というタイトルの説教集を出されたことがあります。

 その説教の中で、キリスト者が信仰に進むためには、必ずと言っていいほどの三つの段階があると言っています。まず第一段階は「わかったゾ」という段階です。信仰に至るには皆それぞれ違いがありますが、「わかった」という時には、神がこの天地を創造された方であることがわかる。自分が罪人だということがわかる、そう言って洗礼に進んでいくと言います。

 次の第二段階は「わかって、わからない」という段階が来ると言います。そこでいろんな方の証を聞いてみると、自分にはあまり神様が働いているように感じない、神の力があまり感じられないことに気づくわけです。そうなると、自分の信仰はどこかおかしいのではないかと疑問を抱くようになります。あるいは、教会に来て、一年なり二年なり経つようになるとだんだんと他の人のイヤな部分が見えるようになってくる。そこで、わかったはずなのに、わからないという部分が出てくるために、迷いが生じるようになるというのです。

 そして、そこから抜け出すためには、主イエスに従っていくことを主イエスが求めておられることに目を向けるようなっていく必要があることを語っています。そうして、このお方、主イエスに自分をかけること、頭だけの理解だけではなくて、自分が、み言葉に生きることが、必要なのだということに気づくようになると言っています。

 そして、三段階目として「わかって、わかった」という部分にたどり着くわけです。この三段階目に来て、「信仰は何でなくて、何か」ということがわかるようになると言います。「何でない」というのは、たとえば「律法ではない」とか、「戒めではない」ということが分かってくる。福音に生きるということがわかるようになるというのです。そうなると、それまで「点」で理解していた信仰が「線」で繋がるようなって、信仰が動き出すようになるというのです。道筋が見えるようになるというのです。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 24 日

・説教 ルカの福音書11章1-4節「祈りをおしえてください~主の祈り1」

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2023.12.24

鴨下直樹

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 クリスマスおめでとうございます。クリスマスにお生まれになられた主イエスの祝福が皆様の上にありますようお祈りします。

 今日は、クリスマス・イブです。でも、今は朝の礼拝なので、イブというのはなんだか変な感じがするかもしれません。みなさんは、今日の週報に待降節第四主日と書かれているので不思議に思われる方もあるかもしれません。

 「クリスマス・イブというのはクリスマスの前夜祭です」そんな説明が巷ではなされることがあります。そういう理解だと、今日のような24日の朝の礼拝が、待降節第四主日だということが分からなくなってしまうのかもしれません。

 当時のイスラエルの暦というのは、日が暮れたところから一日が始まるという理解があります。ですから、24日の夜に主イエスがお生まれになったと考えると、その日はすでにイスラエルの考え方では25日になったわけで、それで25日がクリスマスということになったのです。でも、私たちの暦では深夜の12時を過ぎてから日付が変わります。主イエスがお生まれになられた夜は、まだ24日ですから、24日の夜のことを「クリスマス・イブ」と言ったり、「聖夜」と言ったりするわけです。

 ですから、今朝のこの24日の礼拝は、厳密に言うと日が暮れていませんからクリスマス・イブではないことになります。なので、今朝は少しまだるっこしいのですが待降節第四主日という言い方になってしまうのです。

 先ほど、私たちはスキット(寸劇)で宿を探すヨセフとマリアの場面の聖書の物語を聞きました。人々が、長い間待ち望んでいたはずの救い主がお生まれになられるのに、実際にはそのことに誰も気づかなくて、マリアとヨセフは宿を見つけることができなかったのです。とても残念な出来事でした。

 今日の礼拝は、子どもたちも一緒にこうしてみ言葉を聞いています。この日の夜、サンタさんがクリスマスプレゼントを持ってきてくれることになっています。どうでしょう、子どものみなさんは、明日の朝、プレゼントが届いているのに、それに気づかないなんてことがあるでしょうか? もし気づかなかったら血眼になって探すかもしれないですね。
 
 私が小さかった時、小学生の低学年の時に、朝起きるとクリスマスプレゼントにセーターとくつ下が入っていたことがありました。そういう時代だったといえばそうなのかもしれませんが、子どもの私は、その事実を受け入れることができませんでした。欲しいものが沢山あったのに、よりによってセーター? くつ下? 弟も姉も、その年は同じような衣類で、微妙な顔をしていました。もう記憶があまりないのですが、たぶん両親に泣いて抗議したのだと思います。でも、もうプレゼントは届いてしまっているわけで、返品も交換もできません。

 願い事というのは、強ければ強いほど、それが実現した時には、「願ったものはこんなものではない」という思いが強くなるのかもしれません。

 旧約聖書の時代から、神の民であるイスラエルの人々は救い主が与えられることを願い、祈り続けて来ました。そして、待ちに待った救い主が、この夜にお生まれになられました。今は、世界中でこのクリスマスのお祝いをしています。救い主イエス・キリストのことをよく知らない人でさえ、このクリスマスをお祝いしています。

 けれども、お生まれになられた時は、誰もマリアのお腹に神の御子であられる救い主が宿っておられるとは気づきませんでした。それこそ、どこにも身重のマリアを泊める家もないほどに、無関心だったのです。あんなに楽しみにして、長い間たくさんの人たちがお祈りしてきたのに、ちょっとびっくりしてしまいます。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 17 日

・説教 ルカの福音書10章38-42節「マルタへの福音」

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2023.12.17

鴨下直樹

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 何年か前のことです。誰と話したのかあまり覚えていないのですが、その方は、「私はこのマリヤとマルタの話が嫌いです」と言われました。その言葉だけが私の耳に残っています。「一所懸命奉仕をして、もてなしているのに、これではマルタが浮かばれない」ということのようでした。

 反対に、この話が大好きですという方も何人かあるのだと思います。よく知られた話です。私自身も、聖書の話ということとは関係なく、「どちらが正しくて、どちらかが間違っている」と一方的に断罪される話はあまり好きではありません。そのどちらにも言い分というものがあると思うからです。

 実際どうだったのでしょう。マルタはこの時、主イエスに咎められて胸が締め付けられたのではなかったか。「どうして自分ばかりが損な役回りをしなければならないのか」そんな思いが心の中に浮かんできたのではないかと思うのです。

 私たちの周りには理不尽な出来事というのはいくらでも存在します。私たちはこの「理不尽さ」というものに対して、子どもの頃から立ち向かって生きていると言っても言い過ぎではないと思うのです。細かな例を上げなくても、みなさんも心の中にいくつも浮かんでくるのではないでしょうか?

 そんな時、私たちは理不尽さに対して憤りを覚えたり、心をすり減らしたりしながら耐えている。職場でも、家の中でも、地域の中でも、この理不尽さというものは存在するのです。

 マルタの家に主イエスたち一行がやってまいりました。前の話の流れからすれば72人という大所帯です。もし主イエスと12人の弟子たちだけであったとしても13人いますから、もてなす方としてはかなり大変だということは想像できます。

 前のところで、主イエスが律法学者のシモンの家を訪ねたときには、ここでは「あなたは足を洗う水をくれなかった」と言われています。そんな主イエスの言葉を耳にしていたとすれば、弟子たちの足を洗う水の準備だけでも大変だったと思うのです。今のように水道のある世界ではありません。もし72人もいたと考えると、考えるだけでも恐ろしいことです。

 今の日本のようにお茶を出す習慣があったとは思いませんが、手を洗う水や、飲み水の準備もあったかもしれません。弟子たちを座らせるだけでも、一苦労だったに違いないのです。

 そして、気づくと、おそらく妹だと思うのですがマリアを見ると、弟子たちと一緒になって腰を下ろしている。

 私がマルタでも、マリアに一言言ってやりたい気持ちになるのは当然のことです。もちろん、マルタにも良くないところがあります。せめてマリアの耳元で「ちょっと大変だから手伝って!」と言えばよかったことを、こともあろうに主イエスに当たるかのように言ってしまいました。 (続きを読む…)

2023 年 12 月 10 日

・説教 ルカの福音書10章25-37節「隣人となる愛」

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2023.12.10

鴨下直樹

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 今日の聖書の箇所は「善きサマリア人のたとえ」と呼ばれるところです。ルカの福音書の譬え話の中でもよく知られた譬え話です。

 内容は、お聞きいただければよく分かると思います。隣人を愛することとはどういうことなのかが、記されています。しかも、この譬え話は、イメージしやすい物語として語られています。ここに出てくるサマリア人というのは、ユダヤ人たちとはあまり仲が良くありません。言ってみれば敵対関係にあるような、そんな民族同士の争いを抱えている間柄です。そして、この物語の主人公となるサマリア人は、まったく偶発的に、この出来事に巻き込まれていくわけで、隣人を愛そうと思って、愛の業を行ったという話ではないのです。

 こういう話を私たちが読む時に、どうしても考えてしまうのは、どうしたら私たちは隣人に親切にできるようになるだろうかということです。道徳の教科書でも読むかのようにして、この譬え話から、「教訓」を導き出そうとしてしまうのです。けれども、私たちはそういう聖書の読み方を、一度立ち止まってよく考えてみる必要があります。

 このような出来事は、私たちの周りにはいくらでもあります。そして、私たちはこういう出来事を経験する時に、いわゆる「建前」としては、何をどうしたら良いかということは、よく分かります。けれども、「実際のところ」あるいは「本音」では、それができないということに直面させられるのです。

 先日、ある牧師から連絡をいただきまして、今、拘置所にいる方が教会に手紙を書いてきて、コンタクトを取りたいと言ってきているというのです。自分は対応できないので、岐阜県のキリスト教会の教誨師の方を紹介して欲しいということでした。拘置所にいるということは、今裁判中ということのようです。私はその話を伺って、教誨師を紹介しました。ところが、その教誨師は現在、病気の治療中であり、また自分は日本人ではないので手紙でコンタクトを取ることが難しいという返事が返ってきたということでした。あとでこの牧師から直接お話を伺ったのですが、刑務所にいる受刑者の方への教誨師の働きはされておられたのですが、裁判中の拘置者と連絡を取ることは困難だというご事情があったようでした。

 私はその話を聞きながら、このサマリア人の譬え話の、祭司やレビ人と同じことが起こっているなと感じるわけです。今困っている人を助けたいという気持ちはあるけれども、いろんな事情があって助けることができないのです。きっとこの譬え話に出てきた祭司やレビ人にだって、説明のつく助けられない事情があったのです。

 一方で、やはり助けてやるべきではないか、という思いがないわけではありません。けれども、そう思うと同時に、この話の相談を受けた私自身の中にも、この牧師はその立場にいるからやるべきだけれども、その時に私自身はどこか外からそれを眺められる所に立っているのだということもまた、考えさせられてしまうのです。

 結果としてどうなったのかというと、はじめに連絡をしてきてくださった牧師が直接対応されることになったようです。私も、何かあればコンタクトを取りますと昨日お伝えしたところでした。

 私たちは、「建前」では、何をすることが良いことなのかということは、誰でもある程度理解できます。けれども、実際にそれを行う時の難しさというものをどうしても意識せざるを得ないのです。 (続きを読む…)

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