2015 年 3 月 22 日

・説教 ヨハネの福音書10章31-42節 「殺意の中で」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 16:16

2015.3.22

 鴨下 直樹

 最近、インターネットでもニュースが読めるようになりました。そのようなニュースの中にはその記事に自分の感想を書き込めることができるようになっているものを見かけます。そういったニュースの中で、最近起こった一つの殺人事件の記事を見かけました。あの中学一年生を殺害した18歳の少年の記事です。その記事によると、この18歳の少年は周りの仲間に囃し立てられて歯止めが効かなくなって殺害に及んだという内容でした。すると、それを呼んだ読者の反応が載せられていますが、どれも、この少年を死刑にすべきだという意見を書いていました。そこに、自分もそう思うという同意する意見が何万件と寄せられているのをみて、私はびっくりしてしまいました。

もちろん、この少年の反抗は短絡的なもので、人々が理解できるような同情をさそう要素は何もありません。けれども、そこで、みんなが寄ってたかって未成年の事件は刑が軽いからやはり未成年にも刑事責任を問えるようにする必要があるのではないかとか、成人であれば死刑に相当するから死刑にした方がよいなどと、みんなが裁判官にでもなったかのようにして、この事件に対してそれぞれな思いのままの意見を発信します。そこには、自分の名前が出るわけでもありませんし、また、その意見に対して「同意する」というボタンであれば誰でもその意見に投票できます。

誰もが自分の目の前で起こった不快な事件を、そんな人間はいなくなってしまえばそれで解決として結論をだす。それに対する問いかけもなければ、自分にもそういうことが起こりかねないのではないかなどという洞察もありません。私が心配になるのは、こうやって、人々はこういう自分本位な意見が載せられたニュースばかり読んでいると、どんどん自分で考える力を失っていって、ますます人の顔色を見ながら生きていくようになるのだろうかと気になって仕方がありません。

 

しかし、もちろん、それは今に始まったことではありませんでした。今日の説教題を「殺意の中で」としました。主イエスの業を見て、話を聞いていた人々が、ここでもまた、「主イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた」という言葉から始まっているのです。理由はその前に書かれています。 (続きを読む…)

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