2015 年 12 月 20 日

・説教 ルカの福音書2章8-20節「主の栄光の輝きに照らされて」

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2015.12.20

鴨下 直樹

 

 暗い夜道を歩いていると、突然、すぐ前の家の戸が開きました。すると、真暗であったところに、急に、家の中の明るい光が輝いて来るのです。その光の中で、はじけるような、家の中の楽しい笑い声が聞こえます。誰かを送り出そうというのでありましょう。やがて、ひとりの人が出て来ます。家の中からは、この人を見送るにぎやかな挨拶が聞こえてくるのです。すると、戸が閉じられます。道は、またもとのままの暗さになってしまいます。出てきた人も、闇の中に呑まれてしまって、あたりは、前と同じようになってしまうのです。
 こういう経験をなさったことのある方は、少なくないと思います。ところが、クリスマスの夜の有様は、それによく似ているのです。

 これは、竹森満佐一牧師のクリスマスの説教の冒頭部分です。私の書斎にはいくつもの説教集がありますけれども、おそらく一番沢山あるのはクリスマスの説教集です。クリスマスの聖書の箇所というのはそれほど多くありません。けれども、毎年、クリスマスの説教をする必要があるのでどうしても常に新しい発見をしたいと思うので、クリスマスの説教ばかりが集まってしまいます。ですから、この時期に私はいつもよりも沢山のクリスマスの説教を読むことになります。その中でも、毎年同じ説教を何度も何度も読み返すものがあります。いつか礼拝で紹介したいと思いながら、今日まで出し惜しみして来たのですが、今日、少し紹介させていただきました。もう、この説教を読んでいますと、それをそのまま初めから最後まで読みたくなるほど、私はこの人の説教に引き込まれてしまいます。今日の聖書を説教するのに、これ以上ないというほどに、見事な描写です。

 暗闇の中で夜番をしていた羊飼いたちがほんの一時、天が開けて天のありさまを垣間見た心情を、今の私たちの生活のある場面になぞらえてみながら、この出来事がどういうことであったのか、そこに思いをいたらせるのです。ここで、羊飼いたちが見た、天の輝きが天からこぼれ出て来たありさまは、夜に、家のにぎやかな声が闇夜にこぼれ出てきたのとは、実際には比較できないほどのものであったに違いありません。けれども、この説教の描写は、この時の出来事がどういうものであったか私たちに知らせるには十分の役割を果たしています。
 クリスマスの夜、それは沈黙の夜でした。クリスマスに賑やかだったのは、この地上ではなくて、天上の出来事です。天の御国のあるじを送り出すために、天使たちがグローリアを歌い、まだ、状況もよく呑み込めない羊飼いたちがその歌声を聞く光栄を与えられたのです。このクリスマスの季節にはいたるところで演奏会が行われます。バッハのクリスマスオラトリオやアベ・マリア、ヘンデルのメサイア、ベートーベンの第九とかがこの時期に各地で演奏が行われます。そういう素晴らしいコンサートにも比べられないような賛美がきっとこの時、天から捧げられたのでしょう。

 クリスマスの賑やかさ、華やかさは本来、地上でつくりだすものではなくて、天にすでにあったものです。私たちがそのことを忘れて、自分たちでクリスマスの楽しさを作り出そうとするのはやはり無理があるのだということに目を止める必要があるのだと思います。
 羊飼いたちが野原で夜番をしていた時、地上では眠りについていました。天では、神のところではあわただしくクリスマスの夜を備えておられたのでしょう。しかし、地上では誰も気づいていなかったのです。ここにクリスマスの大切な意味があります。

 クリスマスは何の備えも、用意もない、夜の闇が支配しているこの地上の世界に突如としてもたらされたのです。つまり、それは誰でも、このクリスマスに招かれているということです。自分で、クリスマスを作り出すのではなくて、思いがけず、天から与えられるもの。それがクリスマスなのです。 (続きを読む…)

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