2016 年 4 月 3 日

・説教 ヨハネの福音書20章19-23節「新しく生きる者とされて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 11:55

 

2016.04.03

鴨下 直樹

 
 今日は、説教に先立ちまして、二人の方々の洗礼入会式がとり行われました。洗礼をすでに受けられた方にとっては、洗礼式というのは、洗礼を受けられる方への喜びを感じる時であると同時に、自分の洗礼の時の想いを新たにする時でもあると思います。今日の説教題を「新しく生きる者とされて」としました。

 復活節の第二番目の主の日には名前がつけられていまして「クアジ・モド・ゲニティ」といいます。新しく生まれると書いて日本語では「新生」という日です。まさに、この日に、二人の方が洗礼を受けられて新しく生きる者とされたことを嬉しく思います。洗礼式というのは、まさに、この水の中で古い自分は死んで、新しく生きる者とされたことを明らかにする時です。

 先週、教団の学生キャンプが行われました。そこには50名を超える若い学生の方々が参加していまして、私はとても嬉しい気持ちになりました。教団全体で、「次世代への献身」という課題をもってこの五年間を歩んでいきたいと思っているところで、多くの学生たちがキャンプに参加しているのをみて、嬉しい気持ちでいるのです。そこで、私は最終日に「礼拝」についてメッセージしてほしいということでした。以前、私は教団の学生会担当の牧師でしたので、学生たちといつも向き合ってきましたけれども、教団の学生キャンプに参加したのは、12年ぶりです。ドイツに行くときに学生会の働きを終えて以来でした。いつも、芥見の教会では学生たちに話していますけれども、普段関係を持っていない学生たちに説教をして言葉が届くのか、少し自信がなかったのです。けれども、とても学生たちが喜んで説教を聞いてくれて嬉しく思いました。テーマは「礼拝」です。中学生、高校生の時に、それまでは、親に連れられて何となく教会に行っているわけですけれども、少しづつ大人に近づいていくにつれて、親の信仰ではなくて、自分の信仰の歩みということをどうしても考えるようになります。そこで、実にたくさんの学生たちが礼拝の喜びを見出せなくて、教会から離れてしまうということが起こってしまうわけです。

 私はそこで、「礼拝」というのは何のためにあるのかということについて、まず話をしました。というよりも、人間は礼拝をするために生きているのだということを語りました。人間として生きるということは、礼拝をするということと同じです。礼拝をしないということは、人間をやめるということです。いくつかのキーワードを上げて説教をしたのですが、礼拝という言葉にはいくつかの言葉がありますけれども、その中のひとつに「ラトレイア」というギリシャ語があります。ローマ書12章1節に書かれている「礼拝する」と訳されている言葉です。この言葉はとても面白い言葉で、「ラオス」、「民」という言葉と「エルゴン」、「仕事」という言葉の合成語です。つまり、礼拝というのは、民の仕事、奉仕であるというわけです。神の民は礼拝をするのが仕事なのです。けれども、私たちが安息日に礼拝をするために、神はそれに先だって六日間かかってこの世界をお造りになられて、すべてを備えてくださいました。人間は何も働かないで、最初にしたのが安息日を迎えるということだったのです。神は、私たちがこの世界で生きる前にすべてのものを創造して、整えてくださって、そうして、人間は礼拝をすることによって、人間の業をはじめたのです。 (続きを読む…)

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