2016 年 6 月 5 日

・説教 エペソ人への手紙3章1-13節「福音の奥義を知る者として」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 16:26

 

2016.06.05

鴨下 直樹

 
 みなさんは、自分が何者なのかということについてお考えになったことがあるでしょうか。不思議なことに、この問いは、私たち自身を問う問いですから、日ごとに自分に問いかけるべきものなのだと思うのですが、年を経るごとに問わなくなってしまう傾向があるように思います。自分が確立していない、そのために、何者かになろうとしている時期というのは、自分自身に問いかけるものです。けれども、次第に、諦めとともに、自分のことが分かったつもりになる。あるいはそれは、自分で、自分に期待できなくなるということと同じかもしれないのですが、何かになろうとすることを止めてしまうことによって、自分に対して期待心もなくなってしまうことが多いのです。

 私が言うのも変なことかもしれないのですが、若い、青年を見ていると、そのことを顕著に感じます。私からすれば、まだその人には無限の可能性があるように思えるのですが、中学、高校、大学を卒業し社会に出ると、なんとなく、自分はこのくらいの人間だということを周りを見ながら、納得してしまって、それ以上の自分になることを諦めてしまっている気がするのです。それは、ひょっとすると、私よりも年上の方々は、私くらいの年齢の者についても同様に感じているのかもしれません。私自身、最近、自分の口から、自分についてよく否定的な言葉を使っていることに気が付きます。これまでの牧師としての経験や、通って来た道のりを振り返りながら、まぁ自分はこんな程度だろうと、自分に見切りをつけてしまっているのです。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉は、エペソ人への手紙の第三章です。今日はその1節から13節までのところですが、ここでパウロは少し唐突に、自分のことを語り始めます。自分が何者なのかといことを書いているのです。実は、この箇所はこのエペソ人への手紙の中でも、特に重要な位置を占める箇所です。というのは、ここに書かれている内容で、ある人は、これはパウロの言葉ではないのだといい、ある人は、ここにこそパウロらしさが記されているのだという人もあります。あるいは、パウロと、パウロと一緒にいた仲間たちのことがここから読み取れると考える人もおります。私は、このエペソ人への手紙の説教を始めました時に、この手紙がそういう議論があるけれども、伝統的にパウロが書いたものとして受け止められて来たことを重んじて、パウロが記したものとして語りたいと言いました。このことは、このエペソ人への手紙を理解するうえでとても重要なことです。
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