2016 年 7 月 17 日

・説教 エペソ人への手紙4章17-5章2節「新しい人を身につけて」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 15:57

 

2016.07.17

鴨下 直樹

 
 クリスチャンになる前と、クリスチャンになった後と、私たちの生活はどのように変わるのでしょうか。洗礼を受けられた方は、ひょっとすると、自ら水をくぐって出た瞬間から新しい自分になることをイメージしていて、なかなかイメージ通りの急激な変化が起こらないことでがっかりしたという経験をお持ちの方があるかもしれません。パウロはここのところから、クリスチャンになるとどう変わるのかということを書いています。

 先日の聖書学び会で、こんな質問がありました。「先生は以前の説教で、良いと思って話した言葉であってもそれで相手が傷ついたり、躓いてしまったりしてしまうことがある、と言われたけれども、ではどうしたらいいのか」と尋ねられました。実に的を得た質問だと思います。自分はその人のために良かれと思って話したことばで、相手が傷ついてしまう。どうしようもないではないか、というわけです。この前の箇所の言葉、たとえば15節に「愛をもって真理を語り」とあります。自分としては愛をもって真実に話したつもりの事が、相手に躓きを与えてしまう場合があるとすると、何も話せなくなってしまうという恐れが生まれてくるわけです。

 パウロはこの手紙の中で、まず信仰に入る前、キリスト者になる前はどうであったのかということを17節から19節で丁寧に語っています。しかも、ここでは「主にあって言明し、おごそかに勧めます」と書かれています。ここに二つの言葉を重ねているのですが、「言う」という言葉と、「宣誓する」という言葉です。「宣誓」というのはもうしばらくするとオリンピックが始まりますけれども、選手たちが競技の始まる前に誓いをします。正々堂々と戦うと。そういう公に宣言するという言葉です。パウロからすればこれから私が話す言葉はそのくらいの覚悟を持って話すので厳粛な気持ちで聞いてほしいというわけです。
 それで、何を語っているのかと言いますと、「異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではならない」というのです。

 ご存知のように、この手紙の受取人は、異邦人たちでした。もともとユダヤ人であったわけではないのです。この異邦人というのはどういう人かというと、続く18節と19節ですが、

彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。

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