2017 年 12 月 3 日

・説教 マルコの福音書3章20-35節「新しい家族」

Filed under: 礼拝説教,説教音声 — susumu @ 18:06

2017.12.03

鴨下 直樹

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 アドヴェントの第一週を迎えました。先週、教会でも大掃除をいたしましてクリスマスツリーの飾りつけをいたしました。みなさんの家でもツリーを飾っておられる家もあるでしょうか。この季節は日に日に寒くなります。それで、家でストーブを焚いたり、こたつを入れたりして、暖かい家でくつろぐことが多くなるのではないでしょうか。家族の多い所ではどうしても暖かい部屋に人が集まって来るということが自然なのだと思います。ただ、残念なことに家にたくさんの人が集まりますと、どうしても衝突が起こりやすくなってしまいがちです。

 今日の説教の題を「新しい家族」という題にしました。携帯電話のCMの話しではありません。聖書の話しです。今日の聖書の箇所は「イエスが家に戻られると」という言葉からはじまります。「家」というと家族のいる家をイメージするのですが、読み進めていきますと「イエスの身内の者たち」が主イエスを連れ戻すために登場してきます。ですから、この「家」というのは、主イエスの実家ということではないようです。恐らくカペナウム周辺のペテロの家を指しているのだと思います。

 多くの人目を避けて家に戻って、主イエスと弟子たちはくつろぐことができたのかというと、そうではありませんでした。食事の暇もないほど大勢の人が訪れて落ち着くことができなかったのです。しかも、そこに、主イエスの身内の者、おそらく母マリヤと主イエスの兄弟たち、たとえばヤコブとかユダという聖書の後の方に記されている手紙の著者たちは主イエスの兄弟であったと書かれていますから、そういう兄弟たちがやってきて、主イエスを連れ戻そうとしたようです。理由は「気が狂ったのだ」と言う人がいたので、家族としてはこのまま放っておくと、悪い噂がどんどん広がってしまって家の恥になると考えたのでしょう。

 今日のテーマは「家」です。家というのは、くつろぐことのできる場所、生活の場所という意味が大きいのですが、その他にも色々な役割があります。家というのは家族で守っていくもの、支え合っていくものということもできるわけです。それは特に社会に対しての家族の責任、役割というものがあるわけです。その家の中で「気が狂った」という噂がたてられてしまったのがイエスです。家族は当然、必死になって火消しにやっきになります。

 この「気が狂った」という言葉ですが、「自分の存在から外にでてしまう」という意味の言葉です。エクセステーという言葉で、この言葉から英語のエクスタシーという言葉ができました。自分の外に出てしまう。我を忘れてしまう。我を失ってしまう。そういう言葉です。家族、身内の立場から考えると、自分たちの外に出てしまった。我を忘れて恍惚状態に陥ってしまって、手に負えないところに出て行ってしまった。自分の家族の中からそういうものが出てとなった時に、家族としてはそんな恥ずかしいことは外に出さないように、もう一度自分たちの中に収めようとするわけです。だから迎えに来たわけです。

 それは子どもを持つ親としてはよく分かることだと思うのです。自分たちの理解の外に子どもが飛び出していこうとすると、必死になって、何とか手のうちに収めようと考えるのです。それは、家族を持つ者の悩みです。そして、できれば、安心して外に出て行くことが出来るようになってから、子を送り出したいと願うものです。その時、家族としてはどうやって独り立ちしようとする子どもを送り出してやることができるのか、その親としての態度がまた求められるのです。
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