2019 年 6 月 16 日

・説教 マルコの福音書15章1-20節「人の裁きと神の裁き」

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2019.06.16

鴨下 直樹

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 この箇所の中に、私たちが見たいと思うものは何一つありません。主イエスがピラトによる裁判を受け、バラバが解放され、そして、その後主イエスのむち打ちと、主イエスに向けられる兵士たちの嘲笑の姿が示されています。人を愛し、人が神の御心に従って生きるようになることを望まれた主イエスに待ち受けていたのが、この受難のお姿であったのです。

 ここを読むときに唯々、気持ちが重くなり、大きな悲しみと何とも言えない重たい気分が私たちの心を襲うのです。しかし、聖書はこの私たちが見たいと望まないものを私たちにしっかりと見て、受け止めるように要求するのです。そして、その先にしか希望が生まれてくることはないのだということを、私たちに悟らせようとしているのです。

 祭司長たちの裁きの後、夜明けとともに

祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。

とこの1節は記しています。ピラトが裁判を行うというのに、いったいどんな協議が必要だったというのでしょう。祭司長たち、長老たち、律法学者たちはなぜそこまで執拗に主イエスを貶めたいのでしょう。「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである」と10節では、伝えています。

 ここで明らかになっている人の罪の姿はねたみだというのです。多くの人にとって、人の自慢話を聞かされることは苦痛です。人によっては人の幸せそうな姿を見ることで、心を痛める人がいます。かえって、人のうまくいっていない話や、苦労話の方が心をひきつけ、共感を生みやすいのです。私たちの心には優しさもありますから、苦労していた人がそこから抜け出すことができた話は心を打つし、それを喜ぶこともできます。それはそうですが、目の前で自分の幸せをことさらにひけらかすことに対しては、寛容ではいられないという部分があるのもまた、事実です。

 祭司長、長老、律法学者といった人たちは、まさにそのような思いで主イエスを見ていたのでしょう。自分には神がついている。自分が語ることが神の心なのだ。確信に満ちた顔で高らかに神の御心を語るイエスの姿に、彼らは我慢の限界を迎えていたのです。果たして誰が、自分が自信を持って語っている事柄について、自分の考えに自信を持っているということに対して、それは違う、本当はこうなのだと人前でその誤りを指摘されることを喜んで受け入れることができるでしょうか。

 主イエスの(ただ)しさが、主イエスの愛が、主イエスの聖さが、自らの痛みとならない人は残念ながらいないのです。ここに、この祭司長たちの姿の中に、私たちは自分自身の姿を見出してしまうのです。 (続きを読む…)

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