2019 年 11 月 3 日

・説教 テサロニケ人への手紙第一 4章1-8節「愛と平和と寛容と」

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2019.11.03

鴨下 直樹

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 今日の説教題を「愛と平和と寛容と」としました。題を見て、「喜びと祈りと感謝と」の間違いではないかと思われた方が何人もおられると思います。今日の箇所はテサロニケの手紙の中で最も有名なこの言葉があるところです。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。

 この言葉を、ご自分の愛唱聖句としておられる方もたくさんおみえになると思います。祈祷会に来られている方の中でもお二人の方がこの言葉を選んでいると話してくださっておりました。このみ言葉は、このテサロニケの手紙の中でも、もっとも印象深い言葉として、多くの人の心をひきつけます。けれども、まず今日は、この聖句が書かれている12節から22節に何が書かれているのかということにまず目を止めたいと思います。

 ここに書かれているのは、キリスト者の態度が書かれています。まず、教会に立てられて、労苦し、指導し、訓戒している人たちに対する態度が書かれています。みなさんはすぐに牧師のことをイメージするかもしれません。テサロニケの教会にはこの時、パウロやテモテといった指導者はおりませんでした。その時立てられた長老や執事たちということになるかもしれません。いずれにしても、この後の時代になって、教会には立てられている人と、信徒と言われる人々が登場することになります。「その人たちを重んじ、その働きのゆえに愛をもって、この上ない尊敬を払いなさい」と書かれています。愛をもって尊敬する。そのことが教会の平和を作ると言っているのです。尊敬することができなくなると、平和はなくなってしまいます。それは、教会の中に限ったことではありません。職場でも地域でも、友人関係でも家族でも同じです。

 ここのところを新改訳聖書は「この上ない尊敬」と訳しました。これはちょっとギリシャ語では面白い言葉が使われていて、岩波の翻訳では「あなたがたが(諾い)〈うべない〉認めるように」と訳されていました。この「うべない」という言葉はかっこ書きなのですが、わたしはこの「うべなう」という日本語を使ったことがないので、意味を調べてみますと「願いや要求を引き受ける。同意する」とあって二番目の意味には「服従する」と書かれていました。

 この言葉は「認める」という言葉に前に「満ち溢れる」という意味の言葉の「ヒュペリエクペリスー」という言葉が使われています。この言葉のもとの言葉である「ペリセウオー」という言葉は「満ち溢れる」という意味で、その強調系が「ヒュペリペリセウオー」という言葉ですが、さらにその言葉を強調して「ヒュペリエクペリスー」という言葉で強調しているのです。これを今度の新改訳は「この上もない」と訳しました。ただ、この言葉はその後の「認める」という言葉にかかると理解すると「尊敬する」という訳になりました。この間には愛するという言葉ありますから、この愛するという言葉にかかると理解すると、「心から愛し敬いなさい」という翻訳にもなります。そう訳したのが、今度出た協会共同訳の翻訳です。岩波の「うべない認めるようにお願いする」という翻訳でもわかるように、これはただならぬ認め方だということが雰囲気として伝わるのではないでしょうか。

「この上もない愛に満ち溢れて受け入れる」ということが、この言葉の意味です。ここで大きな意味を持っているのは愛です。私たちがものすごく頑張って受け入れる努力をする、必死に認めていくということではなくて、この上もない大きな愛をもって受け入れていくということです。それは、教会に立てられている人も、そのような愛に満たされながら、労苦し、指導し、訓戒していく勤めを主から託されているということになります。ですから、執事や、長老、牧師、宣教師のために祈っていただきたいし、そうやって、教会の平和が築き上げられていくということを、心にとめていただきたいのです。

 これは、その後に書かれている14節と15節の勧めも同じです。

兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい

とあります。兄弟たちとありますから、これは教会の人々みなに語られた言葉です。教会にはいろいろな人がいます。怠惰な者、小心な者、弱い者、そういう人たちに寛容であるように、それこそ、愛を持って受け入れることをここでも、求めているのです。これは、自分は弱い人だとか、自分は怠惰な部類に入るかということではなくて、誰もが、このどれかに入ることだってあるわけです。だから、みながお互いに、お互いの弱さを受け入れあっていく、すべての人に対してそれぞれが寛容であるようにとパウロは勧めるのです。

 そして、また、「悪に対して悪で返さないように」ということを勧めるのです。「やられたらやり返す」、少し前に流行ったドラマの言葉だと「倍返し」という言葉がありました。そういう発言をすることが認められるような社会に私たちは生きています。けれども、それをやっていたら、この世界には憎しみだけが膨らみ続けてしまいます。主は私たちにそのように生きることを求めてはおられないのです。 (続きを読む…)

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