2020 年 4 月 26 日

・説教 創世記24章1-9節「イサクへ、次世代へ継がせるもの」

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2020.04.26

鴨下 直樹

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午前9時よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。

 
 毎年、4月の第四週には、教団役員研修会が行われています。今年は、この新型コロナウィルスの拡大防止ということで、残念ながら中止になってしまいました。役員研修会は、各教会の長老や執事、役員がみな参加してその年のテーマでしばらくの時ですけれども、様々なテーマの研修の時を持っています。昨年は、今教団の五か年計画で「次世代への献身」というテーマを掲げていることもあって、教団の20代、30代の若い牧師や宣教師たち6名だったでしょうか、それぞれ描いているビジョンについて語ってもらうというテーマでした。

 その中で大垣教会の伊藤牧師がアブラハム世代、イサク世代、ヤコブ世代という言葉を使いまして、自分はイサク世代なんだという話をされました。実際に伊藤牧師は牧師の家庭に生まれた、二代目です。ただ、彼はそういうことではなくて、この同盟福音の第一世代のクリスチャン家族が、クリスチャンホームを形成して、信仰がその子どもたちに受け継がれている。そういう意味で、自分たちの世代のことをイサク世代であると定義して、その後に続く神様の祝福の担い手になりたいのだという話をしてくださいました。そして、先日この伊藤牧師にも三世代目の赤ちゃんが生まれたそうですから、なおさら伊藤牧師は今このことを願っておられるのではないかと思います。

 アブラハムにしても、ヤコブにしてもそうですが、聖書の中でもこの創世記の二人のことは非常に大きく取り上げられています。けれども、その間のイサクというのはあまり大きな出来事がないという印象があるのかもしれません。けれども、イサクがアブラハムの信仰をしっかりと受け継いだから、その信仰がヤコブへ、イスラエルへと受け継がれていったわけです。その意味で、二世代めのイサクの持っている意味が重要だということができると思います。

 今日は、この創世記の24章1-9節までとしました。ここにはまだイサクは出てきません。ここは父アブラハムの最後の仕事といってよいかもしれません。さて、そこで聖書は何といっているか、少し見てみたいと思います。

 1節にこう書かれています。

アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主はあらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

 ここでアブラハムが老人になっていたと聖書は書いています。サラを葬った時、アブラハムは10歳年上ですから137歳を超えています。ですからこの時アブラハムはそういう年齢になっているわけです。そして、そのくらいの年齢になって「老人になっていた」という書き方をしているのは、とても興味深い思いがします。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 19 日

・説教 創世記22章20節-23章20節「見えるものと見えないものの狭間で」

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2020.04.19

鴨下 直樹

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 今日のところは、言ってみればアブラハムの生涯の結びの部分です。アブラハムはまだ生きていますが、次のところからはイサクの物語へと視点が移っていきます。これまで、神はアブラハムの生涯に常に介入され続けてこられましたが、ここでは主は出てきません。まるで、アブラハム一人が勝手に行動しているかのような印象さえ受けます。

 ここに書かれているのは、22章の終わりの部分は、イサクの妻となるリベカの家族のことと、アブラハムが妻サラのためにお墓を購入したという出来事が記されています。ここでは特に神が介入されてはいないわけですから、こういう箇所から福音を聞き取るというのは、いったいどうしたら良いのだろうかと、普段聖書を読んでいる方は思うかもしれません。

 先週の金曜日から、私が教えております東海聖書神学塾の講義が始まりました。と言いましても、この新型コロナウィルスのための緊急事態宣言が今度は全国に出されることになり、そのために、神学塾の講義は当面の間オンライン講義になりました。実は一週間前に急遽そのように決めたのですが、講師の先生方には高齢の方もおられますし、塾生もみなすぐにオンライン講義に対応できるとは限りません。それで、先週の金曜日に一度だけ名古屋の塾に集まっていただき、一人ずつ丁寧にやり方を説明しまして、さっそくオンライン講義を行うことになりました。

 私が教えているのは、今年は「聖書解釈学」という講義です。先週の金曜日の講義には8名が受講したのですが、半分の塾生は教室に来て、窓を全部開け、ひとりずつ離れたところに座り、マスクを着けての受講です。ところが、残りの半分の4人はすでにオンラインでやりたいということで、私はパソコンを前に置き、半分はパソコンに向かって話し、半分は目の前の受講生に向かってお話しするというちょっとこれまでに経験のない講義をいたしました。目の前の人がした発言は、少し遠いためにパソコンのマイクで音を拾えません。それで、私がもう一度通訳のように言い換えまして、パソコンの前に座っている人に聞こえるように話しなおして、そして、その質問に答えるというちょっと面倒な講義をいたしました。

 今回は、そういう状態でまだ自宅にいる人には私が用意した講義のテキストも届いていませんから、とりあえずある個所の聖書を一緒に読み、ここをどう読むかという話をいたしました。その箇所は、マルコの福音書の主イエスがご自分の郷里に行かれたけれども、みな不信仰で何もできなかったという箇所です。そこも、今日の聖書箇所と同様に、特に明らかに福音的な言葉が語られているわけではありません。そういう箇所からどう福音を聞き取るのかという話をいたしました。その講義の時にも、お話ししたのですが、私たちは聖書を読むときに、どうしても自分の心に訴えてきそうな聖書の言葉を探して、何か自分にいい教訓のようなものはないだろうかと考えて読んでしまうことが多いように思うのです。

 けれども、そうやって読んでいきますと聖書の大切なメッセージを聴き取り損ねることになりかねません。そういう時に気を付けなければならないのは、聖書がこの出来事から何を伝えたいのかということをしっかりと聞き取ることです。そのためには、その前後の文脈を理解しなければなりませんし、ここで言えばアブラハムの人生の結びの記事として、今日のこの箇所はどういう意味をもっているのかということを、ちゃんと聞き取ることが重要になってくるわけです。

 といっても、これは神学校の講義ではありませんので、できるだけ難しい話はしないで、聖書に耳を傾けていきたいと思います。

 たとえば、今日の22章の20節から24節のところですが、これは、前回のイサクを犠牲としてささげるという出来事の後に、この話が書かれているということが大事で、神はアブラハムの信仰をご覧になってイサクを守られたという出来事と、まったく別のところではイサクの妻となるリベカのことを神はちゃんと備えられているということが記されています。何でもない出来事のようなことですけれども、神の配慮と、神の計画というはこのように進められていくのだということが、ここから語られているわけです。

 そして、この23章のサラのお墓のこともそうです。「サラが生きた年数は127年であった」と1節に記されています。そのうち、アブラハムと共に生きたのは、アブラハムがハランを出たのが75歳で、その時にはもうサラは妻となっていますから、結婚生活が何年だったのかということは、聖書の中に書かれていませんから分かりませんが、アブラハムとサラとは10歳年が離れていますので、サラは65歳から127歳まで、ほとんど人生の半分の年月が、アブラハムと共にカナンの地のあたりでの遊牧生活であったことが分かるわけです。今でいえば、定年退職を迎えてから、その後、一緒に旅をして暮らしてきたと考えてもいいかもしれません。それは、もう一つの人生であったと言うことができるのかもしれません。

 その間には、いろんな苦労がありました。たくさんの悲しみを経験してきた夫婦です。アブラハムからしてみれば、本当に自分の苦しみを共に分かち合ってきたわけです。そういう妻サラが死を迎える。この妻との別れというのは、どれほど悲しい出来事であったか分かりません。しかも、その愛する妻を葬る土地さえもアブラハムはまだ手にしてはいないのです。そのことが、アブラハムにとって更なる悲しみになったことは想像にかたくありません。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 12 日

・説教 ローマ人への手紙6章23節「死と永遠のいのち」

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2020.04.12

鴨下 直樹

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「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  ローマ人への手紙6章23節

 イースターおめでとうございます。今、私はみなさんと共にイースターの喜びをともに分かち合いたいと心から願っています。しかし、今日私の前には教会の皆さんの姿は残念ながらありません。新型コロナウィルスのために県が緊急事態宣言を出しました。そのために、今日もみな自宅からこの礼拝の様子をライブ配信で見たり、あるいは後でホームページから音声を聞かれたり、原稿を読みながら、それぞれの家庭でイースター礼拝を行っておられると思います。しかし、その小さな礼拝のなかにも主は今生きて働いておられ、私たちの礼拝を喜んでお受け下さっておられると信じます。

 今、私たちはこのローマ人への手紙6章23節のみ言葉をともに聞いています。

 「罪の報酬は死である」とこの言葉は語っています。今ほど、この言葉の意味がよく分かるときはないと言えるでしょう。罪は身を亡ぼすことになるということを、今多くの人々が身をもって味わっています。外出自粛要請が出されていますが、その要請に聞き従わないで、自分には関係ないと飲み歩いていた人が、自分のしたことを後悔しているという放送を、何人もの方が目にしたと思います。病になって、自分のしていることが、いかに愚かなことであったかということに気づくようになるのです。

 もちろん、ここでパウロが問いかけているのは「罪」の問題です。パウロはこのローマ人への手紙の少し前のところで、「罪の奴隷」という言葉を使っています。罪が人を奴隷にすると言っているのです。けれども、面白いものですけれども、人が罪の行動を選択するとき、たいていの場合、自分は自由だと思いながらその選択をするのです。罪とは自分のしたいことをするのです。自分は自由なのだ、誰にも支配されないといいながら、実はその人は罪の奴隷となっているのだとパウロは語ります。奴隷には、かならず主人がいます。罪の奴隷の主人というのは奴隷の思いや考えを無視して、その人の意志を奪ってしまいます。

 ここが罪の不思議なところですけれども、自分では自分のやりたいこと、したいことをしている、自分は自由なのだと思っているのに、気づかないままに罪に支配され、罪の奴隷となってしまっているのです。そのことを、「欲」という言葉で表現します。パウロはここではこの「欲」のことを「罪」と言い換えて語っています。自分のしたいこと、自分の欲、それがいつの間にか自分を支配している。気が付くと、自分の欲に支配されてしまっているのだと言うのです。それが、罪の姿なのだと言っているのです。

 今世界中で150万人の人がこのウィルスに感染していると報道されています。実際にはこの2倍以上の人が感染しているとも言われています。この時期、私たちは自分が感染者になっている可能性があるので、外出自粛をするようにと呼び掛けられています。特に、半数の人は自分が感染していることに無自覚であるというのが、今度の病気の特徴です。だから、自分は若いから大丈夫だとか、自分はかからないという自信があるなどと言いながら、自分のやりたいことを優先させてしまって、その結果、感染者は世界中で爆発的に広がってしまっているのです。

 まさに、罪の報酬は死であるというこの御言葉の意味は本当なのだということを、今のこの世界が証明してしまっているのです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 5 日

・説教 創世記22章1-24節「主に試みられる時」

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2020.04.05

鴨下 直樹

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 今日は少しいつもと様子が違います。新型コロナウィルスのためにほとんどの教会の方々は自宅で映像や音声や説教原稿をみながら礼拝を行っていただいています。岐阜県では当面の間、不要不急の外出自粛要請が出されました。いつも教会堂に集いながら礼拝をしておられるので、戸惑いもあるかもしれません。それぞれの場所でともに主を見上げてまいりましょう。

 今日は「棕櫚の主日」と呼ばれる主の日です。そして、今週から受難週を迎えます。主イエスが十字架の苦しみを受けるこの一週間を私たちは過ごそうとしています。私たちは、このレントの期間、文字通り苦しみを心に留めて過ごしてまいりました。新型コロナウィルスに感染した人の数は世界では96万人を超え、世界の半数にあたる人々が今、外出を制限されています。そして、それはこの岐阜市にもやってきました。そのため、今日はみなさんに自宅で礼拝をしていただいて、インターネットを用いて礼拝をしていただくようにお願いしています。とても残念なことですけれども、仕方がありません。この世界が今まさに試練を受けていると言っていい状況にあります。

 今日、私たちに与えられているみ言葉はまさに、この「試練」の物語です。

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。

と今日のみ言葉は始まっています。1節です。

 「試練」と聞くと、私たちは「幸せ」の反対にあるものという理解がどこかであります。幸せを壊すものが試練であると考えるのです。確かに、試練にはそのような性質があると言えます。

 地震や津波のような自然災害、あるいは今回のようなはやり病、伝染病といったものは自然災害などと言われます。私たちはこのような試練を経験する時に、まさに信仰が問われている思いになります。そのような試練がやってくると私たちはどこかで神が、私たちから平和を奪ってしまったような、何か神に見捨てられているような思いになるのではないでしょうか。

 アブラハムのことを考えてみたいと思います。アブラハムは今や、約束の子どもが与えられ、ペリシテからの脅威もなくなり、井戸のあるベエル・シェバの土地で平穏な暮らしをすることができるようになりました。それは、まるで絵にかいたような幸せなひと時であったに違いありませんでした。

「これらの出来事の後、神がアブラハムを試練にあわせられた。」と1節に書かれています。

「試練」によって、アブラハムに訪れていた平和が、幸せが打ち破られた。しかも、神によって、この出来事は起こったと、ここに書かれているのです。主なる神はアブラハムに語りかけます。2節です。

神は仰せられた。「あなたの子、あなたが愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そして、わたしがあなたに告げる一つの山の上で、彼を全焼のささげ物として献げなさい。」

 その日は突然やってきました。幸せをかみしめていたであろうアブラハムに、主なる神は突然、難題を突き付けたのです。しかも、その試練とは、アブラハムが100歳になってようやく与えられた約束の子である息子イサクを、全焼のささげものとして献げなさいという命令です。

 先に生まれた女奴隷ハガルの子イシュマエルは追放してしまっています。そんな中で、あろうことか、約束の子であるイサクまで献げるようにとの命令なのです。これはどういうことなのでしょうか。考えてみれば、神のこれまでの語りかけと、この命令とは矛盾しています。もし、イサクを殺してしまえば神の約束それ自体が無効となってしまうのです。しかも、息子を全焼のいけにえとして殺してしまうということも、理解できることではありません。この神からの要求、これこそが、ここでアブラハムに問われていることでした。

 私たちはどこかでこう考えます。信仰によって幸福感が得られ、不信仰に陥ると不幸になって、試練が訪れるのだと。しかし、それは本当なのでしょうか。私たちは、この受難週を迎えているこの時、神が与えておられる試練の意味をもう一度考えるように促されています。そして、今、世界が抱えている新型コロナウィルスの蔓延という試練が、信仰にとってどういう意味を持つのかということを考えさせられているのです。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 4 日

新型コロナウィルスに関する教会からのお知らせ(4月10日更新)

Filed under: お知らせ — susumu @ 09:37

岐阜県は、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、県独自の「非常事態宣言」を発令しました。
芥見教会の教会活動は、以下のようにいたします。 (続きを読む…)

2020 年 4 月 1 日

今月の礼拝予定(2020年4月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:01

4月5日 棕櫚の主日

主日主題: 試み
聖餐式礼拝家庭礼拝・ライブ配信: 午前9時、午前10時30分
聖書: 創世記22章1-24節
説教:「主に試みられる時」鴨下直樹牧師

午後:聖歌隊練習、役員会

4月10日(金) 受難日

受難日礼拝(中止): 午後7時
聖書: ルカの福音書22章14-21節
説教:「父よ、みこころならば」鴨下直樹牧師

4月12日 イースター・復活祭

主日主題:よみがえり
ファミリー礼拝家庭礼拝・ライブ配信: 午前9時、午前10時30分
聖書: ローマ人への手紙6章23節
説教:「死と永遠のいのち」鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会/月間予定確認会

4月19日 復活節第2主日

主日主題:祈りの生活
公同礼拝家庭礼拝・ライブ配信: 午前9時、午前10時30分
聖書: 創世記22章20節-23章20節
説教:「見えるものと見えないものの狭間で」鴨下直樹牧師

午後:手話講座

4月26日 復活節第3主日

主日主題:嗣業
公同礼拝家庭礼拝・ライブ配信: 午前9時、午前10時30分
聖書: 創世記24章1-9節
説教:「イサクへ、次世代へ継がせるもの」鴨下直樹牧師

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