2020 年 8 月 30 日

・説教 創世記27章46節-28章9節「全能の神の祝福」

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2020.08.30

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 聖書には時々、矛盾するようなことが書かれていて、これをどう理解したら良いのか、わからなくなってしまうような箇所があります。そして、聖書の解説を見ても、そのところはよく分からないということは少なくありません。

 今日は、久しぶりに創世記のヤコブの物語の続きの部分です。少し時間がたっているせいで、もう前回の内容を忘れている方があるかもしれませんので、簡単に前回の箇所を振り返ってみたいと思います。 

 27章の後半で、ヤコブはイサクからの祝福を受けるために、父イサクをだまし、兄エサウを出し抜いて祝福を受け取ります。そして、だまされた兄エサウはヤコブを殺そうと決意します。ところが、そのことに気づいた母のリベカは、ヤコブにここから逃げて、ハランに住んでいるリベカの兄のラバンのところに逃げるようにアドバイスしたのです。

 そして、それに続く個所が今日の箇所です。それが28章で、ヤコブがラバンのところに行く理由が記されています。それが、27章の最後の46節に記されている兄エサウの妻のふるまいです。リベカはエサウの妻のヒッタイト人のために嫌気がさしていて、そのことがきっかけとなって、妻をさがすためにラバンの所に行くようにと書かれているのです。今日のところでは、父イサクは落ち着いてヤコブを祝福し、ラバンの所に妻を探しに行くようにということが記されているわけです。

 27章では、ヤコブはエサウから逃れるために家族から離れてハランのラバンのところに行くことにしているのに、28章では、良い結婚相手を探すために、ラバンの所に行ったという話が書かれているのです。ここには、二種類の別の内容が記されているのです。一体どっちの話が正しい話なのかと考えてしまいます。

 はっきりしていることは、ヤコブが家族のもとを離れた理由について、二つの理由が考えられていたということです。一つは、エサウを恐れて逃げたという理解です。そして、もう一つの理解は、エサウのような結婚をしないように叔父であるラバンのところに行ったということです。

 けれども、聖書の後の時代になりますと、例えばホセア書12章12節にこう書かれています。「ヤコブはアラムの地に逃げて行き、イスラエルは妻を迎えるために働いた。妻を迎えるために羊の番をした」と。ここではヤコブのことが、後の名前であるイスラエルとなっていますが、この時のヤコブのとった行動は、後の時代にヤコブはラバンのところに逃げていったという理解の方が浸透していることは間違いないことのようです。ただ、今日の聖書箇所が伝えたいのは、もう一つの理由があって、それは結婚のためであったということなのでしょう。

 いずれにしても、ここに記されているヤコブの物語はとても暗い物語です。ヤコブは父イサクと母リベカから離れて生活しなければならないのです。そして、父と母から見ても愛する息子と別れなければならないのです。確かに、今日の箇所では、ここを去る理由は結婚相手を探すためですから、ネガティブな理由だけではないということを語ろうとしているとは言えますが、この時の別れで、結局イサクもリベカも、もうヤコブと再会することはできなくなってしまうのです。

 さきほどのホセア書にもあるように、私たちはこの後にヤコブがイスラエルと名前が変えられて、イスラエル民族の父となることを知っています。このイスラエルという名前は、今に至るまで、世界中で知らない人がいないほどの名前となりました。それほどまでに、神に愛され、祝福を受けたのです。

 けれども、私たちがこの箇所から知るのは、そのような神の祝福を受けたヤコブであっても、その人生には大きな悲しみが存在したのだという事実です。

 家族がバラバラになってしまう、家族崩壊のような出来事がここには記されています。神の祝福というのは、絵にかいた餅のように、何の問題もないような幸せな毎日ということではないのだということが、よく分かります。

 ヤコブの生涯はまだはじまったばかりです。結論は、もうすでにはじめから分かっているのです。ヤコブは神に祝福されるのです。イサクの物語はここまでで、ここからはヤコブの物語です。そして、このヤコブの物語は、約束の土地からの別離という出来事から始められるのです。

 確かに、ヤコブの生涯は祝福が支配しているのです。けれども、その祝福は試練が伴わない祝福ではないし、悲しみを経験しないような日々を送るという事でもありません。この後、ヤコブの物語を見ていきますが、「ヤコブは」というか、「ヤコブも」と言った方がいいかもしれませんが、試練の連続です。私たちはそのようなヤコブをこれから見ることになるのです。

 けれども、そこから見えてくるのは、ヤコブの人となりではないのです。見えてくるのは、神の配慮です。ヤコブと共に歩んでくださる主の慈しみのお姿です。 (続きを読む…)

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