2020 年 10 月 25 日

・説教 創世記34章1節-35章5節「家族の危機」鴨下直樹牧師

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2020.10.25

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 ヤコブは神との格闘に勝利し、兄エサウとの問題も克服して、いよいよ、神の約束の地であるカナンでの生活がはじまりました。

 物語であるならば、もうこれでハッピーエンドです。あとは、「ヤコブは家族と共に、神さまの約束の地でいつまでも幸せにくらしましたとさ。」そうやって結ばれるはずです。しかし、です。聖書はいつも、私たちに理不尽さを突き付けてくるのです。

 あろうことか、ヤコブの12人の子どもの一人、しかも名前が記されている子どもの中では唯一の女の子であるディナが、一族が住み着くことになった、あの父祖アブラハムのゆかりの地で、はずかしめられたのです。そのことは、家族にとって、どれほど深い悲しみとなったことでしょう。特に、ディナの兄弟であったレアの子、シメオンとレビは烈火のごとく憤ったのです。ここに記されている出来事はあまりにも残虐で、丁寧に説明する気も失せるほどの、残虐非道なふるまいです。

 この時、ディナを辱め、さらにディナとの結婚を求めた憎むべき相手であるシェケムは、同じ名前のシェケムの地の人々の中でも、「だれよりも敬われていた」と19節に書かれています。ということは、この土地の人々は略奪婚というような方法をとっても、名誉が傷つくことはなかったということです。つまり、そういうことがまかり通る倫理観を持っている地域であったということでしょう。そして、この地の人々はヤコブたち一族と姻戚関係を結べば、ヤコブ達の財産を奪うことができると考えていました。

 一方で、ディナの兄であるシメオンとレビですが、妹が辱められたということで、怒りを覚え、割礼をうければ婚姻を認めると、だまして、その結果、シェケムの男たちを皆殺しにし、略奪するという、残虐非道な方法で仕返しをするのです。

 私たちはこういう物語を聖書で読むときに、ここから一体何を神は語ろうとしておられるのか、途方にくれるような思いがします。ヤコブがこの時とった振る舞いも、なんとなく、気弱な態度に見えるのです。それほど息子たちを叱るのでもなく、近隣の地域をなだめるというような方法もとらず、その地を離れただけ。そのように読めるのです。

 この残忍なシメオンとレビの振る舞いを、私たちはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、歴史小説であれば、妹のため立ち上がって復讐を果たすという物語は、年末のドラマにはうってつけのテーマなのかもしれません。それは、まるで英雄譚でも見ているような思いになれるのかもしれません。

 そもそも、ヤコブたち一族には何ら落ち度があったわけでもなく、ただの被害者である。そう考えれば、シメオンとレビは英雄なのであって、悪いのは完全にシェケムの地の人間である。そう考えることはできます。

 昔から、聖戦だとか、正義の闘いといって繰り広げられる物語は、相手方が絶対悪で、こちら側は絶対的正義を身にまとっているものです。人と争う時も、ほとんどがこの考え方です。自分の考え方が絶対に正しいと決めてかかっているのです。相手側の文化や、価値観の違いは認めないというのであれば、それもまかり通るのかもしれません。非道徳的だと決めつけることができるのかもしれません。

 けれども、古代の世界の中で、何の保護もない、族長時代と呼ばれるこの頃の世界観の中に、聖書の神が語るような高度な倫理観を備えた国が、いったいどれほどあったというのでしょう。おそらく、シェケムの人々は、自分たちの振る舞いはごく日常的なことで、パダン・アラムからやって来たこの外国人が、どんな家族観や結婚観を持っているのかなどという事は、想像もできなかったのだと思うのです。

 では、聖書はこのことをどのように語っているのでしょう。そこで、思い出す必要があるのは、神がアブラハムにかつて語られた、あの約束の言葉です。 (続きを読む…)

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