2020 年 11 月 29 日

・説教 詩篇139篇「神の栄光」

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2020.11.29

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 昨日の我が家の会話です。娘が体操服を着ていました。それを見て、妻が「なんであんた半ズボンはいているの」と言ったのです。どうも、午後から体操に行くことになっていて、そのために体操服を着ていたのですが、半ズボンでは寒いと妻は言おうとしたのです。
 すると、その会話を聞いていた私が娘に言いました。「自分で考えて判断しなさい」と。寒いんだから半ズボンはダメだということくらい考えろと言いたかったわけです。
 すると、娘がこう言いました。「私なりに考えたの。それで、体操をすると体が熱くなるから、お母さんは半ズボンを出したのかなって。」

 それを聞いて、妻は「あら、私、長ズボンのジャージを出したつもりだったのに、私が間違えて半ズボンをだしたのね、ごめんね」と言いました。それを聞いた私もいいました。「そうか、自分なりに考えてたのね、理不尽なことをいうお母さんとお父さんで大変だね。ごめんね。」と謝ったのです。

 昨日は、私たち夫婦はだいぶ冷静だったので、こういう会話で終わったわけですが、これが平日の朝、学校に行く10分前ならこうはいきません。たぶん、一方的に子どもが叱られて、納得できないまま泣きながら学校に行くというパターンなんだと思います。

 説教の冒頭から我が家の恥をさらして申し訳ないのですが、牧師家庭と言ってもそんなものです。みんな罪人なんです。でも、なぜこんな話をするかというと、私たちは子どもの頃から理不尽さというものと何とか折り合いをつけていかなければならないということを今日はお話ししたいと考えているからです。

 納得できないと前に進めないということがあるわけですが、場合によっては納得できなくても、それを受け入れていかなければならないということが沢山あります。

 なぜあの人はいいのに、自分はダメなのか。というような場面だって日常生活の中にはいくらでもあります。

 今日の詩篇139篇の背景にあるのは、この「理不尽さ」です。ダビデの詩篇と呼ばれる詩篇の中にはいくつか、このテーマの詩篇があります(7、35、37、69篇)。
 自分が無実であるのに、非難を受けるというような状況をうたっているのです。
1節にこうあります。

主よ あなたは私を探り 知っておられます。

 この「探り」という言葉は、「調べ尽くす」という意味です。神が「私のことを調べ尽くして、私が無実だと知っておられるはずです」と、この詩篇は冒頭から自分の無実を語っているのです。自分には非はないはずなのに、なぜこのような事態になっているのでしょうかと言いたいのです。言われもない理不尽さに耐えきれず、主が私のことを知っていてくださるのだと、ここで詩人は訴えているのです。

 この詩篇はとても美しい言葉で表現されていますが、それはまるで組織神学の講義のような内容だと言われています。
 この詩篇は四つのブロックで構成されています。最初の部分は、「神が全知」、神がすべてのことを知っておられるということが言われています。二番目の部分(7節~12節)では「神の遍在」といいますが、どこにでもおられるということが言われています。三番目のブロック(13節~18節)は神が全知であられる理由である「神の創造」が語られています。そして、最後の部分(19節~24節)は詩人の訴えです。

 組織神学なんて言うと、何やら難しい講義でもはじまるのではないかと身構えてしまうかもしれませんが、そういう話はしませんのでご安心ください。ただ、この詩篇はまさに、「神の全知」だとか「遍在」という神学的なテーマを説明するのによく用いられるテキストであることには違いありません。

 そもそも、聖書の中に「全知」という単語は出てきません。けれども、私たちは神のことを「全知全能の神」であると聞いたことがあるはずです。どうしてこういう考え方が生まれて来たのかと言うと、今日のような詩篇の内容から、聖書の時代に生きた信仰者たちが、この詩篇のような言葉を尽くして、神はわたしが座るのも立つのも知っておられるお方で、私が何かを言う前から私の心の中の思いを知っておられるお方だと理解していることが分かるからです。それで、この神のことを短い言葉で言い表すなら、「すべてのことを知っておれる神」つまり「神の全知」というようにまとめられていったわけです。

 あるいは、7節から12節までのところもそうです。神は私がどこに行っても、一緒におられるお方だと告白しています。特に、この部分の表現はとても興味深い言い方をしています。
 たとえば8節~10節です。

たとえ 私が天に上っても/そこにあなたはおられ/私がよみに床を設けても/そこにあなたはおられます。/私が暁の翼を駆って/海の果てに住んでも/そこでも あなたの御手が私を導き/あなたの右の手が私を捕らえます。

 天の上にも、地のもっとも下であるよみの世界にも神はおられると言っています。もちろん、見たことはないのですから、想像しているのです。もう一つの表現は、「海の果てに住んでも」とあります。この時代は、今のように地球が丸いなんていうことは知らなかった時代ですから、海にはきっと果てがあると考えていた時代です。その海の果てに思いを寄せながら、そこにもし自分が暁の翼を駆って飛んで行ったとしても、神はそこから私が外におちてしまわないように右の手で捕らえて離さないでいてくださるお方だと信じたのです。

 そのくらい、上も下も、右も左も、どこまで行っても神はそこにおられて、自分を支えてくださるに違いないと信じたのです。理不尽な現実に突き付けられながら、この詩篇の詩人、ダビデでしょうか。この祈り手は、神がどのようなお方であるかに思いを馳せながら美しい言葉を紡ぎだしていきます。そうして、神のことを言い表しながら、自分の祈りを聞いて欲しいと訴えているのです。 (続きを読む…)

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