2020 年 12 月 31 日

今月の礼拝予定(2021年1月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 16:18

1月3日 降誕節第2主日

主日主題: 新年
聖餐礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ルカの福音書6章36節
説教:「憐れみ深く生きよう!」鴨下直樹牧師

午後:役員会

1月10日 降誕節第3主日

主日主題: 再臨
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇144篇
説教:「わが岩なる主」鴨下直樹牧師

1月17日 降誕節第4主日

主日主題: 宣教
宣教40周年記念礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇100篇
説教:「感謝の歌を!」鴨下直樹牧師

1月24日 降誕節第5主日

主日主題: 幸い
公同礼拝: 午後7時
聖書: 詩篇119篇1-8節
説教:「幸いな人」鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会/月間予定確認会、避難訓練

1月31日 降誕節第6主日

主日主題: 清さ
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇119篇9-16節
説教:「清さを保つ道」鴨下直樹牧師

2020 年 12 月 27 日

・説教 イザヤ書41章1-10節「恐れるな、私はあなたとともにいる」山田健長老

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 06:13

2020.12.27

山田健長老

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

2020 年 12 月 24 日

・聖夜燭火礼拝説教 ルカの福音書1章26-38節「お言葉どおりこの身になりますように」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 21:12

2020.12.24

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生*1はこちら

*1:ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日、私たちに語り掛けられている言葉はこういう言葉です。

「おめでとう、恵まれた方。」

 スマートフォンでインターネットの記事を読んでいると、突然、「おめでとうございます。」という画面になって、よく読んでみると、「アイパッドが、あなたに当選しました。」という画面が突然現れたことがあります。そうすると、私はすぐにその画面を消して、検索をかけます。「アイパッド、当選」と検索しますと、すぐに「当選詐欺」という情報を見つけることができます。

 今から20年も前のことですが、当時はFAXでしたが、シェル石油のゼネラルマネージャーを名乗る人からのFAXでした。私と同じ苗字の、シェルのナンバー2の方が家族で事故にあってしまい、その莫大な遺産、たしか何千億円だったかという金額が書かれていました。そのお金が、もうすぐ政府に没収されてしまいます。そのため、誰かにこの遺産を引き継いでもらいたい。あなたはたまたま同じ苗字なので、あなたにその権利を差し上げたいので、銀行口座と名前、そして、暗証番号をFAXして欲しいという内容のFAXがナイジェリアから届いたことがあります。

 なぜ、暗証番号が必要なのかと思うわけです。不思議なもので、詐欺だとすぐに分かるのですが、少し夢があります。一瞬そんなにお金貰ったらどうしようかなぁなどと考える自分がいます。

 私たちはこの「おめでとう、恵まれた方」という言葉ほど、今日うさん臭い響きの言葉はないということを知っています。

 しかし、私たちはこのクリスマスに改めて、この言葉を聞きたいのです。

「おめでとう、恵まれた方。」これが、クリスマスの出来事の神からの最初のメッセージだったのです。

 今、私たちはそれぞれに、さまざまな異なる状況を抱えて生きています。誰もが、嬉しい思いで毎日生活しているわけではありません。今年、とりわけ今年のクリスマスは、世界中が闇に覆われた年のクリスマスだと言えると思うのです。

 この世界中に爆発的に広がっているウィルスのために、経済が停滞しています。外出自粛がまた叫ばれています。病院はひっ迫し、適切な医療を受けられない方々が沢山います。今、病気の人たちがいます。家族とこの年末年始も会うことができない人もいます。経済的にとても厳しい人たちも少なくありません。将来の姿が描けない中で、私たちは今、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

 そんな中で、何が「めでたい」と聖書は語ろうとしているのでしょう。不安しかない、押しつぶされそうな思いの中で、この聖書の言葉を聞こうとしているのです。

「おめでとう、恵まれた方。」

 何もおめでたくない。そんな言葉を聞くのもつらい、そんな中で、神はこの言葉を私たちに届けようとしているのです。

 何が、「おめでとう」なのでしょうか。クリスマスにはどんな喜びがあるというのでしょうか。

 ひょっとすると、私たちはこうして、教会に集まっては来ますが、本当のところ、クリスマスのめでたさなんていうものを、そもそも期待してここに来ているのでしょうか。

 この知らせを受けたマリアは、この時まだ十代の少女でした。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

 
 当時は、スマホなんてありませんから、すぐに検索するというわけにはいきませんので、そうであれば考え込むしかできません。これは、いったいどういうことなのか?

 すると御使いは、こう告げます。

「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。
見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」

 本人の同意もなしに、一方的に、男の子を産むだろうと言うのです。何かが当たりましたというような知らせでは済まないのです。

 マリアは婚約していました。それなのに、子どもを産むことになるという知らせは、「おめでたい」知らせではありません。はた迷惑な話です。この神からの一方的で、拒否権もない、この知らせのどこに、おめでたさがあるというのでしょう。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 21 日

【お知らせ】「ざっくり学ぶ聖書入門」の配信について

Filed under: お知らせ,聖書の学びと祈り会 — susumu @ 12:09

「ざっくり学ぶ聖書入門」は、クリスマス~年末年始の期間はお休みです。

2021年1月13日夜7時から次回の配信を再開します。

2020 年 12 月 20 日

・説教 ヨハネの手紙第一3章1-3節「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:42

2020.12.20

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生*1はこちら

*1:先週に引き続き、機材の不調により説教音声の録音ができませんでした。ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今日の説教題は、たぶん、私がこれまでつけた説教題の中で一番長い説教題だと思います。この手紙の一節の言葉をそのまま、タイトルにしました。

 今日、私たちが共に聞き取りたいと思っているのは、まさにこの言葉に尽きるのです。かつて、宗教改革者ルターは祈りについて「祈りは短ければ短いほど良い、言葉を補えば補うほど、意味が薄まるからだ」と言う内容の言葉を語りました。そういう意味では説教題も短い方がいいのかもしれませんし、この説教も、長くなればなるほど、意味が薄くなってしまうのかもしれません。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 今日、私たちが心に留めたいのは、この一言に尽きるのです。このことを考えて、私たちが、御父のくださった素晴らしい愛を心に留めることができるなら、それこそが福音そのものです。

 アドヴェントの第四週を迎え、今週クリスマスを迎えます。今年は、恐らく世界中の教会で、自粛ムードの中で祝うクリスマスになるのだと思います。大勢の人が集まることが難しい時ですから、どこの教会も今年はクリスマスのお祝いをする機会が大きく減っているはずです。私たちの教会でもそうです。例年行っているクリスマスの集まりをいくつも取りやめました。イブの燭火礼拝も、今年は外部には案内をしませんでした。また、教会の人もみなが集まってくることが難しい状況です。

 ただ、そんな中ですが、私たちはもう一度クリスマスの意味を思い起こしたいのです。最初のクリスマスは、そもそも大勢の人が祝ったわけではなかったのです。クリスマスは歴史の片隅で起こった小さなできごとでしかなかったのです。

 宿にも泊まることのできない若い夫婦が、子どもの出産だというのに、安全に産む場所も見つけられず、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされたのです。誰の心にも留まらないような、本当に小さなできごとでした。けれども、ここに父なる神の私たちへの愛が満ち溢れているのです。

 「飼い葉桶に寝ておられるみどりご」

 これが、クリスマスのシンボルです。神が、全力で私たちを愛してくださった愛の形がここに示されているのです。

御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。

 毎年、私たちはクリスマスを祝います。けれども、このことに私たちはどれほど思いを向けているのでしょうか。

 エペソ人への手紙では、この神の愛を「人知をはるかに超えたキリストの愛」(3:19)と表現しました。人の知恵では想像なしえない仕方で、神はこの愛を示してくださったのです。

 先週の火曜日の夜、一本の電話がかかってきました。いつも手話通訳をしていてくださるKさんが、倒れて救急にかかったという電話です。いつもそうですが、すぐにみなさんにお祈りをお願いしました。命の危険はないのですが、しばらく入院されることになりました。

 こういう時、みんなで祈ります。今までもそうでしたし、これからもそうです。そういう時に、私たちが神様に祈ることができるのは、私たちの神は、私たちに愛を示してくださるお方だと知っているので、私たちは望みを持って祈ります。祈ることができます。

 神の愛を信じることができるから、そのことを頼りに私たちは祈ることができるのです。ただ、やみくもに祈るのではないのです。神はこれまでに、この教会の方だけでも何度も何度も、多くの人の病を支えて来てくださったのです。

 私たちの神は、御子を私たちのために与えても良いと思うほどに、私たちを愛してくださいました。それは、私たちを神の子どもとするためです。
 「事実、私たちは神の子どもです。」と、この言葉につづく1節には記されています。

 今、私たちは神の子とされているのです。神様は、私たちを神様の子どもとするために、私たちを神の御子であるイエス・キリストと取り換えるという方法を示してくださいました。それが、父なる神が示した愛だったのです。

 神の御子と、私たちを取り換える。どうやってそんなことが可能となったのでしょうか。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書1章5節「闇の中に輝く光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:33

2020.12.13

鴨下 直樹

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*1:今週は機材の不調により説教音声の録音ができませんでした。ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 12月に入りまして、急に寒くなってきました。もう夕方の5時くらいになりますと暗くなってきます。我が家では犬を飼っているので、夕方、犬の散歩に出かけるのですが、夕方の月というは、時々とても大きくて、明るい光で照らすときがあります。もし、詳しい方がいたら教えて欲しいのですが、そういう時の月というのは、とても明るく感じます。特に、ここ数日は、綺麗な月が見えることが多い気がします。先日は、朝の5時半頃ですが、まだ暗い中で三日月が綺麗に出ているのを見てとても美しいなぁと感じました。幸い、この芥見というところは、教会のすぐ後ろには山ですから、月が映えるわけです。

 そういう夜の月の明かりを見ていますと、時々、あのクリスマスの物語を思い起こします。荒野で夜番をしていた羊飼いたちのもとに天使たちが表れた時の、あの輝きはどれほどだったのだろうかと、想像するとわくわくしてきます。聖書を読んでいますと、御使いが一人現れるだけでも、大きな輝きがあったようですから、御使いの軍勢などという数になれば、それはもうほとんど昼間のような明るさになったのではないかとか、そんなことを想像します。

 今日、私たちに与えられているのは、ヨハネの福音書1章5節のみことばです。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 そのように記されています。新改訳聖書には、この「打ち勝たなかった」というところに、注が書かれていまして、別訳として「これを理解しなかった。」と記されています。この「打ち勝つ」という言葉は「カタランバノー」というギリシャ語で、もともとの意味は「捕らえる」という意味の言葉です。ですから、直訳すると、「闇は光を捕らえきれなかった」ということになります。それで、「理解しなかった」という翻訳もできるということなんですが、やはり、従来の翻訳の「打ち勝たなかった」という翻訳で良いのだと思います。

 闇は、光を捕らえきれないというのです。それは、光の性質からして明らかです。光があるところに、闇は存在できないのです。闇は、光の前に姿を失うことしかできません。

 今は、夕方の5時くらいになりますともう暗くなってきます。太陽が傾いて見えなくなると、闇が覆うようになるのです。

 私たちは、その人生の中で闇を何度も何度も経験することがあると思います。その時には、光がどこかにいってしまっているわけです。ただ、私たちは、夜の闇が迫る時というのは、太陽の光が完全になくなっているわけではないことを知っています。地球の裏側を照らしているので、今ここには光がないだけで、光そのものがなくなってはいないことを知っているのです。

 ところが、私たちは人生の闇が私たちを支配しそうになる時、私たちを照らしていた光が完全になくなってしまったかのような不安に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 小さな話ですが、昨日、教会の方が、車のタイヤを夏用のタイヤから冬用のタイヤに交換してくださいました。その時に、この夏に我が家は車を変えたのですが、夏の安い間にスタッドレスタイヤを買っておこうと思いまして、インターネットのあるサイトから、中古のスタッドレスタイヤを購入しておいたわけです。それで、昨日そのタイヤに付け替えてもらおうと思ったのですが、そこで問題が発生しました。タイヤのサイズは合っているのですが、ホイールの径が違うので、買っておいたスタッドレスタイヤが使い物にならないという事が分かったのです。

 何万円もして購入したわけで、少しでも安くと思って買ったのですが、それが仇になった格好です。仕方がないので別のものに買い替えなくてはなりません。もう、一瞬目の前が「真っ暗に」なるわけです。もちろん、これは些細な例ですが、たとえばこういう金銭的なことというのは、些細なことではなくなってしまう場合もあります。こういうことが積み重なりますと、それがだんだんと効いて来て、あるところで爆発してしまうということが起こり得るのです。

 私たちが、これは人生の闇だと感じることというのは、人によって異なります。それは、そのままその人の弱さという部分があります。自分の弱いところから、闇に呑み込まれてしまうのです。

 ヨハネの福音書はこの闇と光というテーマが3章にも記されています。そこでは、「闇」は「悪の行い」と言い換えられています。そして、「光」は「真理の行い」と言い換えられています。私たちの中にある、神に背を向けたくなる部分、そこが私たちの闇であり、私たちの弱点なのです。ただ、大事なことは、私たちの悪の行いにあるのではないのです。

 大事なのは、闇は光に打ち勝つことができないのだという、この福音の言葉にこそ、力があるということです。ヨハネの福音書3章20節から21節にはこう記されています。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

 悪を行う者は光の方に来ないが、真理を行う者は、光の方に来ると言っているのです。この後半部分がとても大切です。神の真理に生きることを通して、私たちは光の中に身を置くことが出来るというのです。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 9 日

ざっくり学ぶ聖書入門10 士師記 ルツ記

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 14:16

2020 年 12 月 6 日

・説教 詩篇138篇「低き者を顧みて」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:00

2020.12.06

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生はこちら

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 今週はアドヴェント第二主日です。アドヴェントクランツの二番目の蝋燭に火を灯しました。アドヴェントの間、こうして毎週一本ずつ、蝋燭の灯を増やしていくことで、主のご降誕を待ち望む習慣が教会にはあります。

 そのためにクランツにする蝋燭は太い蝋燭を選ぶことがほとんどなのですが、日本にはあまり太い蝋燭はポピュラーとはいえません。蝋燭を灯すという習慣があまりないのです。私たちの教会では、いつもYさんが作ってくださる蜜蝋燭を使っています。良い匂いがしますし、使っていてとても気持ちよく使えます。ただ、そうすると問題があります。最初の蝋燭は4週目には短くなりすぎて使えなくなってしまうのです。

 短い蝋燭というのは、それだけ火を灯したということです。蝋燭は、自身を燃やして、消費して明かりを周りにもたらします。この礼拝用の蝋燭は4週の間に長さが少しずつ短くなりますから、バランスがとれなくなるので、適当な短さのものと入れ替えたりしながら、4週目を迎えていくことになります。

 ある時、小さな子どもがそんな短くなった蝋燭を見て、こう言いました。「ちっちゃい蝋燭。これ、僕みたいな蝋燭」と言ったのです。そして、背の高い蝋燭を見て、「これは大人の蝋燭」と言いました。私はそれを見ながら、こう言いました。
「実はねぇ、この長い蝋燭が君の蝋燭で、この短い蝋燭が大人の蝋燭なんだよ。短い蝋燭は、たくさん働いて、少しずつ短くなるから、こっちの蝋燭の方が大人の蝋燭なんだよ」と。

 アドヴェントに蝋燭を灯すのには、そんな意味もあるのだと言えます。毎週短くなっていく蝋燭を見ながら、ご自身を捨てて、小さく、低くなられた主を思うのです。

 今日の詩篇は「感謝の詩篇」と呼ばれる詩篇です。祈り手は、エルサレムの宮に向かってひれ伏しています。神殿まで行って、そこでひれ伏しているのか、それとも、遠くから神殿のことを思いながらそこでひれ伏しているのか、はっきりは書かれていませんが、なんとなく、遠くの地から神殿の方を向いて、ひれ伏し、感謝の祈りを捧げているのではないかというように読める気がします。

 神殿があるということは、ダビデの時代にはまだ神殿はありませんでしたから、直接ダビデの作ということではなさそうです。ダビデに思いを寄せて作られた詩篇なのかもしれません。

 旧約時代にすでにヘブル語からギリシャ語に訳された七十人訳聖書には「ゼカリヤによる」という題がついているものがあるのだそうですから、もしそうだとすれば、捕囚期に作られた詩篇なのかもしれません。あるいは、捕囚が終わって、イスラエルに戻って来たことを感謝しているということなのかもしれません。

 この詩篇の面白いのは、4節のところで、「地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。」と言っています。感謝をささげる理由は何かというと、「彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。」となっています。

 この祈り手が何を感謝したのか、具体的には分かりません。何か、日常のささやかな感謝なのか、あるいは、バビロンに連れていかれて、そこから帰ってくることができた感謝なのか。いずれにしても、自分がささげる感謝の相手は、地のすべての王たちも、感謝をささげる相手なのだと言っているのです。
 
そしてこの5節から読んでいきますと、ここから少しずつ感謝の内容が見えてきます。

彼らは主の道について歌うでしょう。
主の栄光が大きいからです。

 王たちは、主が歩まれた道を知って、その栄光の大きさに歌い出すと言っています。私は、この詩篇がアドヴェントに読まれてきた詩篇なのかどうか、よく分からないのですが、この詩篇はまさにアドヴェントに読まれるべき詩篇だと思っています。 (続きを読む…)

2020 年 12 月 2 日

ざっくり学ぶ聖書入門09 ヨシュア記

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 14:20

2020 年 12 月 1 日

今月の礼拝予定(2020年12月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 17:34

12月6日 待降節第2主日

主日主題: 神のへりくだり
聖餐礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: 詩篇138篇
説教:「低き者を顧みて」鴨下直樹牧師

午後:役員会

12月13日 待降節第3主日

主日主題: 光
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ヨハネの福音書1章5節
説教:「闇の中に輝く光」鴨下直樹牧師

午後:礼拝準備会/月間予定確認会、避難訓練

12月20日 待降節第4主日

主日主題: 父の愛
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ヨハネの手紙第一3章1-3節
説教:「御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」鴨下直樹牧師

12月24日 聖夜

燭火礼拝: 午後7時(ライブ配信)
聖書: ルカの福音書1章26-38節
説教:「おことばどおりにこの身になりますように」鴨下直樹牧師

12月27日 降誕節第1主日

公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: イザヤ書41章1-10節
説教:「恐れるな、私はあなたとともにいる」山田健長老

礼拝後:一年の感謝の祈り会

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