2020 年 12 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書1章5節「闇の中に輝く光」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 07:33

2020.12.13

鴨下 直樹

⇒ 説教音声の再生*1はこちら

*1:今週は機材の不調により説教音声の録音ができませんでした。ライブ録画から抽出した音声を掲載しています。聞きづらい点はご容赦ください。

Lineライブ

午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 12月に入りまして、急に寒くなってきました。もう夕方の5時くらいになりますと暗くなってきます。我が家では犬を飼っているので、夕方、犬の散歩に出かけるのですが、夕方の月というは、時々とても大きくて、明るい光で照らすときがあります。もし、詳しい方がいたら教えて欲しいのですが、そういう時の月というのは、とても明るく感じます。特に、ここ数日は、綺麗な月が見えることが多い気がします。先日は、朝の5時半頃ですが、まだ暗い中で三日月が綺麗に出ているのを見てとても美しいなぁと感じました。幸い、この芥見というところは、教会のすぐ後ろには山ですから、月が映えるわけです。

 そういう夜の月の明かりを見ていますと、時々、あのクリスマスの物語を思い起こします。荒野で夜番をしていた羊飼いたちのもとに天使たちが表れた時の、あの輝きはどれほどだったのだろうかと、想像するとわくわくしてきます。聖書を読んでいますと、御使いが一人現れるだけでも、大きな輝きがあったようですから、御使いの軍勢などという数になれば、それはもうほとんど昼間のような明るさになったのではないかとか、そんなことを想像します。

 今日、私たちに与えられているのは、ヨハネの福音書1章5節のみことばです。

光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

 そのように記されています。新改訳聖書には、この「打ち勝たなかった」というところに、注が書かれていまして、別訳として「これを理解しなかった。」と記されています。この「打ち勝つ」という言葉は「カタランバノー」というギリシャ語で、もともとの意味は「捕らえる」という意味の言葉です。ですから、直訳すると、「闇は光を捕らえきれなかった」ということになります。それで、「理解しなかった」という翻訳もできるということなんですが、やはり、従来の翻訳の「打ち勝たなかった」という翻訳で良いのだと思います。

 闇は、光を捕らえきれないというのです。それは、光の性質からして明らかです。光があるところに、闇は存在できないのです。闇は、光の前に姿を失うことしかできません。

 今は、夕方の5時くらいになりますともう暗くなってきます。太陽が傾いて見えなくなると、闇が覆うようになるのです。

 私たちは、その人生の中で闇を何度も何度も経験することがあると思います。その時には、光がどこかにいってしまっているわけです。ただ、私たちは、夜の闇が迫る時というのは、太陽の光が完全になくなっているわけではないことを知っています。地球の裏側を照らしているので、今ここには光がないだけで、光そのものがなくなってはいないことを知っているのです。

 ところが、私たちは人生の闇が私たちを支配しそうになる時、私たちを照らしていた光が完全になくなってしまったかのような不安に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。

 小さな話ですが、昨日、教会の方が、車のタイヤを夏用のタイヤから冬用のタイヤに交換してくださいました。その時に、この夏に我が家は車を変えたのですが、夏の安い間にスタッドレスタイヤを買っておこうと思いまして、インターネットのあるサイトから、中古のスタッドレスタイヤを購入しておいたわけです。それで、昨日そのタイヤに付け替えてもらおうと思ったのですが、そこで問題が発生しました。タイヤのサイズは合っているのですが、ホイールの径が違うので、買っておいたスタッドレスタイヤが使い物にならないという事が分かったのです。

 何万円もして購入したわけで、少しでも安くと思って買ったのですが、それが仇になった格好です。仕方がないので別のものに買い替えなくてはなりません。もう、一瞬目の前が「真っ暗に」なるわけです。もちろん、これは些細な例ですが、たとえばこういう金銭的なことというのは、些細なことではなくなってしまう場合もあります。こういうことが積み重なりますと、それがだんだんと効いて来て、あるところで爆発してしまうということが起こり得るのです。

 私たちが、これは人生の闇だと感じることというのは、人によって異なります。それは、そのままその人の弱さという部分があります。自分の弱いところから、闇に呑み込まれてしまうのです。

 ヨハネの福音書はこの闇と光というテーマが3章にも記されています。そこでは、「闇」は「悪の行い」と言い換えられています。そして、「光」は「真理の行い」と言い換えられています。私たちの中にある、神に背を向けたくなる部分、そこが私たちの闇であり、私たちの弱点なのです。ただ、大事なことは、私たちの悪の行いにあるのではないのです。

 大事なのは、闇は光に打ち勝つことができないのだという、この福音の言葉にこそ、力があるということです。ヨハネの福音書3章20節から21節にはこう記されています。

悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。

 悪を行う者は光の方に来ないが、真理を行う者は、光の方に来ると言っているのです。この後半部分がとても大切です。神の真理に生きることを通して、私たちは光の中に身を置くことが出来るというのです。 (続きを読む…)

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