2021 年 3 月 28 日

・説教 詩篇119篇81-96節「みことばを慕い求めて」

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2021.03.28

鴨下 直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 

 今週から受難週に入ります。金曜日には受難日を迎えます。今、詩篇119篇のみことばを順に聞き続けていますが、今週はまさに受難週にふさわしい箇所といえるみことばが私たちには与えられています。

冒頭の二節にこう記されています。81節と82節です。

私のたましいは あなたの救いを慕って
絶え入るばかりです。
私はあなたのみことばを待ち望んでいます。
私の目は あなたのみことばを慕って
絶え入るばかりです。
私は言います。
「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」 と。

 同じような言葉が二回繰り返されていますが、少し内容が違っています。そして、その違っているところに目を留めると、この祈り手の背後にあるものが見えるようになってきます。

 祈り手は、魂から、その存在の奥底から主の救いを求めています。そして、その救いを求めると言っている言葉を、その後で、「あなたのみことばを待ち望んでいます」と言い換えています。

 つまり、救いが自分にもたらされるというのは、みことばのことだと言っているわけです。続いて記されているところに目を向けると、「私のたましい」と最初の81節にあったのが、「私の目」と言い換えていることに気が付きます。私の目がみことばを慕っているのです。

 つまり、祈り手は、みことばを目にすることができないような状況に、長い間置かれているということが分かるのです。聖書がない。みことばを目にすることができない。そういうみことばに対する飢え渇きを、祈り手は覚えているのです。

 礼拝で手話通訳をしてくださっていました、K兄が年末に脳溢血で倒れて、今も病院で入院生活が続いています。それは、本当に寂しいことです。今、必死にリハビリを励んでおられます。

 もう、一月ほど前でしょうか。妻のLINEにK兄から短い文章が届きました。そのメッセージに「みことば」と書かれていました。
 まだ、なかなか自由がきかない手で、必死に送った文章です。みことばが欲しいということなのでしょう。それから、教会のみなさんも、K兄にいろんなみことばを送ってくださっているようで、本当に嬉しい思いがしています。しかし、特にK兄がまさにみことばを慕い求めている姿に、感動を覚えるのです。

 もう入院されて三カ月たつのですが、オンラインの礼拝もできていないかもしれないと思いまして、先週から礼拝説教の原稿を送るようにしました。そうしたら、「よぶきもほしい」という返信が来ました。全部ひらがなです。

 先週、予定でヨブ記の話をするのを知っていて、その原稿も送ってほしいと言われたのです。残念ながら、先週はヨブ記をすることができなかったので、ヨブ記の原稿を送っていないのですが、本当にみことばを慕い求めているのだということが伝わってきます。みことばが、困難な生活の中で、心の支えになるということをK兄は知っているのです。

 この詩篇の祈り手はバビロンにいるのでしょうか。神殿もない、みことばもない、自分たちに残されているのはユダヤ人であることを示す割礼だけというような状況にあって、みことばに対する飢え渇きを覚えているのです。
 そして、「いつあなたは私を慰めてくださるのですか」と主に訴えているのです。いつ、みことばが聞けるのですかという訴えです。 (続きを読む…)

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