2022 年 1 月 30 日

・説教 ローマ人への手紙8章35-39節「切り離されることのない神の愛」

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2022.01.30

鴨下直樹

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 いよいよローマ書8章の結びのところまで来ました。このローマ人への手紙の8章31節から39節までのところで、パウロは神が味方であるということを3つのことで語っています。

 その最初の部分は前回の聖書箇所の31節から34節までのところです。ここでは、神が味方でいてくださるということの内面が語られていました。神が味方でいてくださるということは、誰も私たちに敵対できない、誰も訴える者はいない、誰も罪ありとする者はいないのだと断言するのです。神が味方でいてくださるという時に、私たちが不安―自分の信仰ではだめなのではないか。私は神に認められていないのではないか―そういう私たちの心の中の不安に対して、神は私たちのそのような不安を持つ時にも味方でいてくださるとパウロは語ったのです。神は私たちに敵対しないし、訴えることもないし、罪あるとすることもない。それが、神から与えられている救いなのだとパウロは宣言したのです。

 このパウロの美しい神の恵みを語る言葉は、これで終わりませんでした。もう一つのことがこの35節から語られています。それは、私たちを神の愛から引き離す外側の要因、外的な要因で神から引き離されてしまうことについて語ったのです。

35節から37節をお読みします。

だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊とみなされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。

 自分の心の中から出てくる不安、心配という問題ではなくて、自分の外側からくる攻撃があります。信仰に生きることをやめさせよう、諦めさせようとする要因があります。パウロはここでそのリストを七つあげました。パウロはこのリストの内容のことをコリント人への手紙の中でも同じように取り上げて語っています。このリストはその一つ一つが、大変厳しいもので、パウロ自身これまでの伝道の旅の中で何度も経験してきたことでした。ただ、これまで語って来たことの中で、このところで一つだけ増えているものがあります。それが、最後の「剣」です。

 パウロは先の6つの迫害の内容をすでにこれまでの伝道で経験してきました。そこに新たに「剣」が加えられています。これは、コリントまでの伝道の中で経験した後で、「剣」を突き付けられるような経験をパウロがしてきたという意味であるかもしれません。あるいは、別のことも考えられます。

 私は、このローマ書の説教の準備する中で、実に沢山の本に目を通します。その中でも必ずと言ってもいいほど目を通すのは、カトリックの聖書学者でワルケンホーストという方の書いた解説です。この方は非常に深い言語洞察に富んでいる方です。このワルケンホーストは、「剣」についてはこれまでパウロが経験したことではなく、将来に向けてのことを語っていると解説しています。パウロがそこで考えているのは殉教の死だというのです。

 それで、続く36節で詩篇44篇22節からの引用があります。「あなたのために 私たちは休みなく殺され 屠られる羊と見なされています。」詩篇にも、こう書かれている。私たちにはやがて、死が訪れる。剣による死がおとずれる。それでも、私たちは「しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」との宣言が続くのだというのです。

 私はこのワルケンホーストの理解に同意します。

 殺されるような経験をすることがある。文字通り、主イエスはそうでした。神の愛と真実を示した主イエスは、神に愛されたお方です。このお方ほど、神の愛に応えて生きた方はほかにはありませんでした。そこに、剣がもたらされるのです。殉教の死を味わうことがあり得るのです。パウロは自分ではまだ経験していないことですけれども、そのことを頭の中にちゃんと置きながら、ここで神の愛を語っているのです。神が味方でいてくださることの意味を語っているのです。 (続きを読む…)

2022 年 1 月 23 日

・説教 ローマ人への手紙8章31-34節「絶対大丈夫!」

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2022.01.23

鴨下直樹

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 いよいよ、私たちはローマ書の最も美しい文章に耳を傾けることになりました。すべてのローマ書を説教しようと志す者は、この31節から39節までのところを語りたくて、ローマ書を選ぶのだと私は思います。

 ここには、福音が集約されています。

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか

 パウロはここまでで、すでに福音について語りつくしています。これ以上言うことがないほど福音を語ったのです。そのことを踏まえて、畳みかけるように語り始めます。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう

 神が私たちの味方でいてくださるのだと、パウロは高らかに宣言します。これが、福音の要約です。神は、私たちの味方でいてくださいます。だから、もう敵などは存在しないのですとさえ言うのです。

 翻(ひるがえ)って考えてみると、神の敵とは一体誰でしょうか。誰が、神に敵対しているのでしょう。それは、私たちです。私たちが神に敵対していたのです。神の望むことを行わず、神を悲しませ、神の福音をないがしろにし続けてきました。この神の敵であった私たちのために、その被害者であられた神ご自身の方から、和解の手が差し伸べられました。もう、争い合うのはやめようではないか。わたしには、あなたを赦す備えがある。あなたを私の側に招き入れるために最大限の譲歩をしよう。それは、あなたの身代わりとして、わたしの愛する息子を差し出すから、あなたはわたしのところに戻っておいで。そう言って、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださったのです。

 そうして、神が味方になってくださったのです。私たちは神の陣営に引き入れられたので、もはや恐れるものは、一切、全くなくなった。これが、福音なのです。

「神が味方でいてくれるといいなぁ」という私たちの願望がここで語られているのではありません。これは、福音の最終宣言です。戦いは終わった。もう神が私たちの味方となってくださった。
 あとは「はい。嬉しいです。本当に何から何までありがとうございました」と言ってすべてが終わるのです。その後にあるのは、完全な平和、完全な自由、完全な愛の世界が待ち受けているのみです。

 もうこれ以上、何も言うことがない。福音とは、実にシンプルなものです。その後にあるのは、「アーメン」と「ハレルヤ」だけで十分です。

 しかし、パウロはその後で、もっとも美しい愛の言葉を、主の愛の御業を語り出します。
32節。

私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。

 パウロはここで、神が味方でいてくださるというのは、口から出まかせで言っているのではない、ちゃんと根拠があるというのです。それは、主イエスが私たちのために与えられたという事実だとここで言うのです。

 神は、私たち神の敵対者を得るために、最愛の御子を私たちに与えてくださいました。これ以上のことがあるだろうか。神はそこまでして私たちを神の側に招き入れてくださったのだから、それが証拠だというのです。これこそが、神の恵みの証拠だというのです。

 もちろん、神が味方でいてくださるということは、私たちから完全に苦しみや困難がなくなるという意味ではありません。神が味方でいてくださるので心強いのですが、続く35節からは「苦難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣」というような言葉が列挙されています。これらのものが私たちに襲いかかってくることがあるのです。38節にもあります。「死、いのち、御使い、支配者たち、今あるもの、後に来るもの、力あるもの、高いところにあるもの、深いところにあるもの」。そういう、私たちの脅威になり得るものは、なおも存在し続けます。でも、確かな事実は変わらないのです。その事実とは、神が私たちの味方でいてくださるという事実です。

 私たちの不安や悲しみの大きな部分は、誰にもこの苦しみや悲しみは理解されないと考えてしまうところにあります。考えてみれば、この考え方も自分の悲しみを絶対化しすぎているのです。ですが、そういう考えに支配されてしまうことはとてもつらいことです。とても悲しいことです。

 けれども神はすべての悲しみを知っておられる。私たちのことを全部知っておられる。なぜなら、私の内におられる聖霊の祈りを聞いておられるからです。そのすべてのことを知っておられる神が、私たちの味方でいてくださる。こんなに、嬉しいことはないのです。こんなに安心できることはないのです。 (続きを読む…)

2022 年 1 月 16 日

・説教 ローマ人への手紙8章28-30節「御子のかたちと同じ姿に」

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2022.01.16

鴨下直樹

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神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 この言葉ほど、多くの人に希望を与えたみ言葉はありません。このみ言葉は「すべてのことがともに働いて益となる」と言っています。簡単に言うと、何をやってもうまくいくということです。私自身も、この聖書のみ言葉を、神学生の時から自分の最も好きなみ言葉に選んできたという経験があります。今思い返してみても、やはり、「すべてのことが共に働いて益となる」というこの言葉に魅力を感じていたと思います。

 けれども、改めて考えてみると、この聖書の言葉はそういう私たちにとって都合の良いことが書かれているのでしょうか。

 少しこの箇所の前の所に何が書かれていたのかを、もう一度思い起こしてみたいと思います。この前に書かれていたのは、三つの「うめき」が記されていました。被造物のうめき、私たちのうめき、そして御霊のうめきです。主は、この三つ、三者のうめきを聞いておられ、弱い私たちのためにとりなしてくださるお方であると語られていました。

 私たちにとって本当に必要なものを主は知っておられるのです。その流れで、「神を愛する人々」と今日の箇所が続くのです。

「神を愛する人」というのは、神に望みを抱いている人のことです。困難の中にあって神が最善をなしてくださると信じる者のことです。つまり、この神を愛する人というのは、キリスト者のことです。ここで言うキリスト者というのは、自分の願うことを叶えて欲しい人という意味ではありません。キリストのものとなっている人という意味です。もっといえば、神のご計画に身をゆだねている人のことです。

 もう一度、この28節を読んでみましょう。今日のところにはこうあります。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 このみ言葉が語ろうとしているのは、私たちが最初にイメージする、何があってもうまくいくということとは正反対の意味で記されていることが良く分かります。ここで言われているのは、私たちの願い事を、なんでも神がすべてのことを働かせてうまい具合にしてくださるという意味ではなくて、神のご計画に信頼している者は、まさにその神のご計画が働いて、それは神にとって最善がなされることを私たちは知っているという意味です。

 神のご計画は、私たちの思いや願いを超えて、神にとってすべてのことが益となるようにしてくださっているのだということを、私たちは知っている、信じていると言っているのです。

 先週、私は教会の皆様に何度も祈りの課題をお願いしました。みなさんも心を痛めながら祈って来られた一週間であったと思います。月曜に葬儀がありました。そして、水曜と、昨日、教会員のお父様が亡くなられたというお知らせをいたしました。その知らせにもある方が、神のご計画は私たちには理解できないけれどもと書いてくださった方がありました。書かれたのはTさんです。Tさんのお父さんは福島県の郡山で牧師をしておられます。このT牧師は長い間がんと闘ってこられる中で牧会を続けて来られました。今もう末期というところまで来ております。Tさんは医者ということもあって、家族で相談して最期の時になるかもしれないということで、この週末家族で郡山まで会いに行かれています。

 私たちには、何が神の最善か分からないところがあります。私たちの願いはいつも、神がすべてを働かせてくださって、病んでいる人を癒してくださって、もう一度健康が回復されることです。それ以外にはないとさえ思うのです。

 けれども、パウロは語るのです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 私たちには分からないことがある。このことも知ったうえで、しかし神はこの不安も、心配も、悲しみも全部含めてすべてのことが神にとって益となるということを信頼することができるようにされているのです。

 ではその「神のご計画」というのはどういうものなのでしょうか。 (続きを読む…)

2022 年 1 月 9 日

・説教 ローマ人への手紙8章26-27節「私たちの心を探られる方」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 09:26

2022.01.09

鴨下直樹

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 私が、神学生の時のことです。ある祈りと出会いました。それは、デンマークの哲学者で、キリスト者でもあるキェルケゴールの祈りです。昨日、その本を探したのですが、見つかりませんでしたので、正確な言葉ではないのですが、こんな内容の祈りです。

「私の罪をお赦しください、と私たちは祈ります。そして、罪を犯すことがないようにお助けくださいと祈ります。けれども、私たちはあなたに罪を犯しているのに、あやまる当人に、もう罪を犯さないようにお助けくださいと、助けまで強要しています。あなたはそんな私たちの身勝手な祈りを我慢して聞いておられます」

 祈りはまだ続くのですが、そんな内容の祈りです。私はその祈りを知って衝撃を受けました。この人は、本当に神の御前で祈っている人だと思ったのです。

 私たちの日ごとの祈りの多くは、形式ばった祈りです。何をどう祈るか、もう決まっています。食前の祈り、仕事に行く前の祈り、寝る前の祈り。生活の中に、祈りがあることはとても大切なことですが、その祈りの多くは、ほとんど無意識的に口から出てくる、言ってみれば心のない言葉の羅列になる場合があります。
 そして、日ごとの悔い改めの祈りさえも、形式的な祈りになってしまうことがしばしばです。

 私がまだ子どものころ、祈ることを覚えたばかりの頃です。寝る前に、日ごとの悔い改めの祈りをするようになりました。

「天のお父様、私の今日一日の犯した罪をお赦しください。アーメン」

 実に、シンプルな祈りです。それは毎日、毎日、呪文のように繰り返されていました。そう祈れば、その一日に犯した罪はリセットされると思っていました。すると、ある日、父が私に言いました。「そのお祈りは、神様の前に本当にごめんなさいという気持ちが込められているのか。心からの悔い改めでないのならやめなさい。聞いておられる神様はどんな思いでその祈りを聞いておられるか」

 その時から、神様が祈りをどのような思いで聞いておられるのかを意識するようになりました。

「神に苦労をかける祈り」預言者イザヤはイザヤ書43章でそう表現しました。

 私たちは、祈りで悩まない人はいないと思います。どう祈るのがいいのかよく分からないまま、自分の祈りに自信がないまま、手探りで祈る習慣を身に付けようとしているのだと思います。

 祈りの正解を探そうとするのはとても困難です。聖書の中には実にたくさんの祈りの実例が記されています。実は、私は明日、私がかかわっている東海聖書神学塾のオープンセミナーと、入塾説明会の責任を持っておりまして、そこで二回の祈りの講演をする予定でした。旧約聖書の祈りと、新約聖書の祈りという二回の講演です。ですが、明日急遽ある方の葬儀を行うことになったために、その講演をすることができなくなってしまいました。また、どこかでお話しする機会があればと思っていますが、その一部だけを簡単に紹介したいと思います。

 聖書の中には、実にさまざまな祈りが登場します。旧約聖書の祈りは特にユニークなものが多いのですが、例えば、アブラハムのとりなしの祈りがあります。神が、甥のロトが住んでいるソドムとゴモラを滅ぼされる時に、50人の正しい人がいたら、それでも滅ぼされるのですかと問いかけて、そこから10人の正しい人がいたら救ってほしい願いまでの交渉をする場面があります。これを祈りと言っていいかという考えもあるかもしれませんが、これは、旧約聖書に記された代表的な祈りの姿です。 (続きを読む…)

2022 年 1 月 2 日

・説教 ヨハネの福音書6章37節「喜んで迎えるお方」

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2022.01.02

鴨下直樹

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2022年 ローズンゲンによる年間聖句
「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりはしません」

- ヨハネの福音書6章37節

 
 今年、私たちに与えられている年間聖句はこのみ言葉です。

わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりはしません

 これは、ヨハネの福音書で主イエスが語られた最初の説教の中心的な部分の言葉です。ここで、主イエスが語られたのは「わたしはいのちのパンです」と語られました。この主イエスの自己啓示のメッセージとして、「わたしのもとに来る者を、わたしは決して追い出したりしません」と語られたのです。

 新改訳2017では「追い出したりはしません」となっていますが、以前の新改訳では「決して捨てません」と訳されていました。この「捨てない」という言葉は、この6章のはじめに、5つのパンと2匹の魚で大勢の人のお腹がいっぱいになった出来事と結びついています。その時に残ったパンのことを、主は「一つも無駄にならないように」と言われました。6章12節です。ここも、以前の翻訳では「一つも無駄に捨てないように」と訳されていて、同じ言葉だということが分かるようになっていました。今回の2017年度版ではそのことが分かりにくいのですが、実はこの2つの言葉は深く結びついています。

 主イエスは、先の奇跡を行われたときに、5000人の人々のおなかを満たされました。その時に余ったパン切れを「一つも無駄に捨てないように」と戒めておられるのです。もう役割を終え、お腹が満たされれば見向きもされなくなってしまうパンに対して、主はその余ったパンは大事なものだと言っておられるのです。そして、今日のところでは、主イエスのところに来た者を、もう価値がないから捨ててしまうということはないというメッセージとして語られているのです。

 私たちの主は「追い返さないお方」なのです。「余っている」「余分である」「今必要ない」とは思わないお方です。目先のことだけを考えて、私たちを受け入れてくださったのではないのです。それはつまり、「いつも受け入れてくださるお方」ということです。

 私たちが生かされているこの世界は、どんどん切り捨てていく世界です。いらなくなったもの、無駄なものは捨てて身軽になっていこうという世界です。そういう世界は、エリートだけが必要とされる、価値あるものだけが認められる、弱者に厳しい社会です。

 しかし、主はそうではないのです。主の前に「余ったもの」は存在しません。それはパンも人も同じ。主はそのすべての「もの」を、父から与えられたものとして受け入れてくださるお方なのです。
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2022 年 1 月 1 日

今月の礼拝予定(2022年1月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 12:51

1月2日 降誕節第二主日

主日主題: 新年
聖餐礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ヨハネの福音書6章37節
説教:「喜んで迎えるお方」鴨下直樹牧師

1月9日 降誕節第三主日

主日主題: 聖霊のとりなし
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章26-27節
説教:「私たちの心を探られる方」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員会

1月16日 降誕節第四主日

主日主題: 御子のかたち
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章28-30節
説教:「御子のかたちと同じ姿に」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会

1月23日 降誕節第五主日

主日主題: キリストのとりなし
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章31-34節
説教:「キリストにとりなされて」鴨下直樹牧師

1月30日 降誕節第六主日

主日主題: 神の愛
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書: ローマ人への手紙8章35-39節
説教:「切り離されることのない神の愛」鴨下直樹牧師

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