2022 年 3 月 30 日

ざっくり学ぶ聖書入門39 ローマ人への手紙

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 20:18

2022 年 3 月 27 日

・説教 ローマ人への手紙11章1-12節「恵みの選び」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:05

2022.03.27

鴨下直樹

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午前10時30分よりライブ配信いたします。終了後は録画でご覧いただけます。


 
 パウロは当時の文化と世界の中心都市であるローマに手紙を書き送っています。この時、パウロはまだローマに行ったことがありません。けれども、パウロから福音を聞いた人々がローマに移って行って、そこで集まりを開くようになったのです。

 そこで、パウロはまだ見ぬローマの教会の人たちに、主イエスが私たちに与えてくださった救いについて、丁寧に書き記していきました。この手紙を読むだけでキリスト教のことが分かって、信仰に入ることができるようになることを願ったのです。

 1章から8章では、信仰の土台となる主イエスが私たちに何をしてくださったのかを書きました。そして、そのあとの9章から11章では、神の約束の民であるユダヤ人たちはどうなるのかということを書き始めたのです。

 ユダヤ人は一体どうなるのかということを、今の私たちはあまり気にしないと思います。ユダヤ人のことは良く分かりませんし、昔の出来事です。大切なことは、やはり自分たちのことです。けれども、この時代、聖書のことを知ろうと思うと、ユダヤ人たちの集まっている「会堂」「シナゴーグ」と呼ばれるところに行くしかありませんでした。そして、キリストの福音について触れた人たちも、自然にこのユダヤ人たちの「会堂」というところに集まるようになっていました。

 そうすると、どうしてもユダヤ人たちと、主イエスを信じるキリスト者とかキリスト教会の人たちと、何がどう違うのかということを説明する必要があったのです。それで、パウロはここで丁寧に、ユダヤ人たちは神様に対して信仰的ではなく、神に逆らって歩んできたことと、それでも、神様はそのユダヤ人のことを大切に思っているということを語っていったわけです。

 先週の「ざっくり学ぶ聖書入門」で、使徒の働きを学びました。前回は使徒の働きの2回目で、パウロの宣教の部分が記されている12章から最後の章までを扱いました。

 パウロは、神から使徒として召されて、異邦人の伝道に遣わされます。三回にわたる伝道旅行で、かなり広範囲の地域に福音を宣べ伝えます。ところが、使徒の働きを読むと、異邦人伝道と言いながら、パウロはいつも、「会堂」と呼ばれたユダヤ人たちの築いた信仰と聖書の教育をする場所を伝道の拠点にしたのです。

 ユダヤ人たちはその長い歴史の中で、「ディアスポラ」と言いますが、各地に「離散」してきます。国土を奪われたユダヤ人たちは各地に散らばって、そこでユダヤ人たちの集まりを作っていきます。その中心拠点になったのが、「会堂」とか「シナゴーグ」と呼ばれるところです。
 私たちも良く分かっていることですけれども、この「ユダヤ教」と「キリスト教」には大きな違いがあります。ユダヤ教は「旧約聖書」しか扱いませんが、キリスト教には「新約聖書」があります。ただ、問題はパウロの伝道していた時にはまだ新約聖書はありません。その当時のキリスト教会は、旧約聖書をベースにしながら、主イエスの教えられたことをそれまでのユダヤ教の人たちの考え方とは違う解釈をしていきました。

 それは、異邦人はキリスト者になるためにユダヤ人のように割礼を受ける必要はないし、ユダヤ人たちの生活習慣、おもに食物規定と言われる食べ物に関する戒めを守らなくても良いという考え方です。それで、エルサレムの教会は、パウロが第一回目の伝道旅行から戻ってきた後で、この問題について一つの見解を示しました。それは、異邦人たちにユダヤ人のような戒めを課さないということです。割礼も必要ないし、ユダヤ人の律法を守る義務も課さない。それが、エルサレム会議の結論だとパウロは理解したのです。

 けれども、エルサレム会議は結論の最後に一つの文言をつけ加えます。これまでどの会堂でも大事なこととして扱ってきた食べ物の規定と、みだらな行いは気をつけるようにという一文です。そして、この最後の一文が付いたがために、パウロはその後も、どの町に行ってもユダヤ人キリスト者たちと戦うことになってしまうのです。やはり、パウロのしていることは、教会の主流の考え方ではないとなってしまったのです。

 パウロにとって、このユダヤ人キリスト者たちというのは、ずっと伝道の邪魔をする嫌な存在でしかありませんでした。また、生粋のユダヤ人たちもなかなかパウロが語る福音を受け入れない心の固い人と思って来たはずなのです。

 ユダヤ人たちの立場からしても、自分たちが建てた会堂で、自分たちが教えていることとは異なることをパウロが教えるわけですから、いい迷惑だったに違いないのです

 そのパウロがここで、ではこのユダヤ人たちはどうなるのかという結論を語っていきます。それが、この11章です。

 パウロはまず自分もユダヤ人であるということを、語り始めます。ただのユダヤ人ではありません。「アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です」と語りました。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 23 日

ざっくり学ぶ聖書入門38 使徒の働き(2)

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2022 年 3 月 20 日

・説教 ルカの福音書18章1-8節「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:05

2022.03.20

井上正彦

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礼拝前半


 

礼拝説教から


 

 ただいまご紹介をいただきました私が津島佐織キリスト教会と北名古屋キリスト教会牧師の井上正彦です。

 私がこの芥見キリスト教会へ来始めました頃、丁度同時期ぐらいに同じ歳ぐらいの青年方が何人かすでに集っておられました。そのことを教会の方々は非常に喜んでくださいまして、当時青年だった私たちに「教会に青年が与えられるように祈っていたのですよ!」と満面の笑みで語りかけ喜んでくださいました。当時、信仰的な意味で理解ができていなかった私はその意味が十分に分からずにおりましたが、20年近く前にラジオ放送の「世の光」月間のニュースの巻頭言の原稿を依頼されて祈りつつ、その原稿を書いておりました時にふいに雷に打たれたような衝撃が走りました。

 実は私は教会へ集うようになる前から、朝早く美濃市の実家から名古屋の会社へ行く道中に毎朝ラジオ放送を聴いていました。私は毎朝、旧芥見教会会堂のある国道156号線沿いの「神は愛なり」という芥見教会の小さな電柱の看板を横目で見ていました。その看板を通過するその時間に私は「世の光」のラジオ放送を聴いていました。私は「世の光」のラジオ放送と三浦綾子の本に触れる中で、やがて私は教会へ通うことを決心して、日曜休みのある地元の工作機械の会社に転職し、芥見教会へ毎週通うようになりました。そして芥見キリスト教会は自分が毎日聴いていた「世の光」のスポンサー教会の一つであることを思い出し、私はそこに衝撃が走ったのです。私は自分の意志で教会の門を叩いたはずなのに、教会の方々の、当時見ず知らずの私たちに対するとりなしの祈りの中で、私たち当時の青年が教会に導かれて来たということを改めて感じ入ることができました。それと共に、私にとっては主なる神様にとりなしの祈りをささげることの大切さを痛感したエピソードでした。
 
 さて、本日の聖書のみことばであるルカの福音書第18章1節から8節には、一つの譬え話が出てまいります。登場人物は二人です。一人は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。もう一人はやもめです。この二人の背景についてもう少し詳しくみる必要があると思いますので、説明しますと、この「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」は、どうやらユダヤ人の裁判官ではないようです。当時のユダヤの法律では、何かを裁く裁判官は3名いたようです。一人は原告側から選ばれ、もう一人は被告側から選ばれ、三人目は原告、被告とは関係のないところから裁判官が選ばれて、公正な裁定が下されていたといいます。他方、一人の裁判官が裁きを下していたということは、これはユダヤ人による裁判官ではなくおそらく当時のユダヤを支配していたローマ政府の治安裁判官であったと言えます。このような裁判官は公正な裁判をすることは少なかったようで、もし裁判を有利に進めようとすると、コネクション(縁故による人間関係)と賄賂を使うのでなければ、裁判に勝てる見込みはほとんどありませんでした。逆に言えば、裁判官にとってうまい話があれば、社会的正義や通常の道理を押し曲げることぐらいは平気でやるような人たちでありました。その一つとして、主イエスが十字架の刑にかけられるかどうかの裁定を下す際、当時ローマからの総督であったポンティオ・ピラトなどはその典型例と言えます。また、6節では、主イエス自らがこの裁判官のことを「不正な裁判官」とも断定して言われていることからも、十分にこの裁判官が問題に対して、正義や道理に照らし合わせて公正に裁判するような人ではなかったことがご理解いただけるかと思います。

 他方、もう一人の登場人物は、やもめです。聖書でやもめは貧しく弱い者のシンボル(象徴)でした。社会的地位もお金もないわけですから、先の「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」の所へ行って、「私を訴える人をさばいて、私を守ってください」との願いは普通ならば聞きとどけられることありえませんでした。ところがこのやもめには一つの武器と言えるものがありました。それは「しつこさ」です。先の裁判官は5節でやもめのことを「うるさくて仕方がない」「ひっきりなしにやって来て」と言っているように、このやもめは自分を守るための裁判を行うまでこの裁判官に執拗に食らいつきました。そして最後には、この裁判官は「このやもめは、うるさくて仕方がないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう」と思うようになります。

 ですから、ここでたとえ血も涙もないような不正な裁判官であっても、執拗なやもめの嘆願に対して根負けしたからさばきをするというのです。そうしますと、今日の聖書のメッセージは、神様を不正な裁判官として見立てて、とにかくしつこく祈れば、その祈りは聴かれるということになるのでしょうか。そうではないと、今日のみことばはその後に続いて語られます。6節では、「主は言われた。『不正な裁判官が言っていることを聞きなさい。まして神は、昼も夜も神に叫びを求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。」とあります。

 ここで、不正な裁判官とやもめのやりとりも念頭に置きつつ、それを今度は主なる神と私たちとのやりとりに置き換えて考えてみよ、と言われました。そうした時、不正な裁判官でさえ、やもめのしつような嘆願を聞きとどけるのだから、まして義と愛なる私たちの父なる神は不正な裁判官とは全く異なり、神の民の祈りを常に聞きとどけてくださり、速やかにその解決を与えてくださるというのです。つまり神様の前での私たちの祈りは決して無にはされない、ということです。私たちは日常での信仰生活において、神様が私たちの祈りを聴かれないとか、祈りが本当に聴かれているのだろうかと疑念をいだくことがあるかもしれません。しかし、やもめの執拗な嘆願を不正な裁判官は迷惑しつつも自分の日頃の行いを変えてまで行動するのだから、まして、私たちの主なる神様は私たちのことを決してお忘れにも、お見捨てにもならないと言われるのです。

 私たち福音派の教会は「デボーション」(日々聖書を読み、祈り、神と交わること)ということを入門クラスや日常の信仰生活の中で強調いたします。しかし、そこで、間違ってはならないのは、この「デボーション」を行う時に、「私にとって主なる神様、主イエス様はどのようなお方であるか」という視点です。そこを見落として、聖書を読み、祈っていくと信仰生活が私たちの行動規範の修正に終始し、信仰生活自体が自分を責めるだけのものとなり、重苦しいものとなってしまいます。そうではなくて、聖書を通して、生ける神ご自身が聖書の登場人物を通しての語りかけや手紙などを通して、どのような働きかけや関わりをしてくださり、どのようなお姿で私たちに関わってくださるのかを知る時に私たちは本当の慰めをいただけるのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 13 日

・説教 ローマ人への手紙10章14-21節「福音宣教」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:03

2022.03.13

鴨下直樹

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 聖書を読む。これは、クリスチャンである私たちがとても大切にしていることです。聖書を通してしか、神様のことが分かりません。そして、聖書には、私たちがどう考えていけばいいのか、私たちの生きる意味や、判断の仕方、目標、大切なことがここに記されています。

 今、私たちが耳を傾けているローマ人への手紙の9章から11章まででは、ユダヤ人は救いにあずかることができるのかどうか、というテーマをパウロは語っています。今日のところは、ユダヤ人は聖書を読んできたのに、どうして救われないのかという問いに答えているところです。これは、聖書を大切にしている私たちにとって、素通りすることのできないテーマです。

 ユダヤ人は、子どもの頃から聖書を暗記するように教えられている民族で、聖書と共に歩んできた民と言ってもいいと思います。もちろん、そこでいう聖書というのは旧約聖書のことです。特に、モーセ五書と呼ばれる、神から与えられた律法、神の戒めを記している箇所などは、ことさらに大切にしてきたのです。それなのに、なぜユダヤ人は救われないのか。これは、とても大切なテーマです。

 今日の私たちクリスチャンとは、比べものにならないほど、聖書を大切にし、聖書に親しんできたのが、ユダヤ人です。それなのに、私たちは救われて、聖書を誰よりも熱心に読んできたイスラエルの民が、救われないのだとしたら、いったい自分たちが大切にしてきた聖書とは何か。せっかく時間をかけて読んできても何の役にも立たないもの、ということになる可能性もあるのです。

 それで、パウロはここで、信じるために必要なものは何かということを、語ります。あまりまわりくどい言い方はしないで、信じるために必要なのは、まず「聞く」こと。聞かなければ信じられないと言います。けれども、その福音を「聞く」ためには、「宣べ伝える人」が必要で、宣べ伝えるためには「遣わされる」ということが不可欠だということを順に語っています。

 神様のことを伝える、神から遣わされた「メッセンジャー」が必要なのです。

 今、私たちは大きな戦争のニュースを毎日耳にしています。そこで驚くのは、ロシアの人たちは、隣の国でロシアの軍隊が行っていることを知らないということです。それを聞くと愕然とします。若い、20代、30代の人たちはインターネットで世界中と繋がることができますから、何が今行われているのかよく知っています。けれども、高齢者になるほど、テレビのニュースしか耳に入って来ないので、隣の国で何が行われているのか知らないのです。プーチンの支持率は71パーセントに増えたというニュースが先日報道されたばかりです。もちろん、このニュースも本当なのかどうかさえ分かりません。ただ、そこで私たちが驚くのは、「事実を知ることができない」、大切な知らせを伝える「メッセンジャー」がいないとどうなるのかという恐ろしさです。

 ロシアの外務大臣は「戦争をしていない」とさえ発言しました。あるロシア人は、「ウクライナ人が、自分たちで自分たちの町を破壊している」と言って世界を驚かせました。正しいことを知らせるメッセンジャーがいないのです。

 伝える人がいなければ、信じることができないというこのパウロの言葉は、メッセンジャーの存在の大切さを私たちに改めて思い起こさせます。しかし、一体誰が、その知らせを、メッセージを届けるのでしょうか。一体誰が、メッセンジャーを遣わすのでしょうか。

 旧約聖書は、この神から遣わされたメッセンジャーのことを「預言者」と言いました。神の言葉を預けられて、届ける役目です。

 「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」とパウロはイザヤ書の52章から引用して語りました。

 ここでパウロはメッセンジャーの「足」のことを「美しい」と語ります。大事なのは、顔でも口でも、声でもなくて、「足」だというのです。そこで意図されているのはその預言者の背後にある「遣わす者」の存在です。

 伝えている人の口や声が美しいというのではなくて、その「足」に目を向けさせるのです。イザヤ書40章の9節では、

シオンに良い知らせを伝える者よ、
高い山に登れ

と記されています。

 この言葉の背後には、バビロンによる捕囚が終わりを迎えるという知らせをエルサレムに届けるために、山を越えて、シリアの砂漠と野原を超えて知らせを届けることを語っています。イザヤ書52章の7節にはこういう言葉があります。

良い知らせを伝える人の足は、
山々の上にあって、
なんと美しいことか。
平和を告げ知らせ、
幸いな良い知らせを伝え、
救いを告げ知らせ、
「あなたの神は王であられる」と
シオンに言う人の足は。

 パウロの言葉はここからの引用だということが分かります。伝えるメッセージは、「あなたの神は王であられる」というメッセージなのです。その知らせを伝えるために、バビロンから山を越え、砂漠を超えて、救いの言葉を人々に届ける。そのメッセンジャーの足は美しいというのです。

 それは、このバビロン捕囚というイスラエルの民にとって絶望的な状況にあって、「神が王となられる」というメッセージ、バビロン捕囚が終わるというメッセージを早く伝えたくて、必死に走って来た足なのです。その知らせの、福音の内容のすばらしさを届けたいという、その預言者の持っているメッセ―ジの力に目をとめさせるのです。

 そのような力強いメッセージが届けられたとしても、肝心なことは、そのメッセージを「信じる」ということが必要です。「聞いて、受け入れる」ということがなければ、そのメッセージは意味をなさないのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 6 日

・説教 ローマ人への手紙10章1-13節「イエスを主と告白する」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:09

2022.03.06

鴨下直樹

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 先週行われた教団役員会で、開会説教をされた先生が「グレート・リセット」という言葉を紹介されました。私はこの言葉を知らなかったのですが、少し気になって調べてみました。この言葉が最近になって使われるようになったのは、2021年、世界経済フォーラムが開催するダボス会議のテーマとして「グレート・リセット」が取り上げらたからでした。この「グレート・リセット」というのは、今あるシステム、金融システム、社会経済システムなど、これらのシステムは第二次世界大戦の後に作られたものが多いのですが、これらのシステムをいったん全部リセットして、もう一度やり直そうという考え方です。特に、コロナになって、社会はこのままでは難しいという中で、新しい枠組みを作りなおそうということを考え始めている人たちが出てきているようです。

 私がこどもの頃、当時ファミリーコンピューターというテレビゲームがはやり出しました。このゲーム機には手前に、赤い「リセットボタン」というのが付いていまして、ゲームがうまく進められないと、「リセットボタン」を押して、ゲームを全部最初からやり直すということができました。ゲームがうまくいかないと、何度もこのリセットボタンを押してやり直したものです。

 考え方はこれと同じです。今の社会のシステムがうまくいかなくなったので、一度リセットボタンを押して、全部最初からやり直そうという考えを持つ人たちが出てきたのです。

 そういう世界のシステムをもう一度やり直そうという考え方は、以前からありましたし、このコロナや、ロシアがウクライナに対して始めた今回の戦争で、ますますそういう流れは進んで行くということが考えられます。

 今日の聖書の中に、「律法の目指すものはキリストです」という言葉があります。「この目指すもの」という言葉には、「目標」という意味と、「ゴール」という意味があります。神が、私たちに与えた律法、神の戒めは、キリストに向かっている、キリストによって完成するということです。

 これは、神の言葉は、キリストによって完成すると言い換えることもできると思います。目標をどこに置いているのか、そのゴールはどこか。そのことを見誤ってはならないのです。

 神の願っておられること、その中には当然経済も、政治も、教育も、そのすべてが含まれているはずです。そして、それらの目指すものは一体どこにあるのでしょうか。一部の人の利益につながるものだとすれば、それは争いの源となってしまいます。
 ここで、パウロは祈りをささげています。1節です。

兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。

 ここで、パウロはまず「兄弟たちよ」と語りかけました。あなたがたは私の側にいる友だ、仲間だ、家族の一員なのだ。そのローマに住む、まだ見ぬ家族に対してパウロは願っていることがあるというのです。それは、ユダヤ人たちが救われること。これが、私の心のからの願い、祈りなのですとパウロは語り出すのです。 (続きを読む…)

2022 年 3 月 2 日

ざっくり学ぶ聖書入門37 使徒の働き

Filed under: 聖書の学びと祈り会 — susumu @ 19:52

2022 年 3 月 1 日

今月の礼拝予定(2022年3月)

Filed under: 今月の礼拝予定 — susumu @ 00:30

3月6日 受難節第1主日

主日主題: 信仰告白
聖餐礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書のお話:「バルテマイ」可児宏子
聖書: ローマ人への手紙10章1-13節
説教:「イエスを主と告白する」鴨下直樹牧師

礼拝後:役員会/誕生月の方への祈り

3月13日 受難節第2主日

主日主題: 福音宣教
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書のお話:「ザアカイ」山田茜
聖書: ローマ人への手紙10章14-21節
説教:「福音宣教」鴨下直樹牧師

礼拝後:礼拝準備会/月間予定確認会

3月20日 受難節第3主日

主日主題: 教会
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書のお話:「宮きよめ」鴨下愛
聖書: ルカの福音書18章1-8節
説教:「私たちの祈りを聴く神」井上正彦師

3月27日 受難節第4主日

主日主題: 恵みの選び
公同礼拝: 午前10時30分(ライブ配信)
聖書のお話:「弟子の足を洗う」河合和世
聖書: ローマ人への手紙11章1-12節
説教:「恵みの選び」鴨下直樹牧師

礼拝後:教団三月総会

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