2022 年 9 月 25 日

・説教 詩篇57篇「私をあわれんでください」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 15:10

2022.09.25

鴨下直樹

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私をあわれんでください。

 今日、私たちに与えられている聖書の言葉はこの祈りの言葉からはじまっています。

 皆さんは、お祈りをするときに、何を祈っているでしょうか。どのように祈っているでしょうか。

 日ごとの感謝の祈り、あるいは、何か困ったことが起こった時に神に助けを求める祈り、毎日の神様との交わりの祈り、誰かのための執り成しの祈り、などいろんな祈りがあると思います。

 そこで、もう一度考えたいのは、自分と神様との交わりの祈りはどうでしょうか? 私たちは自分のことを神の御前に心を注ぎだして祈っているでしょうか。今日はそのことを考えてみたいと思います。

 お祈りをするとき、私たちはお金も求められていなければ、何か特別なことを要求されているわけでもありません。いつでも、どんな時でも私たちは神に祈ることができます。それなのに、神様と深い関係、どんなことでも祈ることができる関係にまだなっていないのだとしたら、それはとても残念なことです。

 今日、ここに記されている祈りの言葉は、祈りの極意と言ってもいいほど、祈りの本質を表しています。

神よ。私をあわれんでください。

 この祈りの中に、私たちは深い神との交わりを発見することができるようになります。

 この詩篇57篇の祈りには表題がつけられています。

指揮者のために。「滅ぼすな」の調べで。ダビデによる。ミクタム。ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに。

 こんなふうに書かれています。おそらく、この詩篇がイスラエルの人々に歌われていた頃には、「滅ぼすな」というメロディーがあったのでしょう。そのメロディーでこの詩篇を歌います。そんな楽譜に書かれた指示のようなことが表題に書かれています。「ミクタム」というのは、意味が良く分かりませんが、記念碑の「碑」とギリシャ語の七十人訳聖書では訳されております。「黄金」という言葉と似ているので、「黄金の歌」というように説明されることもあります。

 特に大切なのはその後です。「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあります。

 ダビデはサウル王に追われて逃げて洞窟にいた時というのは、第一サムエル記の22章に出てくる「アドラムの洞窟」にいた時と、24章の「エン・ゲディの荒野」にいた時と二度聖書には記されています。22章では、その洞窟に続々と仲間たちが集まって来て400人の仲間になったことが記されています。この時、ダビデのことを助けた祭司アヒメレクの家族がサウル王によって皆殺しにされてしまうことが記されています。24章ではダビデたちの隠れている洞窟に、サウル王が用を足しに来た時、サウルを殺すチャンスがあったのですが、ダビデはそれをしないで、上着の裾を切り取っただけで、サウルを助け、自分に敵意はないことを知らせたことが記されています。それを聞いたサウルは、この時はダビデに誓いをさせて、帰っていきます。

 この二度の出来事を通してみても、ダビデは何度もサウルに追われて、危機に瀕していたことがよく分かると思います。この時の出来事がこの祈りの背景にあるようです。

 ダビデがこのサウルに追われていた時の祈りという内容の詩篇は、詩篇の中に沢山あります。ダビデの詩篇と言われているものの多くが、ダビデが絶体絶命の危機に瀕している時のことが歌われているのです。

 問題は、まさにそういう時に、私たちはどのように神に祈るのかということです。こういう時に、私たちの神への信仰が明らかになるのです。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 18 日

・説教 申命記31章1-8節「先立ち、ともに進まれる神」脊戸明師

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 08:04

2022.09.18

脊戸明

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後半:


 

2022 年 9 月 11 日

・説教 詩篇11篇「直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」

Filed under: ライブ配信,礼拝説教,説教音声 — susumu @ 00:11

2022.09.11

鴨下直樹

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 以前、この芥見教会の祈祷会でレビ記の学びをしたことがあります。聖書通読をしていますと、創世記から読み始めた方の多くがこのレビ記で止まってしまうことが多いようです。レビ記は難しいという印象を持つようです。けれども、このレビ記が分かってくるようになると、聖書がかなり読めるようになります。

 このレビ記のまとめが書かれているのが26章です。ここは、「祝福と呪い」というテーマで書かれています。神様の戒めを守るものは祝福に与り、神様の戒めをないがしろにするならば、呪われる。そういった内容です。

 昨日、東海聖書神学塾で、このレビ記の学びの最後の講義を行いました。そこで、講義を聞いていた方が、この26章を学んでこんな質問をしました。
「これは、因果応報ではないのですか?」というのです。

 よく、私の説教の中で、「聖書の神は因果応報の神ではない」という発言をします。これは、私だけではなくて、多くの牧師がそのように語るのだと思います。けれども、実際に聖書を読んでみると、このレビ記26章にあるような、どうしても、因果応報というテーマで書かれているような箇所にでくわすことになります。

 良いことを行えば祝福される。悪いことをすれば裁きにあう。一般的な言葉で言えばバチが当たるというわけです。そうするとこれは因果応報ではないか? そんな思いを持つのです。みなさんも、そのように感じることがないでしょうか?
 
 その方の質問はそこで終わりませんでした。さらに、こんなことを言われたのです。
「でも、クリスチャンとしてちゃんとやっているはずなのに、自分の身に災いが降りかかってくることが沢山あって、どうしてもモヤモヤしてしまうのです」そう言われました。

 その方はがんを患って抗がん剤治療でかなり苦しんだようです。今はがんからは癒されたようですが、その後もずっと体調が悪くて日常生活に支障が出ています。私は何か神様を怒らせるようなことをしただろうか。ちゃんと信仰生活しているはずなのに、どうしてなのだろう。どうして、こんなに辛いことばかりが身に降りかかってくるのだろう。そんな悩みを感じているのです。

 私たちも、そういった思いを持つ方があると思います。そして、なかなかこのモヤモヤがすっきりしないのです。

 私は、その時にこの方にこんなことを言いました。 (続きを読む…)

2022 年 9 月 4 日

・説教 詩篇17篇「瞳のように私を守ってください」

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2022.09.04

鴨下直樹

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 これまでローマ人への手紙からみ言葉を聞いて来ましたが、今日からしばらくの間、詩篇やさまざまな箇所からみ言葉を聞いていきたいと願っています。

 今日の、この詩篇の祈り手は、自分の訴えが正しいと信じています。自分は、主の前に誠実に生きて来たのに、自分の身に降りかかってくるのは災いばかり。それで、神からの救いを、慰めを求めるのです。詩篇を読んでいると、時折このような詩篇の言葉に出会います。

 先日、私はある方からとても美味しい梨を頂きました。梨は私の大好物です。梨好きなので、触っただけで、その梨が美味しいかどうか想像ができます。頂いた梨も、どれもとても美味しく私のお腹の中に入りました。ただ、梨以外の果物となると、触っただけで味を見極められるとはいきません。

 みなさんも経験のあることだと思うのですが、これは美味しい果物に違いないと、少し高めのお金を払って、家に帰って食べてみると、思ったほどではないという経験をすることがあるのではないでしょうか?

 美味しい味を知っていると、それは、それなりの値段がするということが分かるわけですが、出した値段の割に、思ったほどでなかったりするとがっかりしてしまいます。ある程度の品質のものを求めると、それ相当の値段がするのです。

「クオリティー・オブ・ライフ」という言葉があります。「生活の質」を豊かにしたいということをあらわす言葉です。最近いろんな所で使われるようになりました。病院の生活や、介護施設などでも使われることがあります。

 意味は良く分かるのです。豊かな質のものに囲まれて生活したい。それをさまざまな領域で求めるのです。私たちは、一度良い物を知ってしまうと、なかなかその質を下げることが難しくなってしまいます。だから、どこででも、それなりの生活の質を求めたいということになるわけです。

 問題は、良い物を知ってしまうと、残念なことですが悪いものでは満足できなくなるということが起こります。食べるものがない時代や、困難な時代は、食べるものがあるだけでありがたいのですが、いつの間にか、クオリティーの低いものを掴まされると、腹がたつというジレンマに陥ってしまいます。良い物に囲まれて生きたいと願うのに、その結果、悪いものに悩まされるというジレンマが待ち構えることになるのです。
 
 これは、私たちの人生のさまざまな場面で登場します。ここ数週間、教会の中のかなりの割合の方々がコロナウィルスに感染してしまいました。そうなると、自宅に留まらなければならなくなってしまいます。買い物を自由にできません。この隔離期間の間は、外に出られませんので、それこそ人生のクオリティーというようなことが言えなくなってしまいます。

 そんな時、私たちはそのがっかりした気持ちから、どのように抜け出すことができるのでしょう。本当の慰めというのは、いったいどこから来るのでしょうか。

 この詩篇17篇というのは、ダビデの祈りと表題に記されています。もし、ダビデが書いたのだとすると、いつ頃の祈りかなと想像するのですが、ダビデは祭司サムエルから王様になるという油注ぎを受けます。ところが、ダビデが油を注がれた時、イスラエルにはサウルという王がいました。ダビデはこのサウル王に仕えるのですが、サウル王はダビデを憎んで、いつもダビデを捕らえようと狙い、常に命の危機を感じていました。

 そんなときの祈りだとすると、この詩篇の状況がよく理解できそうです。 (続きを読む…)

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