2011 年 1 月 2 日

・説教 「主の善き業に支えられ」 ローマ人への手紙12章21節

Filed under: 礼拝説教 — naoki @ 14:11

鴨下直樹

2011.1.2

新年礼拝説教

 

 

新年のローンズンゲンによる新年聖句

「悪に負けることなく、善を持って悪に打ち勝ちなさい」新共同訳

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」新改訳

 

 

2011年を迎え、今朝は今年最初の礼拝を共に祝っています。特に、この朝は新年礼拝ということもあって、今年のローズンゲンによる「日々の聖句」の今年の年間聖句から共に御言葉を聴きたいと願っています。

 

 この新しい年に私たちに与えられているのは「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」という御言葉です。

 

 私たちは年の初めにこのような御言葉を耳にすると、何やらこの一年がこの御言葉に暗示されているような気がして、もうすで悪に負けそうだという思いになる方があるかもしれません。

 「悪に負ける」という言葉の中には、私たちはさまざまな自分の生活の中で思い浮かぶ事柄があるのだと思います。いや、むしろ、日ごとに悪に負け続けているという思いの方が強いかもしれません。だからこそ、来年の聖句として、このような御言葉を耳にすると少し気分的に重たい気持ちになるのかもしれないです。

 

 この朝、私はここで、この「悪」とは何かということについて、皆さんの心の中に思い描かれていることと考えてくださっていいと思います。この年、私たちは自分にとって弱いと思える部分としっかり向かいあって、信仰の戦いをする備えをすることがやはり必要だと思うのです。

 私たちの迎えるこの新しい一年も、目の前には様々な悪が待ち構えています。「悪」とは神から私たちを引き離す様々なものです。この新しい一年を迎えるにあって、教会では「悪に負けるな」という御言葉を語るのです。これはとても大切なことです。私のこの朝の説教の題を見て、あれと思われた方も少なくないと思います。予定では「悪に打ち勝つ一年」という説教題を最初掲げました。しかし、今朝になって、教会に来てみると、「主の善き業に守られて」という題に変わっています。初めは、「悪に負けるな」というメッセージを語おろうとおもったのです。それが、この聖書が私たちに語りかけていることだからです。

 

 けれども、この説教の準備をしつつ、この題はどうもいけないと考えを改めるようになりました。というのは、「悪に負けないようにしよう」というスローガンを掲げたとしても、私たちはそれをおそらく一日だって自分の力で行うことはできないからです。それほどに、私たちは悪に対して勝ち得る力を持っていないのです。

 

 この御言葉はそのまま素直に読みますと、善を行うことによって、悪に打ち勝つ道が開かれると読むことができます。そうすると、悪に負けないために、善き業に励みなさい。善い行いさえしていたら、善行に励めば悪など恐れることはないのだということになります。しかし、果たしてそうでしょうか。パウロがここで語ろうとしていることはそういうことではないはずなのです

 

「善を行う」とは何をすることなのでしょうか。善い行いをすることによって、悪い行いをすることを忘れることができると、この言葉を読みとることは確かにできるかもしれません。そして、それは今の時代に流行となっている前向き思考でいけばいいのだということになるかもしれません。前向きに生きるならば、後ろ向きの考え方を捨てることができる、というような考え方は、しかし、事柄の一面しかとらえていません。そんな前向きに考えることもできないほどの、怒りが自分を襲う時、あるいは、悲しみが襲う時、前向きに考えるなどということで、その問題を乗り越えることはできないのです。

 善いことをしていれば、悪いことはできなくなる、というようなことをパウロはここで語ろうとしているのではないのです。もっといえば、パウロはこの言葉を、ただ、ポンと人に投げたのではなくて、この言葉を語るまでの手続きがちゃんとなされていることを私たちはよく知っていなければなりません。

 

 パウロがこの前に何を書いているかというと、すぐ前に書いていることは復讐するなということです。十七節では「悪に悪を報いることをせず」と書いています。そして、続く十九節では「愛する人たち、自分で復讐してはいけません」と言っているのです。悪いことをされたら、悪いことをして返す。自分が傷つけられたら、相手も傷つける。自分が何かで損を被ったら、相手にも同じように仕返しをする。叩かれたから、たたき返すというような子どもの持つような復讐心を、私たちは滑稽に思うのですけれども、わが身を振り返ってみると、同じところに自分も生きているということに気づくのです。

 そのような、やられたからやり返すというような事柄も、ここでパウロは「悪」と言う言葉で表現していることが分かります。悪とは何か。最初に語りましたように、それは、人を神から引き離させる行為だというところに留まっていられる間は、私たちは自分の日常の生活と少し切り離して考えることができるのかもしれません。しかし、パウロはここで、私たちの持つ悪を、非常に日常的なところ見ている、非常に具体的なこととして考えているのです。

 

 スイスの説教者でヴァルター・リュティーという説教者がおりました。この人の説教の中に、夫から苦しめられ続けた一人の婦人の話がでてきます。その夫は、その悪い性質のために、自分を死ぬほど苦しめることがあると、リュティ牧師に話しました。けれども、その夫人は続けてこう言ったのだそうです。「けれども、私を苦しめる夫からも、時にはけしつぶほどの善意が流れ出ることがあることを、この苦しみの数年間の間に発見しました」と。まるで、その女性は、金鉱を探し当てるように、それを発見するまで目を凝らして掘り進まなければならなかったのです。そして、この婦人はさらにこう付け加えました。「それで、私は、夫を、毎日いわば掘り出さなくてはならないのです」。リュティ牧師は、この「掘り起こす」という言葉をこの女性が使ったのを忘れることができないと言っています。

毎日、私たちは友人を家族を、隣人たちを毎日新しく大きな穴に埋めるのではなくて、掘り出すのだと。そして、私たちも神に対して同じようにしてきたのではなかったかと問いかけるのです。主が、毎日毎日神を悲しませ続けている私たちを、それでも愛することを諦めることなく、主が私たちを深く掘り下げてくださったのです。私たちを見出し続けてくださったのです。

 

 悪に対して、人は何かをできるかと言った時に、私たちは自分は本当に無力で弱い存在であるということを知らなければなりません。というのは、人間には悪に対して、最終的に何かをすることができる力を持っていないからです。悪を滅ぼす力など、私たちにはありはしないのです。だからそこ、パウロはここで善を持って悪に打ち勝ちなさいと語っているのです。つまり、善とは神の御業以外の何物でもありません。

あるドイツの神学者はかつて、この善という言葉を「神の愛」と言い換えることができると言いました。まさに、その通りです。神の愛だけが悪に打ち勝つことのできるただ一つの道のりなのです。神の愛が、私たちのような悪しき者を深く掘り下げてくださって、私たちを支えてくださるのです。主の御業が、私たちを支えてくださるのです。ここに生きようとパウロは勧めているのです。

 

 復讐するのではない、悪が私たちの前に立ちはだかるときに、深い穴の中に落ち込んでしまうそうになる時にも、あなたは、この私たちを深く掘り下げで見出してくださる神の愛に支えられているのだから、この神その愛に生きるならば、悪に負けることはないのです。なぜなら、私たちを支えてくださる主の御業は、悪に勝利する働きだからです。仕返ししたいという気持ちが、きっと日常の生活の中で、何度も何度も私たちを心に浮かんでくるでしょう。前向きに考えたとしても何ともならないというような、悲しみに支配されることもあるでしょう。自分の中に、善いことをしようと思う、思いさえ心の中から浮かんでこないと思えるほど、深みに落ち込んでしまうことがあるでしょう。けれども、そのような深みに私たちがはまり込んでしまう時に、主は私たちを掘り起こしてくださるのです。そして、私たちを下から支えてくださるのです。

 

 今日の説教の題を、「主の善き業に支えられ」という題にしたのは、まさにそのことがここで語られているからです。主が私たちを確かな愛で愛してくださっています。主が私たちを誰よりも深く掘り下げて、私たちの心の中までもご存じありながら、それでも愛してくださるのです。この方が、私たちに、悪に負けないように、怒りに身を任せることがないように、悲しみに支配されることがないように、この一年も私たちと共に歩んでくださるのです。

 「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

私たちはこの一年の間、何度もこの御言葉を聴きなおしてください。そして何度も知っていただきたいのです。私たちの力で悪に打ち勝つのではない、主の御業は、私たちを支えてくださるがゆえに、悪に対して私たちた立ち向かうことができるのだと。そして、この主に支えられていることを、日ごとに知り、日ごとに感謝する一年を過ごすことができるようにと心から願います。

 

 最後に、ヒトラーとの戦いに生きた、ドイツの神学者ディートリッヒ・ボンヘッファーが新年のために書いた詩を紹介したいと思います。タイトルもまた「主のよき力に守られて」というものです。この詩を最後に紹介いたします。

主のよき力に守られて

 主のよき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、
 不思議にも守られ、慰められて、
 私はここでの日々を君たちと共に生き、
 君たちと共に新年を迎えようとしています。

 過ぎ去ろうとしている時は、私たちの心をなおも悩まし、
 悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。
 ああ、主よ、どうかこのおびえおののく魂に、
 あなたが備えている救いを与えてください。

 あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦汁にあふれる杯を、
 なみなみとついで、差し出すなら、
 私たちはそれを恐れず、感謝して、
 いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。

 しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、
 この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、
 私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
 私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。

 あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、
 どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。
 そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。
 あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。

 深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、
 私たちに、聞かせてください。
 私たちのまわりに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、
 あなたのすべての子供たちが高らかにうたう賛美の歌声を。

 主のよき力に、不思議にも守られて、
 私たちは、来るべきものを安らかに待ち受けます。
 神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。
 そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。

この詩が記されたのは1944年の大晦日だと言われています。ボンヘッファーがこの詩を記したのは、獄中で、両親にこの詩を送りました。そして、この翌年、詩の中で語られている新しい年に、ボンヘッファーは処刑されてしまいます。しかし、その死の間際、まさに、あらゆる悪の前にあっても彼は、悪に負けることなく、善をもってそれに打ち勝つことができたのです。それは、主の善き業に守られていたからです。私たちの一年もこの同じ主の善き御業に守られつつ、主と共に歩んでまいりたいと思います。

 

 お祈りをいたします。

 

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