2011 年 1 月 30 日

・説教 マタイの福音書9章9-13節 「罪人を招かれる主イエス」

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2011.1.30

 

鴨下直樹

 

「わたしについて来なさい」という主イエスの招きの言葉がここに記されています。主イエスについていくということは、主イエスの姿を見上げ続けるということです。そして、ここに、私たちキリスト者のあり方が語られているということができます。キリスト者とは何か、どのような者であるかと問われたら、私たちは、キリストの後に従う者ということができるのです。

さて、興味深いのはここで主イエスに招かれているのは「収税所に座っているマタイという人」と記されています。もちろん、この福音書を記したマタイのことです。自分で記した主イエスの物語の中に、自分自身のことを書くというのは考えてみると興味深いことです。

マタイの福音書の九章というのはさまざまな奇跡の物語がしるされているところです。その奇跡の物語の中に、マタイは自分が主イエスに招かれて、主イエスの弟子となったのだということを書いているのです。かつて、イギリスにスポルジョンという名説教家がここでマタイは「自分のような大罪人が、イエスに従う者となった、これこそが大奇跡である」と考えたのでここに書いたのだと言っています。自分が救われたことこそが奇跡だというのです。マタイにしてみれば、さまざまな奇跡物語を書き表しながら、どうしてもここに自分のことも登場させたくなったのだと考える気持ちは、私たちにもよく分かるのではないかと思うのです。

自分は収税所に座っていた男だというのです。これには少し説明が必要です。この時代の税金のシステムというのはローマ帝国から委託された人間が、どうも先にローマにこの町はこのくらいの税金がとれるだろうと見越して、先にお金をこの元締めがローマに納めたようです。そすると、この元締めのことを、取税人の頭などといいまして、たとえばザアカイという元締めが出てまいりますけれども、このような人が、町のごろつきを集めて、税金の徴収をさせたのです。ですから、今でいえばヤクザのような印象を町の人は持ったようです。もちろん、人々が喜んで寄って来るというような人気者ではありません。人が避けて通るのです。まして、収税所というところは、彼らのたまり場のようなところですから、必要ある人しか近づきません。そんなところで、主イエスはこのマタイをご覧になった。立派なことをしているところを見ておられたというわけではないのです。仕事をしているところですから、誰かからお金を取り上げるというようなことをしていたところかもしれません。そのところに、主イエスは自ら出向いてきて、マタイをお招きになったというのです。

言葉は短いのです。「わたしについて来なさい」。そう聖書は記しています。他の弟子たちを招かれた時も、同じ言葉です。けれども、この言葉が、マタイの一生を変えることになったのです。さまざまな聖書学者たちが、この時の主イエスの声はどのような声だったのだろうかと、想像たくましく記しています。一度聴いたら忘れられないほど、力強い声であったのではないかと言います。すくなくとも、マタイにはそうであったに違いないのです。自分のような街のゴロツキ同然の男です。誰もが避けて通るような男のところに乗り込んで来たかと思えば、「私について来なさい」と言われたのです。自分が必要なのだと言われたのです。主イエスは、自分の生き方をこれから見せるから、それを見て、あなたも同じように生きなさいと言われたのです。

これが、主イエスの招きです。そして、すべてはここから始まるのです。

 

 

 私たちの礼拝もいつも招詞から始まります。これは、私たちの生活が、神からの招きの言葉によって始まると考えているからです。教会はその礼拝の歴史の中で、その習慣を当然のように生み出してきました。私たちは神から招かれて、はじめて生きることができる。自分の生活をつくることができると考えたのです。そこで、前提とされていることは、このマタイと私たちはまったく同じです。自分の生活の真ん中で、突然神に呼ばれる、招かれるのです。罪を犯しているその仕事の最中に、私たちも、そのような生活を中断して、神の前に招かれているのです。そのようにして、今、私たちは礼拝を捧げているのです。

 私たちは教会というのは、このような基本的なことを忘れてしまうことがあります。どうしても、同じ信仰に生きている人々の集まりだと考える。教会に行くと、仲間がいると考える。もちろん、それは間違いではありません。間違いではないのですけれども、どうしてもそうすると、この礼拝に来るのに、相応しい人と、相応しくない人がいるのではないかと考えてしまうのです。それこそ、ここで、マタイのような街のゴロツキ、ヤクザな男が入ってくると、場違いなのではないかと考える。あるいは、教会に初めて来られる方は、よく感じるようですけれども、敷居が高いなどと言います。自分のようなものは相応しくないと考えてしまうようです。こういう考え方が、いつの間にか、教会に集う人の中にも生まれてきて、教会に来るのは、同じ信仰に生きる、きちんと生きようとしている人たちだと考えてしまうことが起こるのです。

 

 

 興味深いのは、マタイがこの自分の召命の出来事をわずか一節だけ記しまして、その後に何を書いたかです。そこに記されているのは、主イエスの家の食卓の出来事です。「家で」と十節に記されておりますけれども、おそらくカペナウムのシモン・ペテロの家のことなのでしょう。そこで食事をする。そこに、マタイを含む大勢の取税人や罪人がおおぜい来て、主イエスの弟子たちと共に食卓を囲んでいたのです。

 この光景は、町の人々の目に留まったに違いないのです。街の普通の人びとがおおぜい集まってきたとか、病気の人というようなことではなくて、今度は、ゴロツキども、罪人と誰から見ても分かるような人々が何人も集まってきて、一緒に食事をしようというのですから、町の人々の注目を集めたことは想像するに難しいことではありません。

 何度も言いますが、この前に、主イエスは山上の説教をなさっています。人々が驚くような神の権威の話をなさり、すでに数々の奇跡を行っている注目の人物が、今度は、罪人たちと一緒に食事を始めたのです。パリサイ人でなくても質問したくなるところです。

十一節にこのように記されています。

「すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。『なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人と一緒に食事をするのですか。』」

 マタイはこのパリサイ人の質問をどのように聞いたのでしょうか。おそらく、自分のような者が家に招かれて、食事をしていることで、主イエスの立場が危うくなったのではないかと気になったのではないでしょうか。もちろん、これは私の想像ですけれども、自分が家にいることで、非難されれば、どうしたって気になるに違いないのです。しかも、ここで、質問をされているのは、主イエスに対してではありません。弟子たちに対してです。自分よりも先に弟子になった者たちはこの問いに何と答えるのかと、興味をもっていたのかもしれません。

 この質問をしたパリサイ人の気持ちからすれば、よく分かる質問です。理解できないことが目の前で起こっているのです。立派な話をした、最近話題の男が、今度は、誰も関わりたくないと思っているような人々を招いて食事をしているのです。食事をするということは、受け入れておられるということです。

 このパリサイ人というのは、いつも聖書を読みますと、敵(かたき)のようにして登場しますから、パリサイ人が出てくると、私たちは意地悪な、狭い考えに凝り固まった敵として理解してしまいます。けれども、先ほども言いましたように、このパリサイ人の持つ問というのは、当然持つ問いです。このパリサイ人が語っているのは、私たちが感じる、教会というところには、立派な人ばかりが集まるのではないですか、そんな悪い人たちをこの交わりの中に入れて何を考えているのですかという問いです。

 このパリサイ人たちというのは、できるだけ正しい信仰に生きようとした人たちです。それこそ、街の中ではローマ帝国にお金を納めるために、ユダヤ人が同胞のユダヤ人たちからお金を集めるような時代なのです。神の正義がどこで行われるのか。もし、この世界が不正ばかりの世界になるのであれば、私たちこそ、真剣に神に忠実に生きるべきではないかと考えていた人たちです。そして、彼らにしてみれば、主イエスも、自分たちと同じ信仰に生きている人だと思っていたのです。ところが、その人は、街のならず者をかき集め、罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をしてしまっているのを見たのです。

 期待した思いが裏切られた気がしたのかもしれません。自分たちが、一生懸命に正しく生きようとしている思いに泥を塗られるような思いがしたに違いないのです。だから、こそ、あなたがたの先生はいったいどういうお考えでこういうことをなさるのかと、その弟子に質問したのは、むしろ当然の成り行きであったと言えると思います。

 

 困ったのは、尋ねられた弟子たちの方でしょう。一体何と答えるのか、さまざまな言葉を色々と探したことと思います。

先週もここで罪の赦しの説教をいたしました。色々な方々が、さまざまな反応を示してくださいました。その中で、最近求道をはじめて教会に来られるようになった方が、食事の席で、罪の赦しについて質問したいと長老に申し出ました。長老は、私に、あの方が質問がありますと教えてくださったのですが、私はその方に、この長老がちゃんと答えてくれますからと話しました。それからしばらく話をしておられたようで、私はそのことを後で聞きまして、大変うれしく思いました。私たちの教会では、昨年初めて長老を選びました。ですから、まだテスト中という意味で、長老補と呼んでいますけれども、役割は長老の果たす役割と同じです。間もなく総会がありますけれども、私たちの教会はこの長老の役割についても、よく理解をしていく必要があります。ですから、教理について、問いかけられた時に、長老がきちんと答えることができるということは、とても大事なことです。また、答えることによって、さらに自分の理解も深まるということがあります。

ここで、主イエスは弟子がどのように答えるかと、弟子に応えさせるということも、一つのあり方だと思いますけれども、この問いに対して、主イエスは弟子に応えさせることをなさらずに、ご自分でお答えになりました。それは、この問いは、弟子が答えることができないと判断されたからだろうと思います。実際、弟子たちにこの時、まだ答えることはできなかったでしょう。何故かというと、これは信仰の一つの急所を突く問いかけだからです。

 

 主イエスがここで何と答えておられるのでしょうか。十二節と十三節を少し長いですがお読みします。

イエスはこれを聞いて、言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういうことか、行って学んできなさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

この言葉の中に大切な言葉がぎっしり詰まっていると言ってもいいほど、主イエスはここで信仰の急所の問いに対してお答えになりました。

ここで、主イエスはまず「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」とお答えになりました。自分は正しい人間だ、聖い人間だと思いながら生活することは立派なことかもしれませんけれども、そのような健康な人間に救いは必要ないではないかとお答えになったのです。自分は大丈夫だと思い込んでいる者に、医者は何もしようがないではないかと。これは、考えてみますと、強烈な批判の言葉です。あなたは、自分だ丈夫な人間、救いを必要としていないではないかと言われたのです。

パリサイ人にしてみれば足もとを救われた気がしたに違いないのです。神の前に正しい生き方をしたいと思いで生きて来たのに、いつのまにか、自分のことを忘れて、人の生活のことにばかり目が向いてしまっていたのです。人のことに心を痛めながら、自分は正しい人間だからと思い込んでしまっていたのです。そして、ここに、私たちが陥る一つの危険な姿があることを私たちはよく知っていなければならないと思います。

そして、主イエスの言葉の結びには「行って学んできなさい」とあります。これは、パリサイ人たちがよく口にした言葉だと言います。彼らは「学んできなさい」という言葉を、いつも口癖のように語っていたのです。その言葉を使って、主イエスは彼らに、あなたがたは、ここで言われている神の心、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」という言葉を理解していないのだと言われたのです。

この言葉はホセア書六章六節の言葉です。そこにはこう記されています。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ」と記されています。ここで語られているのは当時の礼拝の姿勢でした。この時代、人びとは毎年、決められた季節になると、全焼のいけにえをささげて悔い改めの祈りをするために神殿に来ていたのです。けれども、いつのまにか、悔い改めのしるしであったこのいけにえは、形だけになってしまって、いけにえを捧げればもう大丈夫だと考えて、神の前に誠実に生きようとすることを忘れてしまったのです。神を知らないのです。神を恐れる心がもはやなくなってしまっていたのです。

 

先週の説教の中で、私は罪の赦しについて語りました。そこである方はこういう問いをもったのではないかと思います。神が私たちを赦してくださるのならば、私たちのその後の生活は怠惰になってしまうのではないかと。もう赦されているから、何をしてもかまわないということになるのではないかと。これは、やはり神の事が分かっていないということになると思います。自分が赦されたのでもう大丈夫ということだけに心がいってしまうとすれば、そのように考える人もでてきてしまうかもしれませんけれども、大事なことは、私たちのような者を赦してくださる、神ご自身を知ることです。

神が私たちの罪を赦すためにどれほどのことを私たちにしてくださったかを私たちがしるならば、もう赦されているから、自分はもうどんなことをしてもいいということになりません。けれども、この時代に犠牲をささげた人はそのように考えたのです。犠牲を捧げて罪が赦されたのだからと考えて、元と同じ生活をつづけたのです。しかも、自分はやるべきことはちゃんとやったのだからと、開き直ることができるほどに、そのことを誇りとしたのです。これが、パリサイ人たちの問題でもありました。もちろん、パリサイ人以上に、多くの人はそれすらしなかったのですから、パリサイ人たちが、自分たちの生活をほこったことはよく分かります。けれども、神はちゃんと自分はやったのだからと、自分を誇ることをも望んではおられないのです。

ですから、この最後のところで、主イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われたのです。自分は罪びとであるということを、自覚すること、神の前に本当に救いを求める者として御前にたつことを、主イエスは求めたのです。

こうして、主イエスはこのパリサイ人に神の憐れみの心の前に立つことを求められたのです。そして、そのことを学ぶために、「行って学んできなさい」と言われたのです。これは、自分の考えの中に立ち止まっていたら、見えてこないことだからです。自分の考えから外に出てみなければ見えてこないのです。

 

昨晩、古川家の家庭集会が行われました。そこで、愛するということがテーマになりました。そこに参加された方が、自分はなるべく関わりを持ちたくないと思っている人がいる。その人のことは、かかわらないことにすることによってうまい距離を見つけて来たのだけれども、それではいけないのかという質問をされたのです。活発な議論になりました。しかし、ここでもやはり、今日のパリサイ人に主イエスが語られたことと同じことが言えるのだろうと思います。主イエスは、「行って学んできなさい」と言われるだろうと思うのです。

自分で、この人との距離はこのくらいだという壁を私たちは作ります。それは、これまでの経験から分かる知恵ということができるかもしれません。けれども、私たちはそこから超えていくことができるのです。もちろん、そのようにして人とのちょうど良い距離を見つけるために、私たちはさまざまな苦労を経験します。けれども、主イエスはその壁を乗り越えるために、乗り越えられないあなたはダメな人だとは言われませんでした。むしろ、そのためにご自分が、それをすべて負って、代わりに十字架にかけられたのです。それは簡単なことでは無いし、十字架が分かっていない弟子たちに答えられるはずもないことでした。

主イエスすべての人の受けるべき裁きを引き受けてくださいました。そして、この私たちを受け入れてくださる神の憐れみの心の前に立ちなさいと招かれるのです。あなたは罪びとです。その罪人を、私は招いているのだと。そして、そのような者が、神の憐れみの前に立つときに、あなたもまた憐れみの心に生きることができる。自分が作り上げたその壁を、神が取り払ってくださって、そこを乗り越えて生きることができるのだと。

 この主イエスが、この朝も私たちを招いてくださるのです。人を受け入れることに苦しんでいる私たちが、主の食卓によって支えられて、自分もまた人を招く者になれるようにしてくださるのです。

 お祈りをいたします。

 

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