2011 年 9 月 26 日

説教:マタイの福音書15章29-39節 「神の言葉の世界へ」

Filed under: 礼拝説教 — 鴨下 愛 @ 20:30

2011.9.25

鴨下直樹

先週と日曜日から月曜日にかけてこの芥見教会のキャンプが行なわれました。今年の年間聖句であるローマ人への手紙十二章二十一節の「悪に負けてはいけません。かえって善を持って悪に打ち勝ちなさい」という御言葉をもう一度思い出しながら、この御言葉について一緒に考えてみたいと言う試みでした。

教会の教育部の方々が大変良く準備をしてくださって、予想外に豊かなキャンプとなりました。予想外になどと言われると、準備をした方々は何事かと思われるかもしれませんけれども、本当にいくつもの興味深いテーマでこの御言葉をみんなで味わうことができたと思っています。と言いますのは、こういうテーマを掲げて誰かが発題を頼まれてしますと、多くの場合当たり障りの話をして終わってしまうことが多いと思います。ところが、誰もが例外なしに、そこで話された発言はこの御言葉に深く根差した意見ばかりでした。

この御言葉をめぐって実にさまざまな発題がなされました。“悪に負けないためのそれぞれの信仰の戦いの姿について”お話し下さった方もおります。“私たちの行いではなくて、主は心の中の動機を問われるのではないか”“復讐の心のまま祈ると言うことはどういうことか”“怒りの感情、裁きの感情というものは聖書ではどのように考えられているのか”“そもそも悪と言うのは自分にとって悪いことなのか”本当に実にさまざまなことをこの御言葉から促されてそれぞれ語り合いました。退屈するなどという暇はないほどです。目の前に出されていたお茶菓子に誰も手をつけないほど、真剣な語り合いが行なわれました。本当に皆が毎日どれほど真剣に御言葉と共に歩んでいるか良く分かりました。

私は昨年の特別伝道礼拝と講演会に来ていただいた加藤常昭先生の指導する説教塾という集まりに毎年参加しながら、どのように説教を作るかということを学び続けています。そこで、大事に教えてくださっているのが「御言葉を黙想する」ということです。聖書を正しく理解する、解釈するということだけではなくて、それをどのように私たちの日常の生活の中で聴き取るか、そのことに心を集中しながら御言葉を聴き取る学びを何人もの牧師たちが集まって何泊かしながら致します。その作業をすることを「黙想」と言います。先日行なわれたキャンプでのみなさんとの語り合いは、まさに共同で一つの御言葉を黙想する時であったと思わされているのです。そういう経験をみなさんと共にできることは、私にとって予想外のことであったわけです。

今日の御言葉も、実はこの講壇を降りて、共にテーブルでも囲みながら一緒に黙想することができればという思いになるほどに、実に豊かな内容を持つ聖書の個所だと思っています。

今日の聖書の個所というのは二つの内容のことが続いて書かれています。最初に記されていますのは、山の上で主イエスが大勢の病の人を癒されたという出来事が記されています。後半の部分では七つのパンと少しの魚で男の人だけで四千人の人が食べて満腹したという出来事が記されているのです。

しかし、病の人が癒される出来事も、僅かなパンで多くの人のお腹が満たされる出来事ももうすでに記されている出来事です。そうしますと、今朝私たちに与えられている聖書の個所は特別に目新しいことは何もないのかということになりました。もっと言いますと、同じことの繰り返しかということです。

私たちは日常の生活の中で同じことが繰り返されることは、それほど面白くないと考えてしまうことが多いのではないでしょうか。教会のキャンプにしても、今年大変良いキャンプだったので、来年も同じにしようと意見を、もしどなたかが出したとすると、きっとすぐに、それではマンネリだ、同じことの繰り返しはつまらないという意見が出るだろうと思います。そんなことについても、みなさんとここで膝を突き合わせて語り合いたい思いうほどです。

一緒にそのようにして考えてみたいことは、同じことの繰り返しというのは、面白くないことなのか。たいして意味のないことなのかどうかということです。と言いますのは、私たちの毎日の生活も、教会の歩みもそうですけれども、同じことを繰り返します。たぶん、来年の夏マレーネ先生が日本に帰国しても、芥見教会ではまだマタイの福音書から説教が続いているだろうと思います。そのようにマタイからばかり御言葉を聞き続けるのはつまらないので他の色々な所から説教して欲しいという意見もあるだろうと思うのです。

私たちは日常の生活にさまざまな刺激を求めます。新しい出来事というのは、興味を掻き立てられます。それは、楽しいことですし、まさに刺激的なことです。けれども、そういう新しいことばかりを求めていては、私たちの日常の生活と言うのは成り立ちません。同じことを何度も、何度も繰り返すことが、私たちの日常のほとんどを占めているのです。そして、そのような毎日、毎日同じことの繰り返しであるような生活なのにもかかわらず、私たちは毎日、毎日、同じ過ちを繰り返し続けていると言うこともできます。さほど進歩もないように感じるのです。

よく、洗礼を受けられたばかりの方が口にするのですけれども、「洗礼を受けて新しい生活が始まると自分の生活が劇的に変わるように期待していた。けれども、それほど変わらないのです。そうすると、そういう毎日変わりばえのない生活をし続けていて自分はキリスト者になったと言えるのか。それでいいのか?」ということを問うようになるのです。

そういうことは、私たちは誰もが経験のあることだろうと思います。では、どうしたらいいのか。毎日の生活に刺激を求めることがやはりいいのか。新しい刺激を求めて教会に来たのに、という方だってあるかもしれません。

主イエスはここで弟子たちとそのように毎日同じような生活の中で、生活を共にしておられます。その日も、これまでと同じように病の人々をお癒しになられました。色々な病の人々が記されています。主イエスはそれらの人一人に心を配ってくださり、お癒しくださいました。

この主イエスがここで癒しをなさったのは山の上です。二十九節にこのように記されています。「それから、イエスはそこを去って、ガリラヤ湖の岸を行き、山に登って、そこに据わっておられた。」。この多くの病の人の癒しの出来事は山の上で起こりました。実は、このマタイという人は山の上で主イエスが何かをなさるということをいつも意識的にといってもいいほどに書いているのです。大事な出来事はみんな山の上と言っても言い過ぎではないほどです。どうも、山の上は天に近い所、神に近い所というふうに考えていたのではないかと説明する聖書学者があります。そして、湖とか、海というのは神から離れたところ、悪魔が支配しているところと言う描き方をしている場合が多いというのです。確かに、マタイの福音書を読んでみますと、湖では大抵嵐があり、幽霊が出てきたと記されていますけれども、主イエスが大事なことを話された山上の説教も、山です。この奇跡も山です。後に出てくる主イエスの姿が神の栄光で覆われる出来事も山の上の出来事です。マタイが山を好んで主イエスの御業を描いているのは、主イエスは人々の生活ではない、神の支配なさる生活というものをその山で見せてくださったと考えることができるのです。

けれども、そのような山の上の出来事であったとは言っても、その生活もまた同じことの繰り返しのように見えるのです。いつもと同じように、主イエスは人々に語りかけ、病を癒しておられるのです。

そのような山の上での奇跡のあとで、主イエスはこう言われました。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。彼らを空腹のままで帰らせたくありません。途中でうごけなくなるといけないから」と。三十二節です。

ここで、この主の言葉に対して弟子たちがどのように答えたか。この答えが実に興味深い答えでした。主イエスと一緒にいた弟子たちは主イエスの周りにいつもお腹をすかせた人がいる、何も食べる物がなくてもついて来るということに慣れてしまっているとでも言わんばかりにこう答えるのです。「このへんぴな所で、こんなに大勢の人に、十分食べさせるほどたくさんのパンが、どこから手にはいるでしょう。」三十三節です。

すでに五千人の給食の奇跡の物語を読んだ私たちには同じ間違いを犯している弟子たちの姿に少し驚くかもしれません。前にもこんな出来事があったではないか。なぜ、彼らは学ばないのかと不思議な気がするのです。そのためでしょうか、これは、本当は同じ出来事だったのではないかと説明する聖書学者もあるくらいです。けれども、おそらく主イエスは前に行なったことをここでも同じように行なわれたに違いないのです。何度でも同じことを学ばせるためです。

ここに、私たちには主イエスの日ごと同じことばかりの繰り返しの生活の中で、主イエスがどのように私たちを教えてくださるかを知ることができます。

弟子たちにしてみれば、毎日、毎日主イエスの周りに大勢の困った人、飢えた人が集まってくることに慣れてしまっているのです。そして、その対応もなんとなく決まり切ったものになっていくのです。何も考えず、いつものように考えて行動する。ここに描かれている弟子たちの姿は、そんな私たちの日常の姿と同じです。

けれども、主イエスはそのように考えてはおられないのです。いつも、ご自分の周りに集まっている人々に心痛められるのです。この三十二節の冒頭にある「かわいそうに」という言葉は、何度も説明していますけれども、憐れみと訳される言葉です。自分のはらわたが捻じれるような、という意味の実際に痛みを伴う憐れみです。そのように、人をご覧になる時も新しい思いで見ておられるのです。誰も彼も同じ悩みを持っているのではありません。十把一絡げに困った人々だ、どうしようもない人たちだなどというようにご覧になっておられるのではないのです。

しかし、私たちの日常というのは同じことの繰り返しになるような出来事というのは、いつもどこかで一絡げにしてしまって、この場合の対応はこう、と決めてしまうことが多いのではないでしょうか。人を見るまなざしも、自分のこれまでの経験から直ぐに判断してしまう。そういうことが当たり前になってしまうことが起こってしまうのです。そうでないと、私たちは毎日、毎日さまざまなことに頭を悩ませながら生きなければならなくなるからです。

けれども、実は私たちの生活の単調さというのは、そこから生まれてくるのではないかと私は思うのです。いつの間にか、自分で答えを早々に決めてしまうのです。物事もちゃんと見極める前から、あの人はこういう人だ、このケースの場合は経験的にそうすると上手くいくと。

もちろん、それが常に間違っているということではないと思います。そういう判断が悪いと言うことでもないでしょう。そうすることで、私たちの生活の多くの部分が実際に助けられているのです。けれども、私たちはそこで知っていなければならないのは、そのような私たちの日常的に慣れ切ってしまっている判断というものがすべてではないことを知っていなければならないということです。

主イエスはここで、五つのパンで男の人だけでも五千の人々のお腹を満たしたように、今度は七つのパンで四千人の人々のお腹を満たされます。主イエスも、同じことを繰り返してくださったのです。しかし、それは弟子たちの日常の生活ではなくて、日常の生活を超えた、神の御業を同じように繰り返してくださったのです。

主イエスの心を知ってもらうためにです。神の働きの日常というものを味わわせるためです。そのようにして、主イエスもまた同じことを繰り返すことによって、弟子たちに主イエスの愛の業を体に染み込ませてくださろうとしておられるのです。

今日の午後から松居直先生をお招きして講演会を予定しています。私も本当に楽しみにしています。この松居先生が書かれた読み物の中でも、最も代表的な読み物は「絵本の与え方」という松居先生の福音館書店のパンプレットと言ってもいい読み物です。すでにこのパンフレットを五百部福音館から送っていただいて、ぜひこれと一緒にお勧めくださいとみなさんにも知らせましたが、先週の時点でもう一部も残っておりません。ずいぶんみなさんが読まれて人に勧めてくださったのだろうと思います。大変素晴らしい読み物です。子どもが最初に出会う本である絵本を“読んでやる”ということがどれほど子どもにとって大きな力になるか、その言葉の持つ魅力を伝えてくれる読み物です。

その中に、絵本は繰り返し読んでやるという部分があります。子どもはもう知っている話でも何度でも、何度でも繰り返して読んで欲しいと求めるのです。だから、何度でも繰り返して読んでやったらいいと言うのです。それが最良の絵本の与え方だとさえ書いています。何故でしょうか。それは、そうすることによって絵本の世界の中に入っていけるからだと言うのです。言葉の世界に安心してをゆだねることを、何度も何度も繰り返すことによって体験しているのです。

主イエスは私たちに、私たちの言葉の世界ではなくて、神の言葉の世界の中に私たちを招きいれてくださるお方です。けれども、私たちはなかなかその神の言葉の世界に安心して入り込むことができないのです。ですから、先日のキャンプのように、みんなで同じ言葉をさまざまな面から語り合うことによって、一緒に神の言葉を味わうということができるのは、本当に貴重な体験だと言っていいと思うのです。

そして、主イエスはここでも、弟子たちに安心して神の御言葉の世界を味わうために、何度も同じことを繰り返して、その世界へ招き入れてくださるのです。同じことを繰り返すことによって、神の世界を私たちの体に染み込ませてくださるのです。

安心して、主イエスがなさったように決断することができるように、です。主イエスのように人を見る。主イエスのように人を愛する。主イエスのように神の御心に生きる。それは、残念ながら私たちの日常の生活で簡単に身についているとは言えないことばかりです。

毎日の生活の中でなかなか主の御言葉に聞き従うことができない、そういう祈りばかり毎日祈らなければならない私たちに、主はその日常を変えてくださるために語りかけてくださるのです。私たちの何を変えなければならないのか。何が見えていないのかを主は言葉を持って気づかせてくださるのです。そして、私たちを神の言葉の中に生きることができるようにしてくださるのです。

お祈りをいたします。

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