2012 年 1 月 1 日

・説教 コリント人への手紙第二 12章9節 「弱さの中で発揮される神の力」

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2012.1.1

元旦礼拝説教

鴨下直樹 

 

ローズンゲンによる2012年の年間聖句 

イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」

                       Ⅱコリント 12章9節

新改訳

主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

 

 

 

 

 2012年、今年の年間聖句はコリント人への手紙第二 十二章九節の言葉です。

イエス・キリストは言われる「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。

 

 新しい年にあたって、私たちが聴く最初の御言葉が弱さについて語られていることに、私たちは心を止めましょう。

 この朝、礼拝に集われる時に、「よし、今年こそは!」と、一念発起して何がしらの決意を秘めて来られた人にとってすれば、出鼻をくじかれたような思いのする御言葉であると言うこともできるかもしれません。けれども、この言葉は今の私たちに最もふさわしい御言葉であると言うことができると思います。

 私たちが生活している社会は今、力を失った社会であるということができます。ありとあらゆる分野で、力が失われています。政治も経済も、その力を発揮することができないまま、新しい年を迎え私たちは今大きな不安の中に立たされています。また、昨年の三月十一日、東北地方を起こった大地震を通して誰もが人間の無力さを思い知らされています。

 

 私たちが本当に求めるべき力とは、一体どこにあるのでしょうか。興味深いことに、聖書が力について語る時、それは常に神にのみあてはまるものとして語られています。

 先ほども主の祈りを祈りました。その最後のところでも、「国と力と栄は、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」と祈りました。国も力も栄光も、すべては神のものだと私たちはいつも祈っているのです。

 

 

 「わたしの力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。これは新共同訳聖書からの言葉です。新改訳の言葉では「私の力は弱さのうちに完全に現れるからである」となっています。これは、パウロが語ったとされる手紙ですけれども、この部分についてパウロは私は主から聞いた言葉なのだと語っています。

 少し、この言葉が語られている前の部分について多少説明する必要があるかもしれません。この前の七節以下のところでパウロはこう語っています。「私は、高ぶることがないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」とあります。

 

 パウロはここで自分が高ぶることについて、思い上がること、傲慢について語っています。パウロは、自分には高ぶる思いがあることをよく知っていました。けれども、この傲慢にならないために、私を打つためのサタンの使いですとパウロは言います。それが、パウロの使いによって、自らの肉体に一つのとげとして与えられた病でした。

 この短い個所でパウロはいくつもの興味深いことを語っています。ここでそのすべてを解説することはできませんけれども、特に注意してみたいのは、ここでパウロはこの病が神から与えられたのではなくて、サタンの使いによるものだと言ってるということです。

 私たちは自分が病に侵される時に、この病は神から賜ったものと考えることによって、それを受け入れようとすることがあると思います。そういうこともあると思うのですけれども、パウロはここでこの病は、「自分を打つための、サタンの使いです」と言い表しました。ここでいう「打つ」という言葉は、主イエスがローマの兵士たちに鞭打たれた時と同じ、「打つ」と言う言葉です。サタンが私を打っているのだと、考えました。なぜでしょうか。

 パウロは続く八節で「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」と言っています。主に祈ったけれども、この苦痛から解放されることはなかったのです。

 パウロはこう言いながら、主イエスのあのゲツセマネの祈りの出来事のことを思い起こしていたはずです。主イエスが、十字架に架けられる前夜、ゲツセマネでこの盃を私から取りのけてくださいと三度祈られたように、私も祈ったのだと。けれども、その苦しみを神は取り除いてはくださらなかったのです。

 それは、私が高ぶるからだと、パウロは言います。自分の傲慢さを打ち砕くために、病は取り除かれない。その時に、主イエスの苦しみを思い起こしているのです。ローマの兵士の手によって、主イエスが打たれたように、今、自分もサタンに打たれている。サタンが打っているがゆえに、私は信仰を捨てるわけにはいかないのだと考えたのです。

 

 そこで、聞いたのがこの九節の御言葉です。

しかし、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全にあらわれるからである」と言われたのです。

 

 この新しい年を迎えるにあたって、私たちはこの一年を信仰によって歩むための確かな御言葉が与えられていることを、喜びたいと思います。私たちの生きている社会は力を求める世界です。力があれば、あらゆる困難から抜け出すことができると考えているからです。

 しかし、聖書は私たちに語ります。私たちの力によって、生き抜くのではないのだと。自分の力で道を切り開いていけるのではないのだと。主イエスは、この地上で歩まれた時、すべての力を、一切の権威をお捨てになって、お生まれになられました。そして、主イエスは力に生きるのではなく、神の恵みによって生きることがどういうことであるのかを、示してくださったのです。この主イエスのお姿の中に、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と語ることのお出来になった主イエスの確信があります。

 

 明治時代の熊本の教育者で徳永効矩(きく)というキリスト者がおりました。(このきくという名前には他に「もとのり」という名前であったとか「ただのり」であったのではないかなどと、この名前には諸説あるようですが、私が詠んだ者には「きく」となっておりましたので、「きく」で通したいと思います。)この人は、事業に失敗し、その後、結核で肺を患いながら五人の子どもを抱えていました。まさに、極貧と言える生活をしながら、信仰に生きた人です。その人の書いた著書に『逆境の恩寵』というものがあります。

 この人には色々なエピソードがあります。ある時、近くの一斗の米屋を買い求めます。しかし、米屋は気を利かして四斗持って来てくれたのです。こんなに払えないと言うと、代金はいつでもいいと言って米屋は帰っていきます。ところが、その翌朝、その四斗のお米を盗まれてしまいます。それでも、この人は神に感謝したというエピソードがあります。それほどの貧しさの中で信仰に生きた人です。

 この徳永効矩(きく)の書いた『逆境の恩寵』という書物の中で、「あなたの場合天職はなんですか」と尋ねられるところがあります。すると、この人はこう応えます。少し長いのですがお聞きいただきたいとおもいます。「病気と貧乏とは私が授かった職業であって、寝床は私の受け持ち工場だ。そして主はその全能の力によってこの無智無力の機会である私をこの工場において運転し、卑しい土の器にすぎない私でさえも神の栄光のために特別にお役立てくださったのだ。それゆえ私はこのような境遇の中にあって、なおよく平和と安寧とを保持して、長年の忍耐によってかち得た歓喜の微笑をもって最後の勝利をわが物とし、どんな場合にも主の救いの聖手は及ばないことのない事実をば身をもってこの世に示し、あるいは慰め、あるいは励まし、あるいは同情を与え、あるいは悔い改めさせて、それによってわが愛する同胞たちを天の父のお膝もとに導くのが私の天職だと信じている。ただ私が弱いためにこの天職に処する道を誤って任務を全うすることができないようなことはあるまいかと懸念して、私は実に戦々兢々(きょうきょう)としているのである」。

 

 実に、見事な言葉です。自分の天職は病気と貧乏であり、神が私にその仕事をお与えになったのだと答えることによって、あなたの天職は何かとの問いに答えているのです。

 

 病気と貧乏、このどうすることもできない圧倒的な自分の弱さの中にあって、この人は、神の恵みを見ているのです。「逆境の恩寵」、徳永効矩はそう言いました。自分の人生はまさに、逆境と言われる中にあるけれども、そこに神の恵みがあるのだと告白することができたのです。

 この徳永効矩の言葉の最後の部分は私はとても興味を覚えます。自分は病と貧乏とが私の天職で、それを通して主を証していると言いながら、最後に、けれども、自分の弱さのゆえに、この道を全う出来ないのではないかと戦々兢々としているのですと言っています。もちろん、本人は真剣にそう言っているのでしょう。けれども、考えてみますと、面白い言葉です。病と貧乏の中で、それを神の恵みと捕らえて生きているこの人が、さらに自分の弱さのうえに、これを全うできないのではないかと考えているのです。しかし、これ以上の弱さがあるのだろうとかという気がしてくるのです。

 

 けれども、私たちは誰もがこの人の気持ちが良く分かるのではないかと思うのです。自分に与えられている状況によって自分の弱さが強いられるということは分かります。それは、自分の性質の弱さについては、やはり自分で何とかするべきなのではないかと考えるからです。その中には、不信仰という自分の弱さがあり、あるいは、神への不信頼という部分がある、そういう部分についてはやはり自分の問題であると考えるのです。

 

 そうすると、私たちはそこで立ち止まって考える必要があるのですけれども、主がここで言われた弱さとはいったいどういう弱さのことをさすのかということです。わたしたちの生活の状況のことを言っているのか、人間のもつ性質的な部分も含まれているのかということです。考えようによっては、主イエスはこの人間の性質的な部分でいれば完全なお方であったのだから、キリストの弱さというのは、この部分は含まれないのではないかと考えることはできるのかもしれません。

 しかし、ここでもう一度主の言葉を聞いてみると、主はここでこのように語っておられるのです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」

 ここで言われている「弱さ」というのは、パウロの場合でいれば一時的なものではありません。ここでは病のことが言われているのですけれども、ずっと残り続けるものです。パウロの中にありつづけるものです。それは、病である場合もあるでしょう、性格上の問題や、性質のことを分けて考えることはできないものです。

 けれども、主はその人の弱さそのものを通してわたしの力をあらわすと言われているのです。私たちの生活の状況や、周りの状況だけでなく、私たちの性質の弱さを通してでも、神は私たちの生活の中においてご自身の力をお示しくださると言われるのです。どんな逆境の中にあっても私たちは神の恵みの力を味わうことができるのです。

 

 

 私たちはこの言葉をこの一年の初めに与えられていることは、私たちにとって幸いなことです。主は、私たちの弱さの中にあっても、神の力を表すことができるお方です。そのことを、この一年心に留めるように語りかけてくださっているのです。

 

 昨年の十月にドイツに行った時に、すでに今年のローズンゲンの言葉が決まっておりましたので、キリスト教書店を訪ねまして、この聖句の書かれているしおりを買い求めました。みなさん全員にプレゼントしたいと思いましたが、一つのお店にそれほど沢山置いてあるわけではありません。それで、色々な街に行く度にキリスト教書店に寄りまして、結局三つの書店を回りました。

 そのカードにはドイツ語のルター訳の御言葉が書かれています。そこには新改訳聖書では「完全に現れる」と訳されている言葉は、新共同訳では「十分に発揮される」とされている言葉ですけれども、これはドイツ語では一つの言葉、「メヒティヒ」という言葉が使われています。「力強い」とか「巨大な」と訳される言葉です。

 完全に現れるという言葉も、十分に発揮されるでも、力強いでも、巨大でも、すべてがこの言葉の意味を明らかにしていると思います。神の力が、完全に、十分に、力強くこの一年の私たちの弱い歩みであっても現わされるのです。

 このしおりをこの一年何かに挟んでいただいて、いつもこの言葉を心にとめていただきたいと思います。神の力は私たちのあらゆる弱さをあぎなって余りある神の力強い恵みなのです。この主に私たちは期待し、新しい一年に期待していきたいものです。

 

お祈りをいたします。

 

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