2012 年 1 月 15 日

・説教 マタイの福音書19章1-12節 「愛に生きる」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 11:42

2012.1.15

鴨下 直樹

 いつも週報にその日の礼拝の主題が記されています。今日の主題は「結婚」とあります。ある方はそれをご覧になって驚いた方が中にはありかもしれません。しかし、今日の聖書の個所の主題は結婚とするのがまさに相応しい内容です。

 はじめに私事ではじめて恐縮ですけれども、明日、私たち夫婦に子どもが生まれます。なぜ、明日生まれるともう決まっているのかといいますと、帝王切開でうまれるということが決まっているからです。結婚して十五年の間、私たち夫婦の間には子どもがありませんでした。その時間というのは、私たち夫婦にとってはとても大切な時間であったと思います。いよいよ、明日、子どもが生まれます。ですから、何だか少し落ち着かない気持ちでいますけれども、そういう中でもう一度この主の言葉を聞くことはとても幸いなことだと、準備をしながら考えさせられました。

 今日、私たちに与えられている聖書の個所は離婚についての問いかけからはじまります。しかし、ここは離婚の話というよりも、むしろ結婚生活のことが記されているところと言うこともできると思います。ことの起こりはパリサイ派の誰かが主イエスに尋ねたところから始まります。
 「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか」と問いかけたのです。
 「何か理由があれば」とはどういうことでしょうか。もうすでに、離婚するということが前提になっているかのようですけれども、「どういう理由があれば離婚してもいいか」という質問がなされたのです。しかも、この質問を通して、そのやり取りを聞いていた弟子たちの言葉が終わりの方にあります。
 「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」十節です。
 弟子たちはここで、そう言いたくなるほど主イエスの答えに驚いたのです。結婚が主イエスが言うようなあものであるのだとしたら、いっそ結婚などしないほうがいいではないかと思ったのです。主イエスの言葉の中から、弟子たちは結婚の魅力を聴き取ることができなかったということでもあります。
 こういう弟子たちの言葉を見て、ひょっとすると同じように、「そうだ、やっぱり結婚すべきではなかったのだ」と思う方も中にはあるかもしれません。弟子たちの言葉は見てみるとかなり強い言葉です。ということは、どこかで、弟子たちも何かの理由があれば、妻と離別することは律法にかなっていると考えていたということであったのかもしれません。

 そうであるとすると、ますます、興味深くこの聖書に注目しなければなりません。主イエスはここで一体何をお語りになろうとしておられるのでしょうか。そこで、もう一度最初の問いに注目してみたいと思います。

三節です。「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。『何か理由があれば、妻と離別することは律法にかなっているでしょうか」。

 ここに「イエスを試みて」とあります。パリサイ人たちがした主イエスへの問いかけは、主イエスへの試みであったのです。これはどういうことかと言いますと、この時代離婚に対して大きく分けると二つの立場がありました。まずパリサイ人たちの中でもシャンマイ派と言われるグループがありました。これは、ラビのシャンマイという人の立場を代表したものなのですけれども、非常に厳格な立場をとる人々です。離婚というのは不貞、あるいは不倫といわれるような関係を立証することができる場合にかぎって許されるという立場でした。けれども、これとは対照的なグループがあります。それが、ヒルレル派です。このグループの人たちは、妻に何かはずべきことを見つけたら、それは離縁する理由になると考えていました。
 それはモーセの律法の書である申命記の二十四章一節にこう書かれているからです。「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべきことを発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない」。こういう律法があります。そうすると、この「何か恥ずべきこと」とは何かということが当然問題となりました。
 それで、このシャンマイ派の人々はそれは夫が恥ずかしいと感じるところがあれば、それでこの「恥ずべきこと」に該当すると考えたのです。例として、色々なものがありますけれども、例えば、食事を焦がしてしまうような妻は恥ずべき妻だとしました。もっとすごいものになると、「他にもっと美しい女性が現れた場合もそれに該当する」というものまであったのです。その女性の美しさに比べれば妻はこの恥ずべきに当たるというわけです。
今日であれば、反対に言われてしまいそうなところがありますけれども、この時代には、女性の方からそのような申し立てをすることはできませんでした。それだけ、女性の立場は弱い者だったのです。
 ですから、このパリサイ人はこれをそのまま、あなたはどうお考えになるのですかと主イエスに問いかけたのです。しかも、主イエスは結婚しておられませんでしたから余計にこのような問いをすることによって、イエスの結婚に対する立場を聞いて、それに対してさらなる問いをしようと待ち構えていたということだったのです。

 それで、主イエスはこうお答えになられました。それが四節と五節です。

イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ』と言われたのです。それをあなたがたは読んだことがないのですか。

主イエスはここで、まず創世記にさかのぼってお答えになられました。もちろん、パリサイ人たちは読んだことのある聖書の個所です。この個所は特に結婚式でも読まれることが多いので教会にあまり来たことのない人でも耳にすることのある聖書の言葉であると言えます。
 主イエスはここで、まず創世記のこの御言葉を取り上げて、結婚する二人の土台になっている考え方を明らかにされました。それは、神が男と女とに人を造られたということです。ここに「結ばれて」という言葉がります。この言葉は少し面白い言葉でして、「のりでくっつけられる」という意味の言葉です。そして、「一体となる」という言葉は「一つの肉」という言葉です。男と女は結婚することによってまるでくっつけられるようにして一つになるのだということです。つまり、これは男と女のどちらかが主体ではなくて、男と女は一つの分けることのできない存在とされるのが結婚だということなのです。
 男には女が必要であり、女には男が必要です。わたしは食事の準備も掃除も家のことも全部できるから、自分一人で生きていくことができるというようなことではないのです。

 私ごとですけれども、明日から妻が出産のために一週間ほど入院をします。そうすると、妻はその間の私の食事のことだとか、洗濯のことを非常に気にかけます。一人暮らしをしていたこともあるんだから大丈夫だと言っても、結婚してからというもの食事も作ったことがほとんどありませんから気になるのでしょう。そういう時に、私も意地をはってしまいそうになるわけですけれども、結婚をするということはそういうことではないのです。自分で自分のことはできるからいいと言って、開き直るということは、この聖書の言葉からすればだいぶ離れたところにいることになってしまうということなのです。

 ですから主イエスは続けて言うのです。「それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」六節です。
 主イエスは言われるのです。だから離婚をするということは男性の一方的に都合でみとめられるなどということではないのだと言われたのです。

 そういわれて、もちろんパリサイ人たちも黙っているわけにはいきません。そう答えるであろうことは想定していたからです。ですから、先ほどのモーセの律法にある申命記にはこう書いてあるではないかと言って、「モーセはなぜ、離婚状を渡して妻と離別せよ、と命じられたのですか」とさらにつめよって質問したのです。あなたは、モーセの律法を軽んじるおつもりですかと言うことによって、主イエスをおとしめようとしたのです。
 
 これについての主イエスの言葉は簡単に説明するとこういうことです。モーセは離婚を認めたとあなたがたは理解しているかもしれないけれども、そうではなかったのです。男が次々に自分の都合で離婚をしていくとどうなるか。離婚された女は再婚をすることもできなくなってしまいます。そうすると、生活することができなくなってしまうのです。だから離縁状を書くことを必要としたのです。しかし、そればかりではありません。不貞の以外の理由で離縁するならば、その離縁は認められないので、その女と再婚をすると今度はその男までも姦淫の罪を犯すことになるのだと主イエスは言われました。ですから、この主イエスの答えは最も厳しい立場が主イエスだということもできるわけです。

 この話はそれでどうなるかと言うと、今度は主イエスの側で聞いていた弟子たちが目を丸くし始めたのです。「それならば、結婚しないほうがましではないか」と言いだしたのです。
 前にいるパリサイ人に向ってて話をしていたら、後ろにいる弟子たちから意見が飛んで来たのです。とても面白い描き方ですけれども、どうも、この話は、当時の教会にとっても、そういう問いが出て来るほど驚いたようです。
 それほどに、男たちは結婚というのは自分の思い通りに生活することだと考えていたのです。そして、その考え方を正すのは簡単なことではなかったです。パリサイ人の問題ではなくて、まさにこれは普遍的な問題なのです。

 実は、この聖書の物語は九節までであったのではないかという考えまであるほどです。けれども、この話をすると、教会の中から問いが出て来たのではないかと考えることもできるというのです。そもそも、弟子のペテロは結婚をしていたのです。そういう中で、結婚はしないほうがよいではないかなどと、弟子たちが語ったというのは考えにくいというわけです。いずれにしても、この弟子たちの言葉があるために、私たちはこのことをさらに深めて考えることができるわけです。
 そして、この問いに対する主イエスの答えは、良く読むほどに理解することが難しくなっていきます。
 十一節で主イエスはこう答えておられます。「しかし、イエスは言われた。『そのことばは、誰も受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者ができるのです』」。
 ここで主イエスが答えておられる「そのことばは」というのは何を意味するのでしょうか。単純に弟子たちの問いと理解することもできます。結婚などしないほうがよいではないかという問いに対して、結婚しないほうがよいということは、誰にでも言えることではないと理解することもできるのです。また、この十一節で主イエスが語られた「そのことば」はその前の九節の離婚について語られた言葉のことではないかと理解することもできます。つまり、離婚をする者は姦淫を犯すことになるというのは、誰もが受け入れることができるわけではないだろうともとれるのです。けれども、こう考えたらよいと思うのですが、離婚することにしても、独身で生きるにして、主イエスはここでどうしても結婚しなければならないのだと語っておられるわけではないのです。ここで主イエスが語られていることは「その道を受け入れる」ということです。そして、続く十二節では「母の胎内からそのように生まれついた独身者がいます」とあります。

 先日、夫婦で生まれて来る子どもの話をしておりました。私自身すでに四十を超えておりますから、子どもが成人を迎えるころにはもう定年も残すところあとわずかということになります。ですから、子どものために準備をしておかなければならないと学資保険に入った方がいいのではないかと、妻が保険屋さんと電話で色々と話をしたそうです。すると、子どもの大学入試の話になる。その話を私に説明しながら思わず妻が笑ってしまったのです。まだ生まれて来てもいないのに、大学の話をするって可笑しいというのです。そう言いながら、この子どもはちゃんと結婚できるんだろうかと言いだすので、今度は私が笑ってしまうのです。そんな先のことをと思うのです。
 けれども主イエスはそうではなくて、独身に生きる者は母の胎内からそう生まれついたものがいるのだと仰っておられるのです。

 私が非常にお世話になった先生でドイツ人のエミー・ミュラーという宣教師がおります。芥見教会にも来て下さったことがあります。東京の神学校で聖書学を教えた人で、晩年名古屋の神学校に来られて、私もこの先生から学ぶことができたことを喜びとしています。生涯独身で通した人です。今はドイツに帰国しておりまして、昨年少し体調をくずされたようですけれども、少しお元気になられたようです。
 このエミー・ミュラー先生に先生は独身の賜物と言われていることについてどう思いますかと尋ねたことがあります。すると、この先生はにこやかに笑いながらこう言われたのです。「私は自分に独身の賜物があるなんて思ったことはありませんよ。今だって素敵な人が現れたら結婚しますよ」と。
 けれども、自分が宣教師として召されて日本においでになって、日本の神学教育のために働くなかで、そんな暇はなかったわとおっしゃるのです。自分に与えられている道を受け入れておられるのです。
 それは、今一年の間ドイツに宣教報告のために帰国しておられるマレーネ・ストラスブルガー先生も同じです。自分に与えられている道を受け入れているのです。そこで、慌てふためいているのではないのです。

 主イエスはここで、自分に与えられている道を受け入れなさいと答えておられるのです。結婚するにしても、結婚しないにしても、その人に供えられたものがあるのです。その中で本当に平安を持って生きることができるのだと主イエスは答えておられるのです。

 なぜ、この結婚についての教えがこのマタイの福音書の十九章に語られているのでしょうか。はじめに触れませんでしたけれども、この最初に一節と二節には、主イエスがいよいよエルサレムに向かって来られるということが記されています。
 その前にしるされていたのは、私たちは神からの大きな赦しの中で生きることがゆるされているのだということです。ところが、私たちの生活はそういう神の大きな御計画であるとか、大きな赦しということはいつも生活の中でどこかにいってしまいまして、家に帰りますと、それぞれの家庭の問題がどーんと待ち構えています。こんな生活であれば逃げ出してしまいたいと思えるような現実がある。

 赦しにいきるのだと言われているにもかかわらず、人のことを赦すということに困難を覚えるのです。いっそ離婚でもしたほうがこの問題から解放されるのにというような思いが心の中によぎる。そう言う中で、このマタイの福音書というのは、私たちはそれぞれに与えられた自分の道というのがあるのだということを語っているのです。
 けれども、主イエスはそういう生活のことを思い出す中で、いいか、人は一人で生きることはできないのだということをもう一度語られるのです。自分一人で生きていかれると思っていたらそれは大間違いなのだと。そして、自分に与えられている道を受け入れるなかに、あなたの道は築き上げられて行くのだとここで主ご自身かたっておられるのです。
 そう言われる主イエスご自身、ご自分のエルサレムへの道を、十字架への道を受け入れていかれるのです。
 それはなぜでしょうか。愛に生きることを私たちに見せるためです。私たちもまた、愛に生きることをお示しくださっておられるのです。そこに、私たちの本当に幸いを見出すことのできる道があるからです。

お祈りをいたします。

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