2012 年 8 月 26 日

・説教 マタイの福音書26章57-75節 「イエスの裁判」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:58

2012.8.26

鴨下 直樹

今朝は少し長い聖書の箇所を一緒に聞きました。サンヘドリンと呼ばれる祭司たちの議会で行なわれた裁判の様子と、ペテロの三度の否認と呼ばれる出来事がここに記されています。二つの出来事を分けて読むこともできると思いますけれども、この朝は少し長いですが、この二つの出来事を取り上げました。と言いますのは、この二つの出来事は、二つに分けられないほど非常に深いつながりがあると考えているからです。

この朝の説教の題を「イエスの裁判」とつけました。このマタイの福音書には二つの裁判の場面が記されています。一つはこのサンヘドリンと呼ばれている議会での裁判です。新改訳聖書をお持ちの方は五十九節の「全議会」という言葉の注として、欄外に「サンヘドリン」と書かれているのを見つけることができると思います。新共同訳の聖書では「最高法院」と訳されている言葉です。もう一つの裁判が、この後に行なわれます、ローマの総督であるピラトによって行なわれた裁判です。
ここで「全議会」と言われているサンヘドリンの議会は、宗教的な問題を取り扱う議会です。七十一人の議会メンバーで構成されていまして、その三分の一が集まれば議会を開催することができたようです。ですから、完全に人数が集まっていなくても裁判を行なうことができました。そんな理由があったからでしょうか。今日の聖書を読んでみますと五十七節にこう記されています。

イエスをつかまえた人たちは、イエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。

主イエスが捕らえられたのはゲツセマネにおいて三度の長い祈りをした後のことですから、当然真夜中の出来事です。普通はそんな時間に裁判をするということはありません。サンヘドリンの議会法でも、日の出前に議会を招集するということは出来ないことになっていたのです。おそらく議員すべて集まったのではないのでしょう。真夜中に裁判をするなどというのはありえないことです。けれども、この裁判は行なわれてしまいました。何故か。それは、もうこの議会の人々の中に、イエスをどうしたいのかという意思が明白であったからです。
主イエスの裁判の時よりも少し後の資料ですけれども、そこにはサンヘドリンの議会についてのいくつかのことが記されています。安息日や祭日の前夜に議会を開催することはできない。有罪と判断してもその宣告は翌日まで延ばさなければならない。サンヘドリンの議会は大祭司の屋敷で開催されてはならない。
ここにあるようなことが主イエスの裁判の時にも有効であったとすると、ここで行なわれた主イエスの裁判では、今あげたことはすべて守られておりません。ですから、こんないい加減な裁判の仕方を無視した方法で、本当に裁判をすることができたのかという疑問が上がっているほどです。話し合いだけを先にしておいて、決定は日が昇ってからということであったのかもしれませんけれども、さらにその翌日でなければ刑を確定することができなかったのであるとすると、その夜のうちに死刑にあたるという判決をだすことを急いでいるのは、いかにももう結論が先に決まっていたことを示しているのです。

物事の判断が早いということは、一般的には悪いことと言われることは少ないかもしれません。時間をかけて厳密に話し合いをするということがいいとばかりも言えません。事柄を正しく理解し、結論を得るためにはそれなりの順序というものが必要です。その人の持つ印象で大事なことを判断するとなると、そこにはさまざまな問題が起こります。私たち自身、もし誰かが自分のことについて早急な判断を下されたとしたら、それは耐えがたいことに感じるのだと思います。自分自身がそのように扱われることに私たちは耐えがたい思いをいだくのですが、その逆で、自分が他の人のことを当たり前のように早く判断しすぎるということについては、深く考えるということもないままに、素早く判断してしまうことが多いのではないかと思います。それを、人を裁くなどいう言い方をします。
裁判で裁くということは、私たちにとってあまり日常的なことではありません。けれども、誰かを自分の正義で、自分のこれまでの人生経験の基準で人を裁くということについては、ごく日常的に行なっています。そして、自分のその判断についてそれほど問うこともないままに、これは良いであるとか、この人は悪いという判断を繰り返しています。

主イエスの裁判というのは、実に不当なものでした。そもそも自分たちの決めたルールにのっとっていないまま裁判が行なわれたのです。そして、裁判の内容もまたひどいものでした。五十九節。

さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。

とあります。「イエスを死刑にするために。」もうすでに死刑することが決められているのです。そして、その結論にあうための証言を求めたというのです。
誰もがこれを読めば、そういうやり方はひどいと思うのです。けれども、私たち自身、同じことを行ないやすいのです。先日もある方と電話で話をしておりました。その方が言われたのは、誰も私の求めている言葉を語ってくれる人がいないと嘆いておりました。その方にお話したのですけれども、自分にとって都合のいいことを言ってくれない人がいるということは本当はありがたいことですよ、と私は言いました。その人の願っていることを答えるということはとても簡単なことです。けれども、相手が喜ばないと分かっていても、他の考え方があることを言うことは、きちんと相手に伝えるということの中に、その相手への思いやりがなければそう言うことはできません。けれども、自分の願っていない言葉というのは、当人にとっては受け入れがたいことです。本当の言葉ではなくて、嘘の言葉の方が耳に優しいのです。けれども、本当に大切なことは、真実の言葉を語るということです。

しかし、この裁判においては、主イエスに対する嘘の言葉が次々と出てきます。証言は二人の者がいないかぎり、それが正当な証言であるとサンヘドリンの裁判で認められることはありませんでした。けれども、次々に嘘の証言が出てきていたのですが、ついに二人の証言が一致します。六十一節。

「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる』と言いました。」

ここでようやく主イエスを陥れる明白な証言が出てきたのです。これは、主イエスが神殿を冒涜することによって、神を冒涜したという罪になるとしました。もちろん、主イエスは神殿を冒涜したのでもなければ、神を冒涜したのでもありません。ここで、ご自分の死と復活のことをあらかじめ語られた言葉だったからです。

私はここの箇所をマタイの福音書が書かれた当時の人々がどのような思いで読んだのだろうかと想像してみるのです。マタイの福音書が書かれたとされる時代には、もうこの神殿はローマの手によって滅ぼされていました。もう今はなくなってしまった神殿、しかもローマが打ち滅ぼしてしまった神を礼拝する場所を悲しみながら、この主イエスの言葉を読んだに違いないのです。そのような状況の中で、当時の人々はこの主イエスの言葉を聞いたのです。
大祭司はイエスに詰め寄ります。「この人たちはあなたに不利な証言をしているのに、何も答えないのか。」そして、大祭司が尋ねます。六十三節。

「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

すると、主イエスはお答えになります。

「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

マタイの福音書が書かれた当時、ローマが世界を支配していました。教会は長い迫害の時代の中にあったのです。まことの裁きは誰が行なうのかと誰もが思う中で、もはや礼拝を行なうことのできる場所も失っている。しかし、主イエスはここで、わたしが、この世界を裁くまことの神として、父なる神の右の座についているのをあなたがたはやがて見るときがくるのだと宣言なさったのです。「わたしこそが、この世界を裁くまことの神であることをあなたがたはやがて知るようになる。」それが、ここで主イエスがこの裁判でお答えになられた言葉です。裁判の席で語るには堂々たる言葉です。この言葉は、この聖書が書かれた時代であっても、今日であっても人々の希望の言葉として語られているのです。
「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」わたしが、まことの支配者であることを知る時がくる。それは、こんな偽りにまみれた、人の都合で善し悪しが判断される、多くの人々が慰めを求めて嘘の言葉を喜んで聞きたいと願っている、そういう人々に向かって、神の目の前でこそすべての真実が明らかにされるのだとの堂々たる宣言の言葉なのです。わたしの言葉こそが、人を生かす本当の言葉なのだから。主はここでそのように宣言しておられるのです。

さて、この主イエスの裁判の姿を一方で描きながら、マタイは同時にその時に何が起こっていたのかを描き出しています。それがこの後に記されているペテロの出来事です。ペテロは、主イエスが捕らえられた時に他の弟子たちと共に逃げ去って行きました。けれども、その後どうなるのかが気になったのでしょう。きちんと見届ける必要があると考えたのかもしれません。自分はいのちがけで主イエスを守るのだと豪語したこの男は、大祭司の屋敷に入り込み、主イエスの裁判がどう行なわれるのかを見届けていました。

この少し前のところになりますけれども、最後の晩餐の席で主イエスは弟子たちに「今夜、あなたがたは、散り散りになってしまう」と言われました。みなが私から離れて行ってしまうのだと言われました。けれども、ペテロはそこで、「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」と自信をもって答えます。他の弟子たちもそう言ったのです。けれどもその時に、「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」と主イエスは言われました。ペテロはその主イエスの言葉を打ち消して「あなたのことを知らないなどとは言わない」と言えました。
ところが、主イエスが語られた通りの出来事がペテロの身に起こってしまいます。最初は中庭にすわっていた時です。女中のひとりが来て、「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」と声をかけます。六十九節です。ペテロはそれを打ち消します。今度は入口で他の女中が言います。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」七十一節です。だんだん声の調子が強くなっていることに気づくでしょうか。いつのまにかペテロもここで裁かれているのです。しかも、ここで二人目の証人がいるのですから決定的です。ペテロはそれも打ち消します。裁判で裁かれているのではないので、否定すれば何とでもなると考えたのかもしれません。けれども騒ぎはますます大きくなって、七十三節、七十四節にはこうあります。

しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、呪いをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

今度言い始めたのは「人々」とありますから、もう決定的です。周りにいた人々がみなでペテロに詰め寄ったのです。けれども、ペテロは必死にそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と言って呪いをかけて誓い始めたのです。そしてその時、鶏が鳴くのです。

マタイはここで主イエスの裁判の姿と、人々に裁かれているペテロの姿を対比させて描いています。それはどれほど人間的な熱心さがあっても、熱意があっても、深い愛情があったとしても、人間のすることはいつも不完全であるという姿がここでさらされています。そのような私たちの代表ともいえるペテロが、あれほどまでの熱意をもって愛した主イエスを知らないと、呪いの言葉さえも口にして打ち消していた時に、そのところで行なわれていた主イエスの裁判において、主イエスは、やがてすべての人が私の本当の言葉の前に立たされる時がくることを誰もが知るようになるのだと宣言なさったのです。
まるで、ペテロの「そんな人のことを知らない」という言葉を覆ってしまうようにして、わたしがまことの裁きを行なうのだと宣言してくださっているのです。
また、こうも言うことができます。主イエスのこの裁判において大祭司から「彼は死刑にあたる」と宣言されます。そのところで、本当に主イエスを裏切り、信仰に生きることを望んだペテロが主イエスを捨てたのです。それは、本当はペテロのほうこそ、いやペテロだけではない、同じように生きている私たちのほうこそ、神を冒涜した罪のために死刑にあたるはずであったのだということがここで明らかにされているのです。けれども、神の裁きは主イエスによって行なわれるのです。不完全な者を覆うために、その者を救うために、神の裁きが人の手に及ぶことのないよう今わたしはここで裁かれているのだ、という宣言がここで主イエスの口から話されていることをわたしたちは聴き取ることができるのです。

そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。「当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのは誰か。」

そう言って人々は主イエスをあざけったのだと、六十七、六十八節に記されています。力強い言葉とはうって変わった主イエスの弱々しい姿、痛々しい姿がここに記されています。
そして、ペテロもまた、自分が主イエスのことを知らないという言葉を発した時に鶏の鳴き声を聞いて、かつて主イエスに言われた言葉を思い起こします。

「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

三十四節で主イエスがお語りになられた言葉です。この言葉を思い起こしながら、ペテロは自分の弱さに涙を流すのです。
ペテロの悲しみと、主イエスが受けられた悲しみがここで交差しているのです。

ここにはペテロの裏ぎりの姿が、弱い人間の姿が描かれています。同時に、神の御子である主イエスの弱さも描き出されています。人からさげすまれ、ののしられ、つばきをかけられ、こぶしで殴られながら、それに立ち向かうことのない、弱い神の子、キリストの姿がここにはあります。けれども、キリストの弱さは神の御業を前に進ませるのです。たとえ、ペテロが主イエスを裏切っても、主イエスを守ることができなくても、神の御業は前に進むのです。このキリストの弱さのゆえに、神の御心が完全に行なわれるのです。

先週の祈祷会で説教をどのように聞くかという学びをいたしました。普段の祈祷会の出席者の多くがドイツを訪問しております。そのわりには大勢の方々がこの学びに参加してくださいました。そこで、今年の年間聖句であったコリント人への手紙第二、第十二章九節、「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」で元旦に行なわれた説教をもう一度一緒に読みました。ここでパウロが語っている「キリストの弱さ」とは何かということを共に聞いたのです。もう元旦に語った説教ですからすでに忘れている方も多いと思います。そこで語ったのは肉体的な弱さ、人間としてのどうすることもできない弱さと同時に、信仰の弱さという部分が私たちにはあるということを語りました。自分の生活の状況や、体の弱さに現わされる弱さだけではない、信仰の弱さ、人間の持つ性質的な弱さ、そのようなものもすべて含んだ弱さの中にあっても、そこにキリストの力が表されるのだという御言葉をわたし達は聞いてこの一年の歩みを送っているのです。
そして、この箇所はまさに、ペテロに代表されるわたしたちのどうすることもできない、まさに不信仰としか言い表すことしかできないような弱さをも、ここでキリストが完全に担っておられる姿を見ることができるのです。キリストがつばきをかけられているのは、わたしたちのためです。キリストがこぶしで殴りつけられているのは、わたしたちのためです。ここで示されているキリストの弱さは、すべて私たちを救うための弱さです。わたしたちのような、過ちを繰り返してしまうような失敗ばかりの者を救うために、キリストは、主イエスはここで弱さの中に立ち続けておられるのです。人からののしられ、、暴力をうけておられるのです。そうして、本当の裁きをなさるお方が、すべての罪をこの主イエスに負わせたことがここで示されているのです。

この主が私たちを救ってくださるお方です。この主がわたしたちのために完全に弱いお方になっておられるのです。この主が、神を裏切ってしまう者の代わりに、今ここで裁かれているのです。この主の弱い姿こそが、本当はわたしたちのあるべき姿なのです。
わたしたちが神の御前に立つとき、私たちは私たちの犯した罪のゆえに、顔も上げることができないような恐れに見舞われながら、これから自分はいったいどうなってしまうのかと恐れに支配されなければならない神の裁きのところで、私たちはやがて、キリストの御顔を仰ぎ見ることがゆるされるのです。そして、その時、わたしたちはこのお方からこういう言葉を聞くのです。あなたの裁きはもう終わった。私があなたに代わってすべての裁きを受けたのだ。だから、安心して私の前に立つがよい、と。
その時、わたしたちは「わたしの力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」との御言葉の意味を、心の底から味わうことができるようになるのです。

お祈りをいたします。

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