2012 年 9 月 2 日

・説教 マタイの福音書27章1-26節 「ユダとピラトとバラバと」

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2012.9.2

鴨下 直樹 

 

 今日の聖書にはユダ、ピラト、そしてバラバという名前が続いて出てきます。どの名前もあまりいいイメージとはいえない名前ばかりが続きます。すくなくとも、憧れの対象になるような名前ではありません。 主イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。主イエスを十字架につけたピラト。バラバについては囚人としてしか知られておりません。このバラバは主イエスに代わって刑を免れた男として名前が知られるようになります。ですから、バラバだけは少し異なる印象になるのかもしれません。今日は、この人々に視点を当てながら、マタイの描く主イエスの受難の出来事を見ていきたいとおもいます。

 

 さて、今日の聖書箇所の最初に記されているのはユダです。一節から十一節までです。まず一節と二節で、サンヘドリンの会議で死刑を決定した祭司長、民の長老たちは主イエスの身柄をローマの手にゆだねたことが記されています。そのために、ローマの総督ピラトに引き渡されたのです。

 そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。

と、三節、四節にあります。

 イエスがローマの手にわたされて、ユダは後悔したというのです。このユダが「後悔した」というところを読むと、それはまるで、イエスが捕らえられてローマの手に渡されることをユダ自身予期していなかったという印象を読む者に与えます。そんなこともあるからかもしれません。後に、ユダはローマの兵士に捕らえられた時に、いよいよ神の子としての力を発揮されて、ローマを打ち破ると期待していたのではなかったかという理解が生まれました。もちろん、そんなことがはっきりと聖書に書かれているわけではないのですが、興味深い想像です。ユダはローマを打ち滅ぼす力強いメシアを期待したのに、ひょっとすると、ローマに捕らえられた時に天の軍勢でもやってきて、いよいよ神の支配される国が開始されるのだと考えていたのかもしれないのです。けれども、簡単にローマに捕らえられてしまったのでは当てがはずれてしまった。だから、その時になって後悔したという理解がうまれたのです。

 ユダが本当にそう考えていたかどうかは分かりませんけれども、そのような理解がこの時代の人々の中にあったことは事実です。人々は力強いメシアを期待したのです。ところが、ここに描きだされている主イエスのお姿は完全に弱い者としてのお姿です。

 いずれにしてもユダは、ここで自らの過ちに気づきます。主イエスを売り渡したのは間違いだと気付いたのです。問題は、ユダが自らの過ちに気付いた時にどうしたのかということです。自分の過ちに気付いた時に、どうしたらよいのか。それがこのユダの出来事の中に現れているのです。

 

 ユダは、お金を持って祭司長、民の長老たちのところに返しに行きました。それは、自分が主イエスを売ったことを無かったことにして欲しいということです。これは、わたしたちにもよく分かることです。誰もが過ちを犯した時にまず考えるのは、自分が犯した過ちをその所に戻ってやり直すということでしょう。それでうまくいくことが多いのです。けれども、ユダの場合はそうなりませんでした。イエスはもう裁判にかけられてしまい、今は祭司長や民の長老たちの手の届かないローマの総督のもとに身柄は預けられているのです。自分の過ちに気づいても、それを取り返そうとしても、もう手遅れなのです。たとえ、お金を返すことで自分の気持ちの整理ができたとしても、起こってしまったことをやり直しできるわけではないのです。

 もちろん、そのことはユダ自身わかっていたことでしょう。けれども、そうせざるを得なかったのです。そして、その後ユダは何をしたのかというと、首をつって死んだのです。自分の罪の責任を、自分でとろうとしたのです。これも良く分かることです。社会的に大きな問題が起こりますと、そのようにする場合があることを私たちはよく新聞やニュースで耳にします。しかし、やはりそれで本当の解決にはいたりません。主イエスは今尚、ローマの手に引き渡されたままなのです。ここに、過ちを犯してしまった人間、罪を犯してしまう人間のすることのできる限界がよく表されていると言えます。ユダのしたことは、人間的にみれば精一杯の償いをしてみせたのです。自分のした行ないを反省し、貰ったものを返し、責任をとった。しかし、聖書はそれが十分なことであったと記してはいないのです。私たちはそのことをよく心に留めておくことが大切です。

 

 このユダの結末を記しているのはマタイの福音書だけです。なぜ、マタイがそのような記述をわざわざ記したのか、その意図は明白です。人は自分の犯した過ちの解決を完全に自分自身で取ることはできないのだということです。しかし、主イエスはそのためにここで苦しみをうけておられるのだということをマタイは気づかせようとしているのです。

 

 それで、マタイは続いてその視点をローマの総督ピラトへと移します。ピラトのもとでの主イエスの裁判が開始されます。ピラトの問いはこうでした。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」ローマの裁判において、ユダヤのサンヘドリンの議会で決めたように、誰かが、神の名を冒涜したことによって死刑にするなどということはできません。ローマはまことの神を恐れる国ではないのです。そうであれば、ユダヤ人の王と問うことによって、ローマの支配をあなたは認めないのか、という問いをする意外にイエスのローマへの罪を問うことにはならないのです。

 そこで、主イエスは答えられます。「そのとおりです。」この新改訳の十一節に記されている「そのとおりです」という言葉は、二十六章の六十四節にある大祭司の裁判での問いかけでも同じように答えておられた言葉です。この言葉は新共同訳聖書では「それは、あなたが言っていることです」と訳されております。原文は新共同訳のように記されているのですが、意味としては「わたしの意味とあなたがたの言っている意味は違うが、あなたの言っているとおりです。」という意味合いがあります。ですから、新改訳のように肯定したと訳すこともできるのですけれども、そのまま完全に同意しておられるわけではないのです。主イエスはローマのように、そして、当時の人々が期待したように、力をもって国を支配する王として自らを示したわけではありません。神の国のまことの王は、力によって支配するのではなく、神の支配に身をゆだねることによってもたらされるまことの国の王としておいでになられたのでした。そのために、主イエスは完全に神に自分の身を託しておられるのです。

 裁判は続きます。祭司長や民の長老たちがその席でも、主イエスの不当な証言を続けます。しかし、主イエスはひたすら沈黙しておられるのです。彼らのなすがままにさせておられるのです。

 

 けれどもここを見ますと、ピラトはイエスを助けようとしていることが分かります。しかも、その妻も裁判の席に来てこう言ったのです。

「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」

十九節にそう記されています。 妻もまた主イエスを正しい人であると、夢で知らされたというのです。この場合は単に夢を見たということではありません。マタイの福音書は初めから夢を神と出会う場として描いています。神がそのように告げたのだということです。

 これ以外に、主イエスの受難の出来事の中で神が介入する場面はないのです。神はずっと沈黙を守ったままです。神は、主イエスが裁かれるままにしておられる。人々は主イエスをののしり、手をあげているときも神は沈黙しておられるのです。しかし、ピラトの妻には、夢で主イエスは正しい人物であるとお示しになったのです。他の誰にも知られることのない神の小さな介入であったということができるかもしれません。

 それに促されるようにしてでしょうか。ピラトは群衆に一つの提案をいたします。十五節から十七節をお読みします。

 ところで総督は、その祭りには、群衆のために、いつも望みの囚人をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人が捕らえられていた。それで、彼らが集まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼ばれているイエスか。」

 ピラトにしてみればこの提案は、イエスを釈放するのによい提案だと思われたのでしょう。バラバは、他の福音書を読みますと強盗であったと記されています。一方イエスは、エルサレムに入城するときには人々に大歓声で迎え入れられていたのです。そして、暴力的なことは何一つ行なわない、人に害を与えることなど何ひとつなかった男です。当然、人々はイエスの釈放を願うと考えたのでしょう。ところが、人々はバラバの釈放を願い、イエスを十字架につけるように求めます。

 二十三節にはこうあります。

だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激しく、「十字架につけろ。」と叫び続けた。

 人々の声はどんどん強まっていきます。十字架につけろという声は、ピラトを圧倒しはじめるのです。

 ピラトは裁判の責任者でした。この「総督」というギリシャ語は「支配者」という意味のある言葉です。ところが、この裁判を支配しているのは総督ピラトではなくて、群衆にその支配権を奪われてしまうのです。裁くはずの者が、正しく裁く力を失ってしまうのです。「人々はバラバを釈放せよ、イエスを十字架につけろ」そう叫んで、ピラトを支配していったのです。ここに記されているのは、神の介入は無駄であったということではないのです。人々を支配し正しい裁判を行なうはずのピラトは、ここで人々に支配されてしまいます。そして、自分の思うことさえもできません。しかし、そのことの背後に神がすべてを支配しておられ、神のゆるしなしに、主イエスが裁かれるということはないのです。ここでは、ピラトもまた弱い一人の人間でしかないことが明らかにされているのです。

 

 使徒信条は「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白します。教会はの信仰告白は、この十字架の苦しみは、ピラトのもとでうけたものだと言います。しかし、この箇所を読むと、ピラトは人々を恐れて、自分の願う裁判を行なうことができなった人間として描き出されているだけです。ピラトもまた、弱い人間の一人にすぎないのです。

 そのような、ピラトに代表される自分の意思も通すことのできないような人間によって、そのような人々によって、主は十字架に架けられたのだ、と使徒信条は言い表しているのです。そして、マタイもまた、主イエスを殺したのはピラトの責任ではない、人間の力によってなされたのだということをここで見事に描き出しているのです。そうして、このピラトという名前のもとで、すべての人間が主イエスを十字架につけたことが明らかにされているのです。

 

 

 ところが、マタイは興味深いことに、ここに一人だけ救われた男を登場させます。それがバラバでした。このバラバの名前は興味深いことにイエスという名前であったという写本があります。カトリックのフランシスコ会訳の聖書では十七節のところをこう訳しています。「誰を釈放してもらいたいのか。バラバ・イエズスか、それとも、メシアと呼ばれるイエズスか。」

 このふたりともイエスという名前であったというのです。この「イエス」という名前は、「主は救い」という意味です。「バラバ」は「バル・アッバ」であろうと考えられておりますけれども、そうしますと「父の子」という意味です。しかも、解説書を読んでおりますと、このバラバは、ロビンフットのような革命家であったのではないかと書いてあるものもあります。単に人を殺して人の金品を強奪する者ということではなくて、ローマの権力に立ち向かいながら、ユダヤ人の社会を確立しようとした男であったのではないかというのです。このバラバという名のイエスは革命家であったということを支持する資料は少なくないようです。

 

 スウェーデンの文学者で、ノーベル文学賞をとったことでも知られるラーゲルクヴィストの書いた小説で、このバラバをテーマにした小説「バラバ」というのがあります。岩波の文庫で今でも読むことができます。

 この小説は大変興味深いもので、自分の代わりにイエスが犠牲になったおかげで救い出されたバラバのその後の生涯を記したものです。もちろん創作ですけれども、バラバは主イエスが犠牲になったことで助けられたわけですから、どうしても、イエスに興味を持たざるを得なかったのではないかということで、このバラバのその後の出来事を物語にしたのです。

 その物語によると、バラバは、その後に教会の中で起こったさまざまな出来事の中に身をおくことになります。そして教会をとおしてさまざまなキリスト者たちに出会っていきます。イエスの復活、その後の教会の発展と、ローマによるキリスト者たち迫害、ローマの大火。教会におこったさまざまな出来事を自分もキリスト者たちと一緒になって経験していきます。そしてある日、ローマに火事が起こります。次々に火の手があります。しかもその火事はキリスト者たちが行なったという噂を耳にして、バラバは自分なりに納得します。そのためにキリスト者は活動していたと知るのです。そして自分も一緒になってローマの町に火をつけて回ります。そのためにバラバはローマによって捕らえられてしまうのです。ところが、捕らえられて気づくのは、ローマに火を放ったのはキリスト者たちではなかったのです。ローマ皇帝がキリスト者に責任をなすりつけるために叫ばせた声に、自分は騙されて、一緒になってローマに火をつけたのです。それで、バラバはキリスト者と一緒にいたということで、ローマの磔刑に処せられるのです。つまり、十字架にかけられてしまうのです。けれども、この十字架でつけられて死ぬ時に、「あなたに自分をゆだねる」との信仰告白をして物語が終わります。信仰を持って死んでいったのだと描いたのです。

 

 もちろん、これはラ-ゲルクヴィストの創作です。小説の話です。けれども、バラバは誰よりも主イエスの十字架を理解したのではなかったのかと想像するのは無理もないことだと思うのです。こう言ってもいいのです。この小説は身代わりになって救われたバラバとはいったい誰のことなのだろうかと気づかせようとしているのです。

 つまり、このバラバの物語は創作であったとしても、私たち自身が主イエスが十字架にかかって死んでくださったことによって救われたことにあなたは気づかないのか、と問いかけてくるのです。

 

 私は牧師の家庭で育ちました。ですから、聖書の話を子どもの頃から疑ったことはありませんでした。主イエスを信じるということも、私なりに理解しているつもりでした。けれども、自分の罪の身代わりに主イエスが十字架で死なれたのだということは良く分からなかったのです。罪ということが良く分からなかったからです。子どもの頃から家庭で夜寝る前になると、聖書を読み、祈ります。日ごとの悔い改めということを私の父は徹底して教えましたから、毎晩悔い改めの祈りを子どもの頃から祈っていました。

 ですから、自分の罪ということがかえってわからなかったかもしれません。私が主イエスの十字架が自分のこととして理解できるようになったのは洗礼を受けてからもう何年もたってからのことでした。洗礼を中学二年生で受けたのです。もちろん、その時に、自分は主イエスを信じる決心をしていたのです。けれども、罪の赦しについては知識として理解していただけでした。

 もう成人を迎えていた私は、時間があると根尾にある根尾クリスチャン山荘までドライブに行くというのが私の趣味になっていました。いつも一人で根尾に行くのです。昔は、根尾山荘の裏手に白い大きな十字架が立てられていました。その時も十分さびておりました。今は残念ながらそのために取り除いてないのです。高さ二メートル半くらいあったでしょうか。ちょうど見上げることのできる高さです。私は少し想像力を働かせて考えてみたのです。もし、この十字架に主イエスが磔にされているとしたら、私は何を思うのだろうかと。私の最初の想像は非常に単純です。痛いだろうなと思ったのです。こんな大きな十字架に手足をくぎつけられて、死ぬまでそのままでいなければならない。何という苦しい刑なのだと考えたのです。

 ところが、すぐに想像がおかしいことに気づきました。もし、目の前に本当に主イエスが磔にされているのだとしたら、痛いだろうなという感想を持つのは何もわかっていない反応ではないかと。目の前に主イエスが磔にされている。そのお方を下から見上げながら、痛いだろうなとしか考えられない自分を恥じました。私こそが、十字架にかかるべきなのに、今自分は十字架の下にいながら主イエスを見上げている。見上げていることができるのはなぜなのだろうか。それは、主イエスは私に代わってこの刑をうけておられるからだということが、その時、私に迫ってきたのです。そこで、わたしは主イエスの十字架は私の罪のためであったことを、初めて気付いたのです。

 

 バラバは自分以外の何者でもないのです。自分で、自分の罪を何とかしようとしても、人間ができることはユダのように振舞うことができるのが精いっぱいです。あるいは、ピラトのように、自分の責任を放棄してすべてを投げ出してしまうことしかできないのが、私たちの姿です。ユダも、ピラトも、バラバも、自分で自分のことを支配することさえできない、正しく生きることのできない人間そのものの姿を現しています。

 けれども、ただここでひたすら辱めに耐え、刑の宣告をうけておられる主イエスは、そのような不完全な人間のすべてをその身に負うことを望まれたのです。それは、わたしたちを救うためにです。

 

 マタイはここでさまざまな人間の姿を描き出しています。それ以外にも、十字架につけろと叫ぶ人々の姿がここにあります。「その血の責任は、我々と子孫にある」と答えている人々の姿です。この言葉にすべてが込められています。私たち自身の罪の責任は、わたしたちにある。人々はここでその自分たちの口にした言葉の意味をそれほど考えることもなく口にしたことでしょう。けれども、これが人間の姿です。自分の犯した罪の責任は自分にある。そのとおりです。けれども、その罪の責任を自分ではどうすることもできないのです。ユダも、ピラトも、自分で自分の責任を取ることはできませんでした。バラバも、ユダもピラトも、自分の犯した過ちを自分ではどうすることもできないのです。それが、わたしたち人間の姿です。

 けれども、ここで主イエスは、ご自身のためには何の弁護もすることなく、この不当な裁きを身をゆだねておられるのです。ユダ、ピラト、バラバ、そして、あなたの罪を背負うために、主イエスはここで何の言い訳もすることなくそれを黙って受け入れていてくださるのです。

 

 お祈りをいたします。

 

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