2012 年 9 月 23 日

・説教 マタイの福音書27章27-44節 「十字架への静かな道」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 10:22

2012.9.23

 鴨下 直樹

 

 主イエスの受難の物語を私たちはいま聞き続けています。二週間の間休みをいただきましたので、二週間ぶりということになります。

 

 今日は何から話をしたらいいのか分からないほどに、先週一週間の間に色々なことがありました。二週間休みをいただいたことがもうずいぶん前のことと思えるほどでした。

 もうすでに多くの方は御存じのことですけれども、水曜日と木曜日にかけて葬儀が行なわれました。今日は教団の日で、午後にはここを会場にして教団の日の集会があります。その午後の集いの説教の準備もあります。それ以外にも、金曜日の集会や名古屋で教えています神学塾の勤めや、昨晩は学生の集まりもありました。いつもの一週間に戻ったことを実感する一週間でした。その間中私の心に留まっていたのが、今朝、私たちに与えられている主イエスの十字架までの道のりの物語です。 

 カトリック教会にまいりますと、どこの教会に行っても壁に十五枚の絵がかけられています。絵である場合もありますし、レリーフの場合もります。主イエスの受難の場面を十五に分けまして、その絵を見ながら主イエスの十字架の苦しみを思い起こすという習慣があるためです。その十五枚の主イエスの十字架の苦しみを描いたもののことを「十字架の道行き」といいます。

 主イエスの裁判の場面、兵士たちに鞭打たれるところ、十字架を担いで行かれるところなど様々な場面があります。今、私たちがこのマタイの福音書で聞き続けている主イエスの痛ましい姿を心に刻むようにと、礼拝堂の中に主イエスの十字架までの道のりを示す絵を飾るのです。

 

 この十字架までの主イエスの道行きの場面を読みながら、今週、教会で様々な集いがありました。私自身、葬儀をし、祈祷会をし、パッチワークの集まり、神学校の授業、そして、学生たちとバーベキューをして過ごします。まさに、色々な生活の場面を自分も味わいながら、その中に主イエスの苦しみを覚える一週間となりました。そのような人との関わりの中でこの主イエスの十字架の道行きの御言葉に耳を傾ける。それは非常に印象深い経験となりました。

 特にそのなかでどうしても深く心に留まったのが、先週のこの礼拝で説教してくださったK執事のお母さんMさんの葬儀です。Mさんは子どもの頃の病気で耳が聞こえません。けれども、略歴の中にもありましたが、大戦で家を失い、建て直した家を伊勢湾台風が襲います。どれほどの絶望を味わったのだろうかと思います。まだ、若い時にそういう経験をなさいました。しかも、十人兄弟の長女として生まれ、自分は病のために耳が聞こえない。その生涯はまさに受難であったのではなかったかと思います。

 ところが、教会に導かれます。耳が聞こえるようになったわけでもありません。けれども、主とともに喜んで生きる幸いを、その変わることの生活の中で感じとっていったのです。葬儀においても、前夜式においても非常に大勢の方が訪れました。そのことを目の当たりにしながら、苦しみの中にあっても、主がそこにおられる幸いが見事に証されていたのだということを覚えさせられました。

 

 今日、私たちに与えられている御言葉は、二十七節から四十四節までです。もちろん、他の分け方もあったと思いますけれども、今朝はここから御言葉を聞いています。ここに記されているのは、ひたすら主イエスが嘲られ、苦しみに耐えておられるお姿です。他には何もないのです。

 緋色の上着を着せられ、いばらの冠をかぶらせられ、右手に葦の棒を持たされて、「ユダヤ人の王さまばんざい」とからかわれる。つばきをかけられ、葦の棒でたたかれる姿。十字架を担がされてゴルゴタまで歩まれる姿。主イエスの着物は奪われ、二人の強盗と一緒に十字架に磔にされる。そこでも人々に嘲られ、祭司長と律法学者たちのあざけりの言葉をかけられ、ついには一緒に十字架に磔にされている強盗たちからも嘲りの言葉を浴びせかけられている。

 この主のお姿の中に、私たちは一体何を見出すことができるのでしょう。主イエスの十字架。教会にいつも飾られている十字架とはこれほどまでに醜い人々の姿をあらわすものなのだとしたら、どこに慰めがあるというのでしょう。

 

 

 マタイはこの主イエスの十字架の出来事を実に淡々と描写しました。ドラマチックな演出は何ひとつ記していません。主イエスがそのためにどれほど苦しんだのか、それがどれほど酷い刑であったのか、そのような人の感情に訴えるような描写はほとんど何もと言ってもいいほどにさっぱりと書いています。

 十字架の道行きの多くの絵に描き出されているようなリアルな描写も、受難曲に表現されているような心の動きもないのです。ただ、事実としてのこの出来事が、一つ一つ主の身に起こっていったのです。

 いったい何故なのでしょう。これほど感情に訴えれば人の心に届くものはないのではないかと思えるようなところで、マタイはそれをしないのです。何故か。それは、そこに赦しがあるからです。あなたのためにこんなに苦しんでいるのだと訴えかけられるところに、救いは成り立ちません。主イエスの苦しそうなお姿を劇的に描いて見せることで心が動いて、主イエスを信じさせるという手法を好んではいないのです。

 

 神の赦しというのは、静かに起こるものです。この人はこんなに悪い人なのだと騒ぎたてて、大げさに演技してみせて、赦しの大きさを誇示するようなものではありません。悲しんでいる者、悩んでいる者、罪に苦しんでいる者の傍らに主は立たれ、確かな御手でその人を支えられるのです。それは、その人の心の中では大きな出来事であるかもしれません。心が激しく揺さぶられるような体験が伴うこともあるでしょう。しかし、主のゆるしは静かに、その人のもとにもたらされるのです。

 

 七月の後半から九月の真ん中まで、毎年水曜日と木曜日の聖書の学びと祈りの時は、みなさんがそれぞれの集会を担当して話をしてくださいました。聖書から語る準備をした方もあれば、ご自分の証をした方もあります。もう何年も続けていますから、だんだんと話す内容がよく整理されて、非常にすばらしい時間となっています。私も、多くの会に出席させていただきました。

 残念ながら休暇中の間にお話しくださった方の話は聞くことができませんでした。それででしょうか。先週のK執事の説教の原稿と、もう四年になるでしょうか、この教会に来られるようになったMさんの証の原稿を読ませていただきました。Mさんの証は恐らく殆ど語った通りの原稿だったのではないかと思います。聞いておられない方も沢山あると思います。

 ここでその証を丁寧に説明するいとまは残念ながらありません。けれども、少し紹介させていただきたいと思います。二つのことが話されました。一つはどうしてこの芥見教会に来るようになったのかということと、もう一つは今の仕事のことです。今Mさんは大学で事務の仕事をしています。そのためにこの岐阜にやってきたのです。色々な仕事をしておられたのですけれども、突然降格の人事が発表されました。原因は事実無根のうわさ話のためであったようです。ところが、その証の中でひとつの御言葉が読まれました。第一ペテロ第四章十二、十三節です。新共同訳聖書でお読みします。

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみに預かれるのですから、喜んでいない。」

 この御言葉を紹介しながらMさんはこんなことを言っています。「自分はこれまで人に褒められたいと思っていた。けれども、今は良いことをしても褒められる心配はない。私は褒められたいという欲望から完全に自由にされて、全く自由な心で「良い事」を行なうことができる。」と。そして、そういいながら、またこの第一ペテロを選んでいるのは、同時に、自分は苦しみを受けることでキリストの苦しみに預かれるようになったということを覚えていたいということです。

 見事な信仰の言葉です。自分の苦しみの下に、主イエスの支えがあることを証する言葉です。主イエスはここで、十字架を担いでおられます。しかし、そこで担いでおられる十字架こそが、わたしたちの担うべき十字架であることを受け止めている言葉です。

 

 興味深い主イエスの十字架の光景が、今日の聖書に記されています。それは、主イエスが担ぐべき十字架を、クレネ人のシモンに無理やり背負わせたという記述があります。三十二節です。このクレネ人のシモンについてはさまざまな憶測があります。特にマルコの福音書の十五章の二十一節で「アレキサンデルとルポスの父で、シモンというクレネ人が」と説明されています。このアレキサンデルとルポスの両親であったシモンという人の名前はマルコの福音書では説明する必要もないほどによく知られた名前であったということです。とすると、このシモンの家族はやがて教会の仲間の間で名を知られるようになったと想像することができるのです。

 主イエスの十字架を背負わされたシモン。そして、その子供たちはやがて主の教会で仕えたと考えられるのです。主イエスの十字架を背負った男。それは、その後の教会の人々の中でうわさになったに違いないのです。けれども、主イエスに代わって十字架を背負ったからといって、このシモンが何か特別立派なことを主イエスにすることができたのだということにはなりません。

 もちろん想像する意外にないのですけれども、シモンは主イエスの十字架を背負うことによって、別のものを背負わなければならなくなります。それは、自分が十字架を背負ったイエスという人物はどういう人物なのかという興味です。そして、知れば知るほど、主イエスのことが分かってきます。このイエスは、人の苦しみを背負うために、人の罪を赦すために来られた方だということを理解するようになった。自分は確かに十字架を背負ったけれども、自分はこのお方に支えられていたのだということを知るようになったに違いないのです。

 

 このシモンがそうであったように、あるいはMさんや、この月曜日に主の御許に召されたMさんも、そして、ここにいるすべての人はそれぞれに背負うべき十字架があります。この十字架は自分は本来背負うべきものではなかったと思ったとしても、時として背負わされることがある。自分の意思とはかかわらず、背負わなければならない苦しみや悲しみ、困難というものがあります。

 けれども、主イエスのことを知れば知るほどに、自分の背負わされている十字架は、主イエスによって背負われていることに気づくのです。そして、私たちが苦しみを経験するときに、主イエスが受けられた苦しみの大きさを知るのです。そして、主イエスがそれを静かに、淡々と担われた姿に驚く意外にないのです。

 

 私たちはすぐに右往左往してしまいます。そんなものは一刻も早くどこかに捨て去ってしまいたいと考えます。みないようにしたい。感じないようにしたいと思います。けれども、主イエスはだまって、それを身に引き受けられたのです。

 主イエスが静かにそれを受け入れておられるそのそばで、人々はいつまでも大きな声で騒ぎたてます。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」さまざまな言葉を浴びせかけます。

 なぜ、周りの人々はこんなに騒ぐのでしょうか。なぜ、この主イエスのお姿が目にはいらないのでしょうか。その答えは簡単です。人は、騒いで、拒んで、右往左往する先に救いというものがあるのだと考えているのです。苦しみに抗って、抵抗して、逃げ切ることこそが救いだと考えているのです。そういうところで、神が介入するのが救いなのだと考えているのです。

 しかし、主イエスのお姿はそうではありません。不当な、理解しがたいものを静かに受け入れておられる。慌てることもなく、取り乱すこともない。ただ、静かに自分は神に支えられているのだという確信だけが、自分を支えるのだということを示しておられるのです。

 

 私たちが見なければならない主のお姿はここにあります。私たちが知らなければならない主の救いは、ここに示されています。耳が聞こえない。仕事がうまくいかない。人が思うように評価してくれない。家族が愛してくれない。誰も自分のことを理解してくれない。自分のこれからの生活を思い描くことができない。実にさまざまな叫びたくなること、受け入れがたいことが私たちに襲いかかります。

 けれども、そこで私たちは慌てふためくことなく、確かなことを知ることがゆるされているのです。それは、主が、あなたを支えてくださるという事実です。あなたよりも、もっと悲しい所で、もっと低い所におられる主が、あなたを支えてくださるのです。それこそが、ここで私たちに見るようにされている、十字架への道におられる主イエスのお姿なのです。

 

 お祈りをいたします。

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