2012 年 9 月 30 日

・説教 マタイの福音書27章45-56節 「十字架の叫び」

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2012.9.30

 鴨下 直樹

 

 今日、この礼拝の後、午後からここでキリスト教美術講座が行なわれます。岐阜県美術館の館長をしておられ、私たち芥見教会の長老の古川さんがお話しをしてくださいます。今年二回目ですけれども、今回は「新約聖書にみる名画」というテーマです。おそらく、沢山の主イエスの十字架の絵が紹介されることと思います。主イエスの生涯を描いたものがそのほとんどなのではないかと思います。新約聖書を描く、そしてその中でももっとも多いのはキリストの受難を描くものと、キリストの復活を描くものです。

 今、岐阜県美術館でシャガール展をしております。今週の木曜日古川さんが鑑賞会を開いてくださるというので、今から楽しみにしております。シャガールはユダヤ人です。正確にはユダヤ系のフランス人です。ですから、シャガールは聖書の物語の作品を数多く手がけていますが、そのほとんどは旧約聖書を題材にしたものばかりです。

 ところが、シャガールはユダヤ人でありながらたくさんの十字架の絵を描いたのです。フランスのノートルダム大聖堂やドイツのマインツにある有名なステンドグラスの作品の中にもかならず十字架が描かれています。先週の家庭集会で古川さんがお話しくださったのですが、二十世紀の画家の中でもシャガールほど十字架をたくさん描いた画家はいないということでした。ルオーより多いと言うのです。

 なぜ、ユダヤ人のシャガールがそれほどまでに十字架を書いたのか不思議ですけれども、シャガールはユダヤ人でありながら十字架を描かざるを得なかったと言います。明らかにキリストの十字架に救いを見出していたのです。それは、シャガール自身そのことを認めているのだと古川さんは言っておられました。とても興味深いことです。

 聖書物語のシリーズも見ることができるということです。数が多いので前半と後半で展示する絵が変わるのだそうです。今から楽しみにしています。それほどたくさんの旧約聖書の物語を描いているのですから、長い間聖書と向き合い続けているのです。そして、キリストの十字架をその自分の描く聖書の作品の中に入れるのです。まるで、旧約聖書のすべての出来事は、イエス・キリストの十字架に集約されるのだと言っているかのようにです。それは、シャガール自身、この主イエスの十字架に慰めを見出したからに他ならないのです。

 

 主イエスの十字架はすべての人の希望です。すべての人の前に示された神の赦しの出来事です。このマタイの福音書はまさにこの聖書の箇所の中で、すべての人を描いてみせました。それが、この主イエスの十字架上で叫ばれた今日の聖書の箇所に描き出されています。それが、この朝私たちに与えられている物語です。

 

 十字架の上で、主イエスは絶望の叫び声をあげられました。そして、この叫び声をすべての人々が聞いています。ローマの兵士たち、そして、百人隊の長がいます。アリマタヤのヨセフとう政治家がいます。着物を取り合うために賭けごとにのめり込んでいる者がいる。民の指導者、宗教指導者がいます。主イエスの弟子がおり、家族がいる。社会的に地位の高い者もいればそうでない者もいる。病気の者もいれば、健康な者もいる。犯罪人、しかも死刑囚がおり、また刑罰から救われた者もいます。それを興味本位で眺めている者もいれば、胸を打ちたたきながら悲しんでいる者がいます。そのすべての、ありとあらゆる人々がここで主イエスの叫び声を聞いたのです。主イエスの絶望の叫びです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 

 ここで主イエスが口にした叫びをはじめに口にしたのはダビデでした。これは、ダビデの詩篇二十二篇でダビデが口にした叫びです。そして、その叫びを今度は主イエスが叫んでおられる。アブラハムも、モーセも、ヨブも、エリヤも、聖書の中に記されているすべての神の民が、誰もが味わったことのある思いが、ここで主イエスの口から発せられたのです。誰もが経験のあること、誰もがそのように叫びたくなることがあるあの叫びを、主イエスは、ご自分の死の直前に口にされました。この叫びをわたしたちはどのようにして聞くことができるのでしょうか。

 「主よ、どうしてですか。」 「なぜですか。」 「どうして、わたしを見捨てられたのですか。」 この言葉は時折わたしたちの口に上ってきます。突然の地震で、突然の台風でだいじなものを失う。思いがけず病が襲う時、愛する者を失う時、一生懸命やっていたことがうまくいかないとき。いや、そんな大きな悲しみの経験でなかったとしても、日常の小さな出来事でさえ、納得できない時にそのような言葉を口にします。

 

 

 内村鑑三という日本で無教会という運動をはじめたキリスト者がおります。大戦中のことです。学校の教師をしていた内村は朝礼の時に、教育勅語の前に最敬礼をしなければならないのに、最敬礼をせずに軽く礼をするにとどめます。それが後で大きな非難となりました。不敬事件と言われた出来事です。そのために内村は非常に激しい迫害をうけることになります。家に石を投げ込まれる。キリスト者たちからさえ迫害されます。そういう中で流感(今で言うインフルエンザ)にかかってしまい生死をさまよいます。何とか回復した二ヵ月後、教師にしておくことはできないと職を失ってしまいます。そして、長い間迫害を共に耐え忍んで来た妻の加寿子(かずこ)が二ヵ月後にこの流感にかかって死んでしまいます。この時の内村鑑三がこう書いています。

「神もし神ならば、何ゆえに余の祈祷を聞かざりしや。神は自然の法則に勝つあたわざるか。あるいは祈祷は無益なるものか。あるいは余の祈祷の熱心居たらざりしか。あるいは余の罪深きがゆえに聞かざりしか。あるいは神、余を罰せんがために、この不幸を余にくだせしか。これ余の聞かんと欲せしところなり。」そしてつづいてこう言います。

「余は、余の愛する者の失いせしより後、数か月祈祷を廃したり。祈祷なしには箸を取らじ、祈祷なしには枕につかじと固く誓いし余さえも、今は神なき人となり、恨みをもって膳に向い、涙をもって寝床につき、祈らぬ人となりおわれり」。

 内村は神に問います。なぜ、これほど悲しいことが起こるのかと。神は無力なのか、神に祈ることは無駄なのか、それとも、私の信仰が、祈りが足りないからか。しかし、妻を失ったわたしは、それまで何よりも大事にしてきた祈りさえもやめ、神に期待する心を失ってしまったのだと。

 

 誰もがそのような思いを抱くことがあるのだと思います。祈りがむなしく思える。神が聞いていて下さらないかのように思える。あるいは、自分の信仰が至らないからとも思える。祈っても無駄なのであれば、もう祈るまい、神に訴えまい。そう考える。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」との叫びは、すべての人の心の中にある叫びの言葉です。そして、その叫びを、主イエスはすべての人々が聞いている前で叫ばれました。

 しかも、神はあろうことか、主イエスのこの叫びに耳を傾けられることはなかったのです。神のみ子であられる主イエスの祈りであっても、神に届かない。自分の責任があるわけではない。自分の問題ではない。神の御業のためにあのクリスマスにこの世に生まれた、イエス・キリストは、その生涯を神への絶望の言葉を叫ぶことによって、自らの生涯を閉じなければならなかったのです。

 

 私たちがそこで知らなければならないのは、私たちの叫びと、主イエスの叫びはまるで違うものであったということです。私たちの叫びが、私たちの祈りが実感として神に届いていないのではないかと感じることがあったとしても、神がおられるかぎり、私たちは完全に絶望するということはありません。しかし、主イエスの死は、主イエスの十字架の死は、神に完全に見捨てられるためのものでした。

 主イエスはそのために、十字架という罪にさだめられた所に磔にされておられるのです。罪、それは神との関わりを拒絶するということです。神と無関係でいるということです。その罪の場で神との交わりを求めることはできません。しかし、神は、その罪の場所に主イエスをおかれたのです。それは、すべての罪を主イエスは背負うためにです。

 

 内村鑑三はその絶望の祈りにおいて、自らの罪をどうしても意識せざるをえませんでした。自分の祈りが不熱心であったからか、それとも、自分の罪が深すぎたためだろうかと言いました。私たちは祈りが聞かれない時に、そのように自分自身を振り返って、自分に責任があるのではなかったかと考えてしまいます。

 けれども、神はまさに、そのような罪の場所を取り除くために、主イエスを十字架にかけたのでした。罪の場所がなくなるところにしか、本当の救いはないからです。

「わが神、我が神、どうしたわたしをお見捨てになったのですか」、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びながら、神に完全に見捨てられる。もう、どこにも希望はないのだと完全に絶望する。それこそが、罪に身をおくしかない、私たちの叫びなのです。けれども、主イエスは、この私たちの叫びを、私たちに代わってここで叫んでおられるのです。

 

 これは、わたしの叫びです。この叫びは、本当はあなたが神に向かって叫ばなければならない叫びなのです。しかし、主イエスは、私たちの罪を、神に完全に見捨てられるというその場所を、自分で担われることによって、わたしたちをこの罪の支配から解放してくださったのです。ここに、わたしたちの救いの言葉があるのです。私たちの心の叫びが、私たちの心からの願いが、神に訴えられているのです。

 だから、こういうことができるのです。主イエスが、神に完全に見捨てられたがゆえに、わたしたちは神に完全にみすてられることがなくなったのだと。あなたに救いがもたらされたのだと。そのことを、あなたは信じますか。この十字架は、わたしのためであったのだと。わたしたちが、そのことを信じるとき、わたしたちの罪の場所は、私たちから取り除かれ、神との交わりに生きることができるようにされるのです。

 

 

 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

 今、この主の叫び声が世界の人々に響き渡っています。「神よ何故ですか」と叫びたい人に代わって、主イエスは神にそう叫ばれたのです。自分の叫びと主イエスの叫びが一つに重なる時、わたしたちは孤独ではなくなるのです。誰も、私の叫びを聞いてくれないのか、誰も、この苦しみを分かってくれないのかという孤独の場所に、主イエスが一緒にたたれていることを知るのです。

 わたしたちはこの叫びを、主イエスと一緒になって神に叫ぶことができるのです。そして、そこでこそ、わたしたちは主イエスにささえられているのだということを覚えることができるのです。わたしたちの絶望の叫びは、むなしく消えて行くことはないのです。私たちの叫び声は、誰にも理解されない叫びなのだと思う必要はもはやないのです。

 そして、私たちの罪ゆえに神が聞き届けくださらないのではないかという不安からさえも、わたしたちを解き放つのです。神に見捨てられても仕方がない私たちです。自分の身に降りかかってきたことが自分の罪のためだと言われれば、なにも言い返すことのできない私たちです。誰ひとりとして、神の前に、安心して、堂々とたつことのできる者なのいません。神と向かい合って、自分が受け入れられるはずだと確信を持つことなどできもしないのです。

 しかし、わたしたちのすべての罪を、神の前に立つことができないと考えられるすべての原因を主は取り除いてくださったのです。

 

 みなさんが今日の聖書をお読みになって、一つとても気になった聖書の言葉があると思います。主イエスが息を引き取られた後の出来事です。

五十一節から五十三節までをお読みします。

 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。

 どういうことが起こったのかと考えさせられてしまいます。ここだけは理解に苦しむと思う方も少なくありません。一つのことは、神殿の時代が終わりを告げたのだということです。直接神に祈ることができるようになったことでここで記されているのだと説明されます。けれども、その後のことが良く分かりません。死者の復活が起こった。しかも、エルサレムに入って来て、多くの人の前に現れたと書かれています。

 ここで語られていることは、主イエスの死に続いて復活が起こったという記述です。これは何も難しいことを考えなくても良いのです。この時から、人は復活するようになったのだとマタイは告げようとしているのです。

 主イエスも結局死んでしまったではないか。死んでしまうところに希望があるなどということは考えにくいことなのです。けれども、その時から、これまで沈黙を守っておられた神は、人が新しく生きる者とされる道をお開きになったのだということを、マタイなりの文章で語ろうとしているのです。

 

 主イエスの死、それは私たちの罪、私たちを神と引き離してしまう罪、その罪の場所を私たちから取り除くための死でした。それは単に、私たちの苦しみと、神からの断然に寄り添ってくださるという慰めだけでこの十字架の出来事は終わらないのです。十字架で終わるのが、私たちに示された信仰ではありません。ただ、私たちに寄り添うために主イエスは死なれたのではないのです。新しく生きる道があるのです。それが復活です。この復活があるゆえに、主イエスの十字架の絶望の叫びは、絶望の叫びで終わることはないのです。

 墓から出て来る、人の前にもう一度姿を現す。もう終わりと思われていたような、まさに死んだ行き方から解放されて、もう一度、新しい生き方を示すことができるようになることが、ここから始まるのです。

 

 お祈りをいたします。

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