2013 年 1 月 20 日

・説教 ガラテヤ人への手紙5章2ー15節 「愛によって働く信仰」

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2013.1.20

鴨下 直樹

先ほど、詩篇の五十一篇を聞きました。「ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき」との表題がついています。イスラエルの王ダビデが、自分の部下ウリヤの妻バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そして、部下のウリヤを戦争のもっとも激しい所に送り出して殺してしまうという出来事が起こりました。今日流の言葉で言えば不倫です。そして、それが殺人事件に発展したのです。しかし、ダビデは王さまです。自分のしたことをうまく隠すこともできれば、それを攻め立てる人もおりません。この出来事の書かれているサムエル記第二の第十一章、十二章を見てみますと、ダビデはその出来事を隠そうとはしていても、悪びれている様子はありません。けれども、預言者ナタンがダビデを訪ねて来て、このダビデの罪を臆することなく指摘します。その時にダビデが悔い改めた祈りが、この詩篇五十一篇です。
ダビデの時代というのは、罪の赦しのために犠牲を捧げることが律法に定められていました。けれども、ダビデはこの詩篇の中で、自分の罪に目をとめながら神は本当は犠牲を捧げることを願っているのではなく、心から悔い改めることを求めているのではないかと気づきます。それが、この詩篇の祈りの中で現れているのです。

神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

十節。そして、

たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と十六節、十七節にあります。
ダビデはこの詩篇で、自分には母親から生まれた時から罪があるのだとの自覚を告白し、その罪から完全にきよめられるためには全焼のいけにえを捧げることによって罪が赦されるのではなくて、神によって新しい存在にされることだとの結論に達します。パウロの時代から約千年も前の出来事です。

人が罪からきよめられるために必要なことは、律法の規定のとおり全焼のいけにえを捧げることか、それとも、神によってきよめられることか。これが今日のガラテヤ人への手紙の主題です。そして、この詩篇の主題でもあります。
ダビデは罪を犯しました。王としてあろうことか、自分の部下の妻をうばい、その部下を殺してしまったのです。普通の世界であれば、こんな罪を犯してしまった王をそのまま王として立てておくなどということはできません。
私たちの国の首相や政治家たちもそうですけれども、そういうスキャンダルがでないかといつも戦々兢々としています。そういうものが出てきますと、すぐさま首相解任ということが起こるからです。そういう人間は信用するに値しないというわけです。これは、私たちが生きている社会全体がそうです。いたるところに罪がはびこって、誰もがそういう過ちを犯すことは誰もが招致しています。ところが、それが一度公になりますと、みんなでよってたかって攻撃します。そういうことは許されないと言うのです。
ですから、すぐにばれなければいいのだという考え方になってしまって、真剣に罪の問題を考えなくなってしまいます。なぜ、罪を犯してしまうのか。いけないと分かっているのにやめることができないのか。
たとえば、このダビデの犯した姦淫、不倫の問題もそうです。現代でも、結婚しているのに他の異性と性的な関係を持つ、まだ結婚をしていない男女が関係を持つ。世の中では当たり前のこと、ことさらに罪などと言わなくなってしまっているためか、これに対して罪意識を持つことがあまりにも少なくなってしまっています。罪に開き直ってしまうのです。みんなやっていることだという思いが、そのうしろめたさを正当化させてしまうのです。私たちがそこで考えなければならないのは、自分の中にどうすることもできない罪があって、それをどうしたらよいのかということを本気で考えなければならないことです。ダビデはここで、自分の罪を考え抜きました。そして自分が生まれた時から罪が私を支配しているに違いないのだと発見します。そして、もしそうであれば、自分はどうしたらよいのかと真剣に考えたのです。これこそが大切なことです。私たちは大事なことから目を背けてしまって、考えなくすることになれてしまっているのです。問題は、周りがどうみるかではないのです。神がどうみられるかということだということを分かっていなければならないのです。

今日の箇所に、義と認められると言う言葉が何度も出てまいります。ガラテヤ人への手紙のテーマとも言うべき言葉です。義と認められるというのは、罪が赦されるということです。神の前に立つことができる存在になるということです。神の前に顔をあげてたつことができる、それが、義と認められるということです。
ガラテヤの教会の人々は、この時、律法を行なうことで神が義とみとめてくださるのだという考え方に移っていってしまっています。善いことをする。善を行なえば、律法を行なえば神さまは祝福してくださるに違いない、義と認めていただける、神の前に顔を上げることができると考えました。
これは、とても分かりやすいことです。悪いことをすれば、悪いことが起こる。善いことをすれば、善いことが起こる。そう考えることによって、自分が犯した過ちを、善いことをすることによって帳消しにできると考えます。善い事をしていれば安心していられると考えるのです。この世界の宗教と名のつくところのほとんどがこのように考えます。けれども、こう考えることで、自分は解放されたつもりになれるのかもしれませんが、それは自分の罪の問題は解決したと思い定めたとしても、罪から自由になることはできません。いつも不安が残るのです。自分は正しいのだ、義とされているのだと思っても、自分の心の中で言い聞かせることに実はあまり大した意味はないのです。自分はもう正しいのだ、義とされているのだという思いは、人を傷つけることはあっても、人を生かすことになはならないのです。そうしてますます孤立していってしまうのです。それは、自由とはいえないものです。

緒方貞子という国連の人権委員会の日本政府代表を務め、また、国連難民高等弁務官も務められた方がおります。もう随分前ですけれどもテレビにも取り上げられてたことがあります。この方の本を妻が読んでおりまして、つい先日妻の口からこんな言葉がでました。あの緒方貞子さんは、「あなたの判断の基準は何ですか」と尋ねられた時に、「人が生きるようになることです」と答えたというのです。
この方はカトリックの信仰に生きておられる方です。この緒方さんがこの本で「人の命を助けることが私の判断の基準」と言っています。「人が生きるようになることだ」と言い切ることができたのは、まさに聖書の愛に生きているからに他ならないと思いました。自分のことではないのです。自分が立派なことをすれば、自分の問題は解決できるのだなどと考えて、世界の難民の代弁者として生きることはできません。自分のことはもう置いておかなければそんなことはできません。

国の代表が不正を働く、それを悪いことだと指摘することは簡単なことです。あなたの生き方は間違っているんだと言うことは簡単です。正義を振りかざすこと、自分の意見こそが正しいとして、自分は間違ったことはしていない、自分はこんなに立派に生きているのだと言ったところで、それで他の人が生きることができるようになることはありません。自分の正義を、自分の正しさを人に語ることによって人が生きるようになることはありません。なぜ人を裁いてしまうのか、自分の正しさを人に押し付けるのか。誰もが正しいことは何かが分かるのです。こうするのが善いのだということは分かるのです。そして、そこに留まって、自分の正しさのみを主張するというのが、この聖書が語っている律法主義です。もちろん、それは聖書を呼んでいる人だけに当てはまるのではないのです。誰もがこの律法主義に生きているのです。それが、自分が神に受け入れられているということが分からない限り、そこに留まるのです。

五節でパウロは語ります。

私たちは、信仰により、御霊によって、義をいただく望みを熱心に抱いているのです。

と。私たちが義とされる、義しいのだと神に認められるのは、正しいことを一所懸命にすることによってではなくて、信仰によって、御霊によってだとパウロは語ります。これは、詩篇でダビデが語っていることと同じです。どうしたら人間は変わることができるのか。そう問うたダビデは、神の霊が与えられること以外にないではないかとの結論にたどり着きます。自分で一所懸命立派に振舞うことではなくて、沢山の犠牲を神にささげることや、代わりに善いことを沢山してみせることが大事なのではなくて、罪深い人間に神が聖霊を与えて、その人が新しい存在にすること以外にないのです。
義とされるのは自分の力では義とされることはできません。いくら、自分が正しいのだ、正義は私の側にあると主張してみても、そこに正義があるとは言えません。義というのは、自分の中にあるものではなくて、外からの権威によって認められるものだからです。そして、その外の権威というのは神の権威意外にはないのです。それを自分で義とする道があるなどと考えることはできないのです。だから、パウロはここで、割礼をうけることによって、律法を行なうことによって義とされる道があると考えているのだとしたら、それは主イエスの恵みの御業から落ちてしまうことになるのだと注意を呼び掛けているのです。

その時にパウロが語った言葉は非常に強い言葉です。十二節です。

あなたがたをかき乱す者どもは、いっそのこと不具になってしまうほうがよいのです。

とパウロは言いました。礼拝の席で聖書を読む人は少しととまどいを覚えるような言葉です。この「不具」と言う言葉は説明もいりませんけれども、新改訳は欄外の注に「切り取って」とあります。いっそのことそれほど割礼が大事だといいながら教会を惑わすようならばいっそのこと切り取ってしまったほうがいいと言うのです。そういう言葉を口にしないではおられないほど、教会をかきみだすことの問題は大きいとパウロは考えていたのです。

パウロのこの手紙の律法主義に対する忠告は、この十五節で終わっています。これ以降のところは、もう大事なことは分かったはずだとしながら、聖霊によって生きるというのはどういうことかを語ります。しかし、ここでは最後説得を試みているのです。その最後に何を語ったのかと言うと、信仰の自由というのは愛によって突き動かされるものなのだということです。これで説得できると考えたのです。

信仰の自由というのは先週もお話ししましたけれども、このガラテヤ人への手紙の中心的なテーマです。この自由というのは、私たちは自分一人で楽しむことのできるものではありません。美しい立派なお城に一人で生活することを想像していただくとよいと思います。はじめはわくわくしながら楽しそうな生活を思い描けたとしても、一人では不安です。いっしょに楽しむ人がいないというのはさびしい事でもあります。直ぐに退屈になってきます。いくら自由といわれてもそこには喜びはありません。聖書の語る自由というのは一人で成り立つ歩みではありません。共に生きる人がいてはじめて自由があります、喜びがあります。まず、神と共に生きること、そして隣人と共に生きること。これが旧約聖書から聖書が一貫して語り続けていることです。
「自由に召された」と十三節にあります。神が私たちを自由に生きることができるようにと召してくださった、任命してくださったのです。それは、神と生き、人と生きるためです。ですからそれは、人を生かす生き方にどうしてもなるのです。けれども、自由だと言う時に、私たちはそれを自分のために使おうとします。自分が得をすることのために、自分が人よりも善い思いをするために自由を用いようとしてしまいます。人よりも多く儲けたい。人よりも幸せでありたい、人よりも、人よりも。こうなると、人は自分に与えられている自由を、放縦のために使うことになってしまうのです。だからパウロは続けて言うのです。

ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

パウロはその前にも語っています。六節です。

キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。

大事なことは「愛によって働く信仰だけ」なのです。

私たちがここで覚えなければならないのは自分の罪からどのように克服していくことができるかということです。律法主義の答えは、律法を守ることによって、善いことを行なうことによってと答えます。けれども、ここには自分のことしか考えられていません。自分が正しく生きればよいし、他の人も同じように正しく生きるべきだということです。そして、実際には正しく生きることのできない自分を持て余すのです。自分を持て余すだけではありません。他の人に対しても攻撃的になるのです。それは、ますます孤立していく生き方です。
しかし、信仰の歩みはそうではありません。神と和解して、隣人とも和解して生きてゆくのです。自分の罪の問題は、イエス・キリストが罪深い私たちを神が新しい存在に変えてくださると聞くのです。そして、この信仰は私たちを実際に新しい存在に変えられていきます。私のことは神が支えてくださるという安心が、私たちを他の人をも受け入れる愛をうみだしていきます。自分の正しさを人に押し付けるのではなくて、神の愛を、神の愛の御業をその人にも知ってほしいと願うようになる。神が愛しておられることを、赦してくださることを、自分を通して味わってほしいと思うようになる。そうして、その人が生きることができるように関わって行くのです。
それが、ここでパウロが語っている「愛によって働く信仰」です。私たちは信仰によって愛に生きる者へと変えられるのです。そして、この愛がまさに、わたしたちを自由にしてくれるのです。自分自身のことから自由にされて、その人に仕える自由を持つようにされるのです。

お祈りをいたします。

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