2012 年 12 月 9 日

・説教 ガラテヤ人への手紙3章1-14節 「聞くことから始まる信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:26

2012.12.9

鴨下 直樹

第二アドヴェントを迎えました。先ほども賛美をいたしましたが、このアドヴェントに蝋燭を一つづつ灯します。讃美歌21の242番の「主を待ち望むアドヴェント」という賛美は、アドヴェントの日曜を迎える度に蝋燭を一つづつ灯しながら主イエスが来られる意味を思い起こさせます。「主を待ち望むアドヴェント、第二の蝋燭灯そう。主がなされたそのように、互いに助け合おう」。第二アドヴェントのところを今、そのように歌いました。この賛美は、主が何をなさったのかを思いだして、そのように互いに生きようという招きです。私たちはアドヴェントの時だけではありません。いつも主がどのようになさったのか思い起こす必要があります。
もう随分前のことですけれども、いつも説教の学びをしております説教塾というグループでお互いの説教を一つづつ集めて、説教集を出そうということになりました。まだ牧師になったばかりの時でしたけれども、私もその説教集に名前を連ねさせてもらいました。その説教集に説教塾の指導をしてくださっております加藤常昭先生が素敵なタイトルをつけてくださいました。「思い起こせキリストの真実を」というタイトルです。「キリストが何をしてくださったのかを、この説教によって思い起こそうではないか」と訴えかけているようで、よい題をつけてくださったと思っています。

今日の聖書はまさに、パウロはキリストの何を聞いて来たのかとガラテヤの教会の人々に語りかけているところです。
一節では「ああ、愚かなガラテヤ人。」と自分が築き上げた教会の人々に向かって、ついにパウロは「あなたがたは何と愚かなのだ」、「馬鹿者なのか」と語っています。いくらパウロ先生でも、言っていいことと悪いことがあると言い返したくなる人があったかもしれません。直接、相手を馬鹿者、愚か者と叱咤することはあまりいいことだとは言えません。けれども、パウロはそう言わずにはいられないほど、ガラテヤの教会の人々に語りかけたいことがあったのです。
それは続く二節にありますけれども、

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

とあります。
この「御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。信仰をもって聞いたからですか。」というこの「信仰をもって聞いた」という言葉ですが、翻訳をする人によっては「信仰の説教を聞いたからですか」と訳しています。実際、そのように翻訳することも可能な言葉です。この「御霊を受けた」というのも、簡単に言いますと、「洗礼を受けたのは」と言ってもいいのです。主イエスを信じることと、洗礼を受けることは一つです。ですから、あなたがたが主イエスを信じて洗礼を受けたのは、説教を聞いて信仰に導かれたからですか。それとも、律法を行なったからですか。それがパウロの一番聞きたいことだったのです。
「私の語る説教を聞いて信仰をもったのではなかったか。それとも、ユダヤ人たちのように律法を守ろうとして、そこから信仰に至ったとでもいうのか」という問いです。もちろん、答えは明らかであったはずです。

今日、礼拝後に役員会が行なわれます。今朝は、今年のクリスマス礼拝を23日の礼拝に行ないますけれども、そこで洗礼を受ける予定になっている方々の証を聞くときをもつことになっています。それは、どのようにして主イエスを信じるようになったのかということをそこで聞くのです。毎回のことですけれども、この時は本当に役員も私も大変喜ばしい気持ちになります。神がどのようにその人を信仰に導かれたのかを聞くことは本当に楽しいことだからです。
そこで、「私は聖書を全部読んで、完全に礼拝をまもって、献金もちゃんとするようになったので救われました。」などと言う方は一人もありません。礼拝を通して、あるいはキリスト者との交わりを通して、あるいは、信仰の学びをしていくなかで主イエスとお会いして、私の罪はこの方によって赦されたのだという経験をするのです。そして、それを聞くときに、私たちは主にみなをあがめるのです。
それは、キリストがその方に真実をなさったことを聞くときです。そして、主イエスを信じる時に、主の御霊がその人の中に確かに働いておられることを知るのです。そして、洗礼を受けるのです。主イエスを信じて洗礼を受けるというのは、立派なキリスト者になれたということではありません。立派に聖書の戒めを守ることができるようになったからではないのです。そうではなくて、信じたことによって、神が、それでよいと認めてくださったということなのです。

パウロは四節でこう言っています。

あなたがたがあれほどのことを経験をしたのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはだいでしょうが。

ガラテヤの人がどれほどの経験をしたのかここに直接書かれてはいません。おそらく、一節ですでに述べられている「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに」という言葉がこのことを表していると理解してよいと思います。キリストの十字架との出会い、それは「あれほどの経験」ということができるほどの経験だということです。
これはパウロにとってまさに「あれほどの経験」でした。パウロはキリストと出会ったのです。そして、ガラテヤの教会の人々もまた、パウロの語る福音を聞いて、キリストと出会ったのです。

パウロは二節でも、五節でも「それとも、あなたがたが信仰をもって聞いたからですか。」と問いかけています。説教を聞くことが、キリストと出会うことなのだとパウロは言いたいのです。私が説教塾で加藤常明先生の指導のもとで、仲間の牧師たちと学んでいるのはまさにそのことです。御言葉が語られると、そこで出来事が起こるということを信じて語るために牧師は御言葉を語ります。説教の準備をします。ただ、聖書を説明して、それで終わりということではないのです。それは、十字架につけられたキリストが示されることと言い換えることができるかもしれません。
この説教塾を指導しておられる加藤常明先生の友人で、ルドルフ・ボーレンというドイツの説教者がおります。残念ながら少し前に亡くなったのですが、このボーレン先生も非常にすぐれた説教者です。この先生が信仰の学びをするのに、まず最初にカテキズムの教育から始めると言うのです。カテキズムというのは、教理問答などと言います。たとえば宗教改革者のカルヴァンの流れをくむ教会ではハイデルベルク信仰問答というものがあります。ルターの流れの教会であればルターの書いた大教理問答とか小教理問答とよばれるカテキズムがあります。問答形式で信仰のことを教えるのです。ボーレン先生は、信仰の学びというのはこれを暗記することから始めるというのです。何故かというと、救いというのは自分の経験からくるのではなくて、外からくるからだと説明します。
今日の聖書の言葉でいえば「信仰をもって聞く」、あるいは「信仰の説教を聞く」ところからはじまるのです。私たちはひょっとすると、信仰というのは自分の中に生まれてくるものと考えているかもしれません。けれども、ボーレン先生はそうではなくて、信仰は外からくるのだというのです。だから、その信仰の言葉を覚えることを通して、自分の外ならの言葉を聞いて、それが自分の内側からのものになるのを待つということが大切なのです。

ガラテヤ人の手紙の三章二十三節、ここは来週の説教箇所ですけれども、少し先のところからお話ししますと、ここに「信仰が現れる」という言葉がでてきます。これは「信仰が来る」と訳してもいい言葉です。語られた言葉、キリストの言葉によって信仰が与えられるのだとパウロはここで語っているのです。
そして、そのひとつの例としてアブラハムのことを記しています。「アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。」と六節になります。これは創世記十五章六節の引用です。この時、神はアブラハムの子孫の約束を与えられました。アブラハムには子どものない時です。けれども、「あなたの子孫は天の星のようになる」と語られた時に、アブラハムはその神の言葉を信じました。そして、この信仰を義と認めたのだと創世記にすでに記されているのです。
信仰とは語られた神の言葉を信じることです。外からの言葉を自らのものとする時に、そこに神の御業が起こるのです。クリスマスの出来事はまさにその現れでした。天使によって語られた言葉を信じて受け入れたマリアは、その胎に神の御子を宿したのです。神が旧約聖書の中で何度も語られたことが、まさに出来事となったのがクリスマスでした。

昨日、教会でわくわくキッズのクリスマス会が行なわれました。小さな子どもたちの集まりです。そこで、妻が三本の木という絵本からお話をしました。少しこの絵本のことを紹介したいと思います。
小高い丘の上に三本の小さな木がありました。それぞれ夢を持っていました。一つ目の木は、将来宝物を入れる宝箱になりたいと願っていました。二つ目の木は、船になって王さまをお乗せして冒険に出たいと考えていました。三本目の木は、ここでそのまますくすく育って、大きな木になってみんなにあこがれられるような木になりたいと夢見ていました。そこに、三人の木こりがやって来て、それぞれの木を切り倒していきました。
最初の木は宝箱になりたかったのですが、飼い葉おけになります。宝箱にはなれませんでしたが、クリスマスの日にイエス様をおいれする飼い葉おけになったのでした。二番目の木は舟になりました。王さまをおのせして冒険はできず、毎日魚ばかりとっている船になったのでした。ところがある日暴風が起こります。その時お乗せしてイエス様は嵐をしずめてしまいました。こうして船は自分はこの世界の真の王であられる方をお乗せしたことを知ったのでした。最後の木は、残念ながら切られてしまいました。がっかりしていると、その木は十字架にされてしまいます。苦しそうに痛めつけられたイエス様は、その十字架にかけられてしまいました。けれども、この十字架はやがて、多くの人からあがめられるイエス様の十字架になったのでした。
この絵本は三本の木を通してイエス様の生涯を印象付けてくれます。それと同時にこの信仰をよく説明してくれています。信仰は自分の中からでてくるのではなくて、外から起こるのです。自分の願いは違っていても、自分の願っている以上のものをこの三本の木は得たのです。こうして、神が最善をおこなってくださることをこの絵本は教えてくれます。まさに、信仰は外からくることを証している絵本だと言えます。

私たちは自分の中からでてくる力や、努力によって、信仰に生きることはできません。私たちは、私たちを変えることのおできになる外からの言葉、神の言葉によって生きる時に、アブラハムと同じように、神は義としてくださるのです。
パウロはここで「ああ愚かなガラテヤ人」と嘆かなくてはならないほど、この教会の人々は大切なことを見失ってしまいました。教会生活をしていく中で、「信じるだけでは不十分だ、もっと行ないに現れるような信仰が大切だ」というような言葉が説得力を持っているように考えてしまったのです。これは人ごとではありません。教会の中に常にこの危険が入り込んでくるのです。
パウロはこれを「のろい」という言葉で表現しているのは興味深いことです。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。」と十節で言っています。福音を聞いて、主イエスと出会って洗礼を受けたのです。それを神は喜んでくださっていたのに、それだけでは不十分であるという「律法主義」が入り込んで来てしまったのです。しかし、キリストはこの呪いから私たちを解き放つために、クリスマスに飼い葉おけに生まれ、十字架にかけられ、よみがえってくださったのです。この福音に留まることが大切です。礼拝に集い、説教を聞く。このあたりまえのようなことですが、そこに留まることが大切だということなのです。これは、いつの時でも忘れられてはならない私たちの信仰の土台なのです。

お祈りをいたします。

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