2013 年 2 月 24 日

・説教 詩篇51篇 「清き心をつくり給え」

Filed under: 礼拝説教 — susumu @ 10:30

2013.2.24

鴨下 直樹

 ときどきこんな想像をしてみることがあります。神様は天で人々の祈りの言葉をどのように聞いておられるのだろうかと。私たちの祈りのほとんどは、神への願い求めだろうと想像します。あるいは嘆きの訴えも多いことでしょう。神はいつも天で人々の祈りに耳を傾けながら、その祈りのほとんどは、「こうしてほしいのだ!」という激しい訴えを聞いておられるのではないかと思うのです。

 けれども少し視点を変えて考えてみたいと思うのですが、もし私たちがそういう言葉ばかりを聞き続けていたらどうなるのでしょうか。家族が「こうしてほしい!」と訴え、職場で同じ訴えが繰り返され、教会でも同じ言葉が繰り返される。「ああしてほしいのだ、こうして欲しかったのだ!」と、もし私たちがそのような言葉を聞き続けているならば、当然のことですが、気がめいってしまうに違いないのです。

 神は天で人々の祈りを聴きながら、それそこ毎日膨大な人々の祈りの姿をとった訴えの言葉を聞きながら、このお方はそれをどうなさるのだろうか。そんなことをふと、考えるのです。

 

 キェルケゴールというデンマークの思想家の書いた「神への思い」という小さな祈りの本があります。この本にはキェルケゴールの祈りが納められているのです。私が神学生の時に、祈りについてあれこれと思い悩んでいた時にこの本と出合いまして、私は衝撃をうけました。キェルケゴールという人は神学の学びをした人でしたけれども、牧師にはならずに、著作活動をした人です。常に、神を意識し続けてきた思想家です。心の繊細な人のようですけれども、この本の祈りの中でびっくりするような祈りばかりが書かれていました。例えばこんな祈りがあります。

神さま。あなたは私たち人間についてただただ煩わしさを重ねられるばかりでしょう。あなたの働きとさまざまなお働きを思って正しく感謝しようと考え始めるのですが、悲しいことに私はいつも散漫で、色々なことを考え始めてしまって、結局は、あなたに感謝できるようにならせてください、との祈りに終わってしまうのです。しかし、そうして、感謝への努力の手伝いまでさせられたことが、かえって余計な心配の種になるかもしれません。ですからそれだけはご免だと、言ってくださってもいいと思います。ああ、罪が私に力を振う時、私を助けてください。私を慰めてください、と祈ります。けれども、あなたに対して罪を犯しているのに、そのためにあなたに慰めをもとめるとは何という恥知らずでしょう。

 少し長いのですが、言葉を簡単にして紹介しました。意味はお分かり頂けると思います。神の前に人は何という自分勝手な祈りをしているのだろうかと気づきながらも祈るほかないというその葛藤がよくお分かりいただけるのではないでしょうか。私はそれまであまり良く考えないまま祈っていたのですけれども、ここに記されていたキェルケゴールの祈りに衝撃を受けたのです。「私たちは祈りにおいてこそ罪を犯す」と誰かが言いました。キェルケゴールの祈りは、神が祈りをどう聞かれるのか考えて祈っているのかということを、私に気づかせてくれたのです。

 

 そういう自分の願いを神に押し付けるばかりの祈りを神はいつも聞いておられるのだとしたら、今朝のダビデの祈り「神よ。私にきよい心を造り給え」との祈りはどのように神のところで響いたのだろうかと思うのです。多くの言葉が、時間が過ぎ去るごとに忘れさられる言葉であるとすれば、この祈りの言葉は、この祈りの言葉こそは天においても深く刻み込まれる言葉であったに違いないのです。

 

 この祈りはダビデの祈りです。この詩篇五十一篇は、ダビデの悔い改めの詩篇の一つです。今、祈祷会でダビデの生涯と詩篇というテーマで学んでおりますから、多くの方はそこですでによく学んだ聖書の個所です。けれども、今朝、もう一度この御言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 

 先ほど、この詩篇の背景になったサムエル記第二の第十二章を聞きました。預言者ナタンがダビデのもとを訪ねて来たくだりです。少しこの出来ごとの説明をする必要があるでしょうか。ダビデは王としてようやくエルサレムで落ち着いた生活をおくれるようになっていました。戦いにも自分はでかけず、城にとどまっていました。その時に、美しい女性が水浴びをしているのが目にとまり、このバテ・シェバを自分のところに呼んで関係をもってしまいます。そしてバテ・シェバに子どもが出来たことが分かると、戦場から夫のウリヤを呼びもどして証拠の隠滅を図るのですが、ウリヤは真面目な人で妻のところには戻らないで、兵士たち同じように外で寝るという徹底ぶりです。それで、軍団長のヨアブに手紙を送って、戦場の一番激しい所におくりだして、夫のウリヤを殺してしまいます。

 預言者ナタンがそのことをダビデに指摘したのが、先ほどの十二章です。ナタンに指摘されたダビデは自分の罪に気づいて悔い改めます。その時に祈った祈りがこの詩篇五十一篇であると、表題に書かれているのです。

 

 ダビデが罪を犯した時、ダビデは必死にその罪を隠そうとします。あなたの隣人のものを欲しがってはならない。盗んではならない。姦淫してはならない。殺してはならない。偽りの証言をしてはならない。そのように十戒の後半に記されている戒めを、ダビデはここでことごとく破ったと言ってもいいのです。罪というのは、いつもそうですけれども、初めは小さなことから始まるのです。このくらいはいいかなということが、どんどんと大きくなってしまって、自分ではどうすることもできないほどのものに広がっていくのです。

 ダビデは祈ります。

「神よ。御恵みによって私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。」

一節です。新共同訳聖書では標題も聖書の本文だからということで、一節と数えていますので、少し節がずれておりまして、三節になっていますが、新共同訳ではこう訳されています。

「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。」

新共同訳聖書では「憐れんでください。憐れんでください」という言葉が続きます。ダビデはこの祈りにおいて、自分は神の憐れみを求めなければ生きることができないのだと、冒頭に祈っています。

 この「憐れんでください」と言うことは、ラテン語で「キリエ、エレイソン」と言います。みなさんも音楽を聞かれる方は、ミサ曲と呼ばれるものがありますけれども、その最初の部分にかならずこの「キリエ」と呼ばれる部分があることを御存知だと思います。礼拝の開始の部分で、主の憐れみを求めるのです。私たちの礼拝の生活は、この神の憐れみをもとめるところからはじまるという考えが、礼拝の基本的な考え方として理解されるようになりました。それで、ミサ曲、簡単に言ってしまうと、礼拝の音楽はこのように主の憐れみをもとめるところから始められたのです。

 神への祈りが、神の憐れみを求めるところから始まるというのは、私たちにとって当たり前のことではありません。私たちの祈りの多くが、まず願い求めからはじまり、願い求めに終わってしまう。あるいは、神への訴えにはじまって、訴えに終わる。または、祈っているうちにあれこれと色々なことに思いが及んで、結局何を祈っているのかわからなくなるなどという経験をするのも、私たちの祈りが、神に向かわないで、自分の心をみつめてしまっているために起こることだという、一つのあらわれかも知れません。私たちは罪を自覚する時というのはどうしても自分の罪にばかりを見つめてしまうところがあるのです。

 

 教会の礼拝で、キリエ・エレイソンと告白をするという習慣は私たちにはありませんけれども、私たちの礼拝の度に、神の御前に出る度に、自分の罪を自覚しつつ、神の憐れみのゆえに、神の前に立つことができるということを、よく心にとめた方がよいと思います。

 キリエ・エレイソンというのは、どちらかというカトリックの教会の中に残っている習慣ですけれども、プロテスタント教会でも、宗教改革者のカルヴァンやルターといった人はこの悔い改めを非常に大事にした人です。

 2017年10月31日が来ますと、宗教改革記念五百年になります。昨年の秋にドイツに尋ねた時に、ルターの宗教改革をした町、ヴィッテンベルグに行きました時に、すでに教会にはこのキャンペーンのポスターが貼られていました。プロテスタント教会の大きな集会を計画しているようです。日本ではまだ何かそういった働きがあることは耳にしておりませんが、何かやるだろうと期待をしております。

 この宗教改革者ルターはヴィッテンベルグの大学教会の扉に「九十五カ条の提題」と後に呼ばれるようにあった九十五の訴えを貼り付けました。これが1517年の10月31日です。ルターはもちろん、はじめから宗教改革をしようなどと考えたわけではありません。自分が聖書を学んでおかしいと思ったことを訴えとして貼りだしたのです。ところが、それが問題となって、当時のローマ・カトリック教会から追われるようになります。その冒頭はこのような言葉ではじまります。

 

 わたしたちの主であり、師であるイエス・キリストが「悔い改めよ」と言われた時、それは信じる者の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。

 

 宗教改革というのは、悔い改めるべきことを悔い改めるのだというところから始まったと言ってもいいわけです。ルターは後で「日ごとの悔い改め」と言いました。毎日悔い改めをすることが大切なのだと言ったのです。

 ダビデは預言者ナタンに指摘されて、自分がどれほど罪深い人間であるかに気づきます。指摘されないと分からなかったのです。王のすることに、とやかくいう人間はおりません。王がしたことは、誰もが認めるしかない。そういうことにだんだんとダビデ自身慣れてきてしまっていたのかもしれません。ところが、神はそれを見過ごしにされる方ではありません。それで、ナタンを使わして、ダビデの罪を指摘したのです。

 問題はそこで、ダビデがどのように悔い改めたかです。その時代はまだ神殿が造られる前、契約の箱は幕屋とよばれるテントの中に納められていました。そして、人々は罪を犯すと、祭司のところに行き、犠牲のいけにえをささげることで、罪の赦しを宣言されたのです。それは、人の罪が自分の家畜の最良のものを殺さなければならないほど大きいのだということを知らせるためでした。けれども、いつのまにかその犠牲をささげる礼拝というのは年間行事となっていきます。毎年、過ぎ越しの祭りの時にエルサレムを訪れて、そこで犠牲をささげて一年の罪を赦していただく。もうそれは機械的な作業です。けれども、それで赦されるとされていたし、誰もそれを疑わなかった。そんな時代です。

 

 ダビデはそこでこう考えます。十七節。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

 神が求めておられるのは、犠牲をささげることではない。どれほど羊を殺したとしても、自分が罪を繰り返しつづけていれば、それは意味のないことなのではないか。それよりも、自分が本当に心砕かれて、神の御前に悔い改めるかどうかなのではないか。そう考えたのです。「砕かれた」というのは「打ちひしがれた」とか「踏みにじられた」とすることもできる言葉です。自分の罪に押しつぶされたのです。自分の醜さに気づいた。その時、一体ひとはそこからどんな希望を見出すことができるというのでしょうか。ダビデはこの詩篇で、罪の性質はどこから来たのかを考えます。

 五節です。

「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」

 ダビデはここで自分は生まれた時から罪びととして生まれて来たのだと告白します。今日でもそうですけれども、多くの人はそのようには考えません。子どもは無垢だ。罪がないなどと言います。うちにまだ一歳の子どもがおりますが、子どもの子育ての雑誌などに目を通していますと、いろんな記事が目にとまります。先日目にとまった記事は、子どもは七カ月から嘘をつくという記事です。すぐに思い当たることがありました。

 我が家の台所に子どもが入れないように柵がしてあります。犬はしつければそこには入らないと教えることはできますけれども、赤ちゃんはそうはいきません。犬より成長が遅いし、理解力がない。犬は六カ月で大人ですが、人間は七カ月でようやく嘘を覚える程度です。ある時、その台所の柵に手を伸ばして、中に入ろうとします。もちろん入れません。ところが、何とか入ろうともがいているうちに手が抜けなくなってしまいまして、泣きはじめてしまったのです。子どもが泣いているのでようやく気付いたのですが、私たちはびっくりして大慌てで娘のところに走っていって、「痛かったね。大丈夫だった」と一生懸命介抱してやったのです。ところが、よほど、その時親切にされたのが嬉しかったのか、その後から、わざと手を突っ込んで泣くのです。周りをきょろきょろしながらそこに手を入れる。痛いはずはないのは良く分かるのですが、そこで泣きはじめるのです。もう分かってしまっていると滑稽な姿ですが、まだ一歳で嘘を、泣き落としを演じている。

 話が違う方向に進んでしまいそうですが、ダビデは自分の罪はいつから始まったのだろうかとここで考えたのかどうか分かりませんが、自分の罪の性質というのは生まれ持って出た性質なのだと言ったのです。そうすると、そういう罪の性質というのは、犠牲をささげればなくなるというものではありません。人間はそのもとの罪の性質そのものがなくならないかぎり、どれだけ悔い改めても仕方がないではないかと気づいたのです。

 

 罪に気づいた時に、そこでついしてしまうのは、いつまでも自分の罪を見つめるということです。それはちょうどこんなことに例えることができるかもしれません。結婚式の披露宴に呼ばれました。そこには素敵な食事が並んでいます。みんなが思い思いに、会場の真ん中に並べられた料理を取って来ては楽しみます。自分も何を食べようかと、色々な料理をお皿に盛りつけているときに、つい夢中になってしまって、前の人にぶつかってしまって、その料理が自分の服にかかってしまいます。奇麗なドレスにその食べ物のソースがしっかりしみついてしまいます。そうなると、もうパーティどころではありません。急いでトイレに駆け込んでハンカチで洗い落としても、シミが気になります。人がまたそのシミをじろじろ見ているのではないかと気になりだす。もう食事を取りに行く気持ちもうせてしまいます。ただただ、悲しい思いになって、その結婚式はもう楽しくも嬉しくもなくなってしまうのです。

 そのように、自分の罪ばかり気にとめていると、自分がどこに来ているのかをすっかり忘れてしまって、ただ、悲しみに支配されています。けれども、ダビデはそうしなかったのです。この結婚式を本当に楽しむには、すっかり自分が着替えてしまうしかないと気づいた。そのままの自分ではなくて、もう一度新しい自分にならなければならないのだと気づいたのです。

 

 この詩篇はそういうダビデの罪にどうすればよいかという祈りなのです。

 六節と七節。

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください … 私を洗ってください。そうすれば、私は雪のように白くなりましょう」。

 ここでダビデは神が私を清めてくださるならば、私は清くなるでしょうと言っています。ダビデはここで自分がどれほど悔い改めても、神が清めてくださらないなら、自分の中にある罪はなくならないということに気づきます。そして、こう祈るのです。

 「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください」

と。

 この時代に、一体だれがこのように祈った人がいたことでしょう。神を信じて生きることがどういうことなのかを、ダビデはこの言葉で端的に言い表したのです。

 

 ダビデは罪を犯した時に、自分の罪ばかりを見つめることを止めました。そして、神が自分を新しく造り変えてくださること以外に、自分には本当の救いはないのだと祈ったのです。それはまさに新約聖書で、主イエス・キリストがお示しになられたことでした。主イエスがこられる千年も前に、もうこのような信仰を告白したのがダビデだったのです。

 主イエス・キリストが私たちに新しい霊をくださり、私たちを新しくしてくださる。新しい創造が、主イエス・キリストによって私たちに起こるのです。それは、もう自分の罪を見つめ続けなくてもよいということです。大胆に、悔い改めて、主にまた新しくされることを期待することができるのです。

 

 あの日、天にこの祈りが届いた時、きっと天ではどよめきが起こったに違いないのです。いつも、天で聞きなれた人々の自分勝手な祈りの言葉の中で、まるで一粒の宝石をみつけだしたような輝きが、この祈りにはあったに違いないのです。そして、この祈りは、この祈りこそが、私たちの祈りとなるべきいのりです。

 神の御前に、大胆に祈っていただきたいのです。罪を悔い改めつつ、神よ、清き心をつくりたまえと。

 

 お祈りをいたします。

 

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