2013 年 5 月 5 日

・説教 詩篇66篇20節 「祈る心を整えて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:31

2013.5.5

鴨下 直樹

復活節の第六主日、この日は「ロガーテ」という名前がつけられています。「祈れ」と言われる日です。しかも、今日は五月五日子どもの日です。子どもの日に祈れという主の日を迎えているのですけれども、考えてみますと、祈りは子どもでもできる簡単なことと言うこともできます。
もう今からずいぶん前のことで私が神学生をしていた頃、「かみさまへのてがみ」という本が詩人の谷川俊太郎さんの訳で出版されました。これはもともとはアメリカのものです。子どもたちが神さまに宛てて書いた手紙が紹介されており、そこに谷川さんの翻訳が添えられているものです。
子どもが神さまへ宛てて書いた手紙です。最初はこんな手紙で始まります。「かみさま、ぼくも なかまに いれてよ。 あなたのともだち ハービーより」
紹介したい内容が沢山ありますが、少しだけ紹介します。

「かみさま あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの? それとも あれは 何かの まちがいですか?  ノーマ」
「かみさま ちかごろ あたらしい どうぶつを はつめいしないのは なぜなの? いまいるのは ふるいの ばっかりだよ。  ジョニィ」
「かみさま どうせ わたしの のぞみが わかってるんなら どうして おいのりも しなきゃならないの? でも あなたが 気分いいなら わたし するわよ。  スー」

素朴な神さまへの疑問を手紙につづっているのが良く分かると思います。神さまへの手紙というのは、そのまま神さまへの祈りと言い換えてもいいと思いますが、不思議なものです。手紙にしてみると、具体的になるようです。私たちも祈る時に、一度神に書いてみるといいのかもしれません。まさに、神さまに宛てて書く手紙のようにです。子どものように素直な気持ちで、どんなことでも祈ることができる。それが、祈りの素晴らしさでもあります。

この朝は、祈るということについて、一緒に少し考えてみたいと思います。もちろん、祈りというのは、私たちの信仰の歩みのもっとも大切な部分ですから、本当なら何度かに分けて学んだほうがいい大きなテーマですが、今日は、その中でももっとも中心的なことに心をとめてみたいと思います。

その一つは、まず祈るということです。祈らなければ祈りがどういうものなのか分かりません。子どものように素朴に祈ったらいいのです。祈らなければ、祈りが何かということも分かりません。そういう意味でも、ぜひ、子どものように、まずは祈ってみていただきたいと思います。

そのようにして祈ってみると、直ぐに分かることがあります。この「かみさまへのてがみ」を読んでいても気づくことです。この本の最後に谷川さんのあとがきがあります。そこに「どうやら、このかみさまは主としてキリスト教の神らしく思われますが、それがキリスト者でない私たちにとって理解のさまたげになることはないでしょう」と書かれています。誰が読んでもすぐ分かるのです。これはキリスト教の神だと。私なんかは、その時の神さまのイメージにどんな違いがあるのかと谷川さんに聞いてみたい気がしますが、おそらくキリスト教が前提になっているということを言いたいのだろうと思います。
どうも、キリスト教の神さまというのはあるイメージがあるということなのでしょう。それは例えば、この世界を創造された方であるということが、この子どもたちの手紙を見ていても、非常に多くの子どもたちがもっているイメージの中にふくまれていることが分かります。
祈りというのは、ここにも表されているようにどのような神さまに祈っているかということがまず、祈りの基本です。どのような神さまに祈っているのかも分からないまま祈るなどということは本当はありえないからです。その意味では祈りというのは、子どもなら子どもなりの神さまのイメージで祈るということです。そして、神さまのことが分かってくれば分かってくるほど、祈りの内容が変わってくることになります。

ですから、この日が「祈れ」と呼ばれている主の日であっても、私たちは、一体誰に祈るのか、ということが分かっていなければ、正しく祈ることはできないのです。私たちが祈るお方は、復活にしめされた、いのちを支配しておられる神にということになるかもしれません。あるいは、罪を赦して下さるお方に、と言ってもいいし、私たちを愛してくださるお方とも言えます。私たちはそのように、どのようなお方に祈っているかを正しく知ることによって、その祈りの内容まで決まってくるのです。

今日私たちに与えられている詩篇は第六十六篇です。特に最後の二十節がこのロガーテと言われる主の日の中心的なみことばですが、この詩篇全体を見ても、ひたすら祈られている内容のほとんどは、神が何をしてくださったかです。神がどのような御業をなさったかを告白することが、そのまま神への賛美であり、信仰の告白となっています。
私たちが祈れと命令されても、そこで少しひるんでしまうとしたら、それは、何を祈っていいか良く分からないからでしょう。私たちの祈りの多くは、願い事をすることだと考えてしまいがちです。そして、願いごとであれば、どれだけでも並べ立てることができるのかもしれません。
けれども、たとえば車を直すことの得意でない人に、一生懸命車を直してほしいと頼み続けることに意味はありません。相手のことを知りもしないで、誰でもいいから、自分の願いを聞いてほしいというようなことだとすれば、それは相手に対して失礼なことでしょう。けれども、私たちは祈りにおいて、自分の願いごとにばかり心を向けると、同じような過ちを犯してしまうことに気をつける必要があります。誰に祈るかということが大切なように、何を祈るかということも同じように大切です。この二つがしっかりとかみ合っていないと、祈りは祈りにならないのです。

そこで、祈りにおいてもう一つ必要なことは、自分のことを正しく知ることです。自分のことが分かれば、何を祈るべきかが分かるからです。「誰に」の次は「何を」ということです。あるいは、神を知ることと、自分を知ることと言い換えることもできます。自分のことを知るなどということは当たり前のことのように思うかもしれませんが、私たちよりも、私たちをお造りになられたお方のほうが、よほど私たちのことを良く知っておられます。
今日の箇所の十八節にこんな言葉があります。

もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞きいれてくださらない。

こういう聖書の言葉はちょっと気をつけて読む必要のある言葉です。私たちの心が完全に正しいのであれば、神は祈りに耳を傾けてくださる。その願いを叶えてくださるという意味だと思いこんでしまうからです。
この言葉は、この聖書のように読む読み方と、別の翻訳として「私が見て見ると、不義は私の心にあった。それで私は思ったのだ。主は聞いて下さらない、と」という翻訳も可能な言葉です。もちろん、どちらであるかはっきりしないのですが、いずれにしてもはっきりしていることは、この箇所は、祈りをする時に自己吟味をしたという意味で理解するほうがいいように思います。

完全な心であれば神は祈りに聞いてくださるであろうというような意味では少なくても書かれていないのです。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞きいれてくださらない。」というのは、何を祈っているか、そのことが自分で正しく理解されていないなら、その祈りは聞かれることはないということです。

時折、こんな質問を受けることがあります。「もし、少しも疑わずに信じて祈れば、かならず、その祈りは叶えられるのでしょうか。」
誰でも、同じようなことを考えることがあるのかもしれません。何となく、その答えは分かっているのです。たぶん、ダメなのだろうと。けれども、その理由が良く分かっていないことが多いようです。自分の祈りは完璧ではないからだと考えてしまったり、神さまは私のことを愛しておられないから祈りが聞かれないのだと考えてしまうのだとしたら、それはとても残念なことです。
たとえば、100%信じていればその祈りは聞かれるけれども、99%しか信じていないと祈りは聞かれないというように理解してしまう。もうこうなると祈りではありません。相手のことも正しく知らず、自分のことも正しく見えていないからです。自分の願い事をかなえるための神であるとすれば、その神は人間に仕えるしもべにすぎません。
私たちは神さまのことを知るようになっていくと、神が私たちに何を願っておられるのかが分かってきます。それは、私たちがどんな祈りもかなえられて、私たちがこの世で、他の何ものでもない、特別な人生を歩むようになること、ではないのです。そうではなくて、神の御前に立ちながら、主の慈しみに支えられながら、このお方の愛に応えて神を喜んでいきることです。
私たちは、祈りにおいて残念ながら本当に自分勝手な姿を、特に、欲深い、罪人としての姿をさらしてしまいやすいのです。けれども、私たちは神が私たちに何を望んでおられるかを知る時に、私たちは何を祈るべきかを正しく知ることができるようになるのです。それは、他の人のことを祈ることであったり、神に感謝したくなったり、賛美を捧げたくなったりすることが分かってくるのです。今、私たちが何を祈ったらいいのかが見えてくるのです。
ですから、祈りは子どもでも素直に祈ることのできる素朴さと同時に、自分の罪をさらけ出してしまいやすい難しさがあるということができます。

しかし、私たちが祈る時、難しい事を考える必要はありません。私たちに慈しみのまなざしを注ぎ、私たちを愛し、私たちに対して誠実である神さまのことが分かってくれば、自然に祈る言葉は出てきます。神さまのことを良く知れば知るほど、祈りは自由になるのです。
まだ、あまり深く知りあってもいない人と長く話したり、親しく話すことは難しいものですが、その人に好意を寄せて、信頼が深まれば深まるほど、言葉は自由にでてくるものです。そのように、祈りは、神との生きた交わりの中で生まれてくる、神との豊かな語り合いです。ですから、何も祈れなどと命令されなくたっていいものだということもできるかもしれません。
面白い事に、古代の教会では、このロガーテと言われる主の日から三日間は祈祷日として定めたのだそうです。集中して祈ろうというわけです。三日間も祈ることがないというのではなくて、じっくりこの間に神さまと向き合う時間を作ろうということでしょう。
古代の教会では、神さまと、膝と膝を突き合わせてみる時間をとったのです。それは、とても有効な方法だったと思います。祈りに心を注ぎながら、神さまのことを知り、自分と向き合う時間をたっぷりとったのです。そうして、心おきなく祈りをしたのです。

幸い、明日も祝日です。この時にゆっくりと三日間とはいかなくても、少しいつもより祈りに時間をかけてみてはいかがでしょうか。復活の主を思いながら、主が私たちに何をもたらしてくださったのかをじっくりと考えながら、祈りの豊かさを味わってみていただきたいと思います。

お祈りをいたします。

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