2013 年 6 月 9 日

・説教 ピリピ人への手紙1章3-11節 「すぐれたものを見分ける愛」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:47

2013.6.9

鴨下 直樹

先週の月曜日から水曜日にかけJEA、日本福音同盟、一般には福音派と言われる教会の総会が神戸で行なわれ、これに私は始めて出席いたしました。大変豊かな時間でした。と言いますのは、総会の間に礼拝の時間やシンポジウム、講演が入れられていまして、そのために朝から夜まで一日中会場にいるのですけれども、苦痛に感じないほど豊かな発題がそこでなされました。
総会のシンポジウムで東日本大震災の取り組みの中から見えきたことがシンポジウムで取り上げられました。四人の発題者の中で最後に発題された福音伝道教団の鈴木真先生が、震災のボランティアの活動としてイザヤ58ネットというネットワークを作って支援活動しておられるのだそうですけれども、その活動の中から見えてきたことをお話し下さいました。これは、非常に興味深い内容の発題でした。少し簡単に説明してみたいと思いますが、色々な先生の話が頭の中にごちゃごちゃになっていますので、私が全体として聴き取ったことということになると思いますが、それはお許し頂きたいと思います。
今回の震災で多くの海岸沿いの地域に甚大な被害がでました。そのような地域を支援していく中で見えてきたことがあるというのです。それは「講」という名前の共同体システムなんだそうです。その講というのは、その地域に住んでいる人たちが、昔からある、お互いにお互いの生活を支え合っていくというシステムのことです。その講の構成メンバーのことを「仲間」と言うんだそうです。この仲間というのはそこから来た言葉だということでした。そして、その講という地域の人との関わりの中でもより強い絆で結ばれ立場が上位に来る人は、その地域で結婚をするということなのだそうです。そうして、何代にもわたって結婚をしていくことで、その地域の中での地位を得て行く。けれども、外部から来たばかりの者は、「よそ者」という言葉で、その講の中ではなかなか受け入れてもらえない。そのようにして地域に深く結び付いて行く「講」というのは、それで何をして行くのかと言いますと、その地域の共通財産である、海とか、森とか、畑とか、そういうものをみんなで協力をして守って行く。今でいう農協とか、漁業組合はここから生まれたんだそうです。例えば、地域の火災のための備えとして「消防団」を作ったり、子育てを協力し合うために「子ども会」を作ったり、その地域でよりよく生活をしていくための助け合いをしていたわけです。ここまで説明を聞くと、私たちの身の回りにもまったく同じ地域のネットワークが存在するということがお分かりいただけるのではないかと思います。
ところが、この度の震災でこの助け合いネットワークである講に大きな変化が生じて来たんだそうです。それは、多くの家を失われた人々が仮設住宅に住むようになったことです。家が流されていない人と、仮設住宅に住んでいる人々、この前まで助け合っていたネットワークが分断されてしまったのだそうです。これは、この地域に留まって生活をして行こうとしている人たちにとっては非常に大きな変化です。
そういう状況の中で、全国、全世界からこの地域にボランティアの人々が入り、さまざまな宗教団体が支援活動をしています。もちろん、教会の支援活動もその一つです。ところが、ここで教会が支援活動をする中である問題が起こります。その町の人々の集まっているところで、色々な宣教団体が伝道活動をします。そして、罪を語り、イエス・キリストを信じるならあなたは天国に入れるのだと語るのです。それは、特に耳新しい事でもないでしょう。しかし、これは、この地域で生きている人たちには非常に厳しい選択を強いることになる。ある集会で15分の伝道説教をした宣教師の方に、その町のお年寄りの方がたずねたんだそうです。「わたしたちは大昔からこの地域で生活しながら、一生懸命に生きて来た。そうして、みんなで支え合って生きて来た。それをたった十五分、お話しを聞いただけで、その全てを捨てることができるとお思いですか?あなたが反対の立場ならどうですか?」と質問なさったのだそうです。
この地域で生きている人々にとって、キリスト教を信じるということは、その地域で一緒に生きて行くことを捨てるという意味を持つのだそうです。個人の救いを求めるために、この地域を出て行くという決断を求められることになるのだそうです。自分だけの幸せのための福音というものが、本当に聖書が語る福音なのだろうとかという問いかけです。

もちろん、長い時間をかけて語られたものですから、それをここで説明しようとしますと同じだけの時間が必要となってしまいますからできませんけれども、この問いかけは、そこに参加していた全ての福音派の牧師たちへの問いとして、自分たちの教会の伝道はどうなのかということも同時に考えるように求められたのでした。

少し長い話をいたしましたが、今、私たちは先週からピリピ人への手紙を学び始めています。この話を聞きなが、私も立ち止まって考えるのです。パウロが異邦人伝道を志し、特にヨーロッパの大陸に渡って伝道をした時も同じではなかったのかと。パウロは六節でこう言っています。

あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

先週もお話ししましたけれども、パウロがピリピで伝道を開始して最初に救われたのは紫布の商人ルデヤです。しかも使徒の働きの第十六章を見ますと、「神を敬う人」と書かれています。神を敬う人というのは、当時この町にはすでに離散したユダヤ人たちが移り住んでいたようで、そこでもユダヤ人たちは礼拝をしていたようです。少しそこのところを読んでみます。
使徒の働き十六章十二節以下です。

それからピリピに行ったが、ここはマケドニアのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。安息日に、私たちの町の門を出て、祈り場があると思われた川岸に行き、そこに腰をおろして、集まった女たちに話した。テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。

ここに「祈り場」という場所がでてきます。これは、当時ユダヤ人たちはそれぞれの町に離散して移り住んでいましたが、男が十五人以上集まりますとシナゴグという会堂を立てることができました。けれども、そこにはどうも十五人は集まっていなかったので、祈り場で集まって律法を聞きながら、ラビが教えるという礼拝をここで持っていたのです。そして、そこにユダヤ人以外の人々が関心を持って集まって来ていた人たちのことを、「神を敬う人」と呼んでいました。この時に来ていて紫布の商人は、すでにユダヤ人たちの集まりの場に集っていて、神を敬っていた人だったということです。しかも、このルデヤは女の人でした。このルデヤという人は非常に向上心のある人だったのでしょう。外国の神の話を聞き、しかも男性中心の考え方の価値観であったにもかかわらず、このユダヤ人たちの語る神に心を開いていたのです。それは、神がすでに新しい御業をこの町で初めておられたということでしょう。こうして、ここで働きを始められた神は、この土地に全く新しいことを、このピリピの地で開始されておられたということです。

しかし、もちろん一部の人々は信仰に導かれたとしても、全ての人たちではありません。東北の震災の被害にあわれた人々に福音を語るのが困難なように、この時も難しかったのです。この後、パウロは占いの霊につかれた若い女奴隷から霊を追い出してしまったことをきっかけに、パウロたちは伝道できなくなってしまい、ついに牢に入れられるという経験をしたのです。
ですから、パウロの語る福音は、このピリピの町で決して好意的に受け入れられたわけではなかったのです。人々の耳に優しい事を語っていたのではなかったのです。

けれども、パウロはこのピリピの教会に手紙を書き、その初めに自分の祈りを添えました。それが、今日の七節以降に出て来ます。
特にここでパウロが何を祈っているのかというと九節と十節です。

私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

パウロはそう祈りました。
パウロはこの祈りに先だって「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたをすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのか神です」と言います。私の心にあるのは、愛だと語り、そして、祈りにおいても、愛によって、真にすぐれたものを見分けることができますようにと祈っています。パウロはここで、愛ということを鍵の言葉として使っています。
パウロが牢の中から手紙を書くにあたって最初にピリピの人たちに向けて記しているのは、愛によって生きて欲しいということです。愛すること、これは聖書の語る中心といってもいいことです。
けれども、愛することほど難しいこともまたありません。私たちの毎日の生活の多くが、この愛することが難しいために、多くの問題が起こってしまうことを体験しない日はないくらいです。愛されるということには、あまり問題はありません。それは、誰もが気持ちよく受け取ることができます。けれども、愛するということは、どうも違うようです。その難しさはどこから来るかというのは、愛がすれ違ってしまうからでしょう。

被災地に出かけて宣教師がキリストの福音を語るのは、その土地にいる人たちのことを思うからです。愛があるので、わざわざそこまで出かけて行って、神さまのことを知ってもらいたいと思うのです。けれども、その土地に生きている人はそれが愛の行為と受け取ることができません。これは、私たちの生活を破壊するものだと感じる。それは、私たちに別の生き方を強制するものだと感じる。押しつけがましいことだと感じる。どこにも悪意がなくても、人はそこで傷つき、悲しみを増やしてしまうのです。そこで何が足りなかったのか。そのことを考えてみようということが、JEAの総会でも問われたのです。これまでしてきた教会の伝道は、何に根差していたのかもう一度考えてみようと語りかけられました。
パウロはここですでに一つの答えを持っていたようです。それは、愛によって、真にすぐれたものを見分けることができるようになることです。この八節に書かれている「イエスの愛の心」訳されている言葉があります。これは、とても面白い言葉で、普通に愛として使われている言葉ではありません。この言葉は、もともとは「内臓とかはらわた」という意味の言葉です。それで、この言葉は「その人のうちに秘められたもの」という意味から「心」とか「愛」と訳されるようになったのです。主イエスの内に秘められたものは、愛そのものであったということができます。たとえば、福音書を読みますと、何度も主イエスの心を表す言葉として、「憐れました」という言葉が使われます。この言葉も「はらわたが捻じれるような」という意味の言葉です。つまり、主イエスの愛というのは、非常に激しい愛で、時にははらわたが捻じれるような痛みや、怒りがともなうこともある、そういう愛です。愛との心を自分の心とするほどに、その人を受け止めようとする愛です。
パウロは、私の中にある愛というのは、主イエスの心の中にあるような愛だと言っているのです。そして、そのような愛をあなたがたも持つことが私の願いだと祈っているのです。それは、見せかけの愛の業に生きるということを捨てることです。その心が何に根差しているのか、それは、まさに主の愛そのものに根差す愛です。

先日の総会の中でこれまでの教会の反省が語られながら、そこで進められたのは自分の生活の中で生きた信仰の決断をしようということでした。私たちもこの岐阜の地に住みながら地域のさまざまなネットワークに身を置いて生活しています。そこで私たちが問われているのは、私たちはそこでどのように判断し、決断するかということです。簡単な解決の方法はいくらでもあります。地域の総会に委任状を出す。神社の掃除には参加しない。そういうこと一つ一つも、決断としては特に間違っているわけではないでしょう。けれども、そこで語られたのは、教会はひょっとすると家出人の集まりのように、地域から身を引いた人々の集まりになってしまうということは起こりうることだと思うのです。けれども、そうであるとすれば、この地域に私たちが遣わされていることの意味は何も見えなくなってしまいます。
主は私たち一人一人をそのところに遣わしておられます。それは、そこで、神さまが始められた救いの業が完成することを、他の誰でもない神ご自身が願っておられるからです。もちろん、それは地域に限った事ではありません。家族の中でもそうです。職場でもそうです。そこで、私たちは主に使命を与えられて遣わされているのです。そこに生きている人々の中に、キリストの愛が届いて行くことを、他の誰でもない主イエスご自身が願っておられるのです。
それは、簡単なことではありません。私たちもそこで傷つくことがあるのです。愛することが届かない悲しみを味わうからです。けれども、そのように気づいて頂きたいのは、私たちの内側が打ち震える時、それは、主イエスご自身の中にあったものだということです。主イエスご自身、はらわたがちぎれるような思いで、目の前の人を愛してくださったのです。そして、その愛は気づいてもらえなかったとしても、受け止めてもらえなかったとしても、その所に愛の足跡は残るのです。愛の道しるべは示されるのです。
私たちも、この愛を、私たちの判断の基準にするときに、きっとそこに何かが起こるのです。なぜなら、そこには主の愛が私たちを通して確かに示されたからです。そのような愛の業に、私たちも生きたいと心から願うのです。

お祈りをいたします。

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