2013 年 6 月 16 日

・説教 ピリピ人への手紙1章12-18節 「敵意の中の信仰」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 08:36

2013.6.16

鴨下 直樹

パウロは捕らえられて、今牢に繋がれています。それは、それ以上福音を宣べ伝えさせないため、パウロがこのまま働き続けることは良くないことだという判断をしたということでしょう。それは、誰もが思うことです。牢に捕らえられてしまうということは、「もう一貫の終わりだ、これで、パウロも終った」と考えるようになるということでしょう。そういう中で、牢にいるパウロから手紙が届きます。そして、読み終えてから、パウロが無事に牢から出られるようになるように祈ろう、ということが起こったかもしれません。しかし、パウロはこう記しました。

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。

そんなことがあるとでもいうのでしょうか。考え難い事です。異邦人伝道を精力的に行なっていたパウロが捕らえられるということは、福音が停滞してしまうことを意味すると、私たちは誰もが考えるのではないでしょうか。それ以上、どうして福音が前進することがあるでしょうか。しかし、パウロは福音を宣べ伝え、そのために捕らえられてしまってもなお、福音が前進すると言うのです。それは、一体どういうことなのでしょうか。
このことは、私たちにとっては体験的に分かることであるかもしれません。私の身に起こったことが、福音を前進させることがあるのです。昨日、私が教えております東海聖書神学塾で入門クラスという授業を教えておりました。昨日学んだところは「召命」です。テキストの最初にヨハネの福音書の第十五章十六節が書かれていました。

あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

一人の神学生がこの箇所を読みました。この聖書の言葉は私自身が神からの召命を与えられた言葉です。牧師の家庭で育ったこと。子どものころから牧師の働きが報われないことを見て、牧師にだけはなりたくないと思っていたこと。私自身には他にやりたいことがあったこと。そのために沢山の負債を抱えていて、献身などできないと思っていたこと。そんなことを神学生にお話ししました。そして、この御言葉に励まされて献身の決意をし、一週間後に仕事をやめ、イギリスの聖書学校で学ぶことを志しました。けれども、イギリスの入国管理局で、私の滞在目的は不法就労に当たると受け取られ、強制送還させられてしまいました。そんなことを話しながら、私自身、自分が牧師としてなぜ今立たされているのだろうかということをもう一度考え直す時ともなりました。
イギリスの入国管理局で拘束されて、強制帰国になって日本に戻って来た時、私はもうだめだと思っていました。これほど当てにならない神さまであったのかとがっかりもしました。そのことにどんな意味があったのかと思い悩んで、その後に日本の神学校で学びました。わたしには理解を超えたことでしたけれども、それらは、私にとって必要な経験であったし、それがなければ、きっと今の私はないと思っています。
その経験が「福音の前進に役だった」と、私は胸を張って言うことはできません。けれども、私のような、まさに、私ひとりが自分の予定を強制的に変更されたとしても、それは神さまにとって、福音のさまたげとなっていたのではないことが良く分かります。私たちの状況がどうであったとしても、それでも、福音は私たちの思いを超えて語られていくのです。
何もパウロが立派な伝道者であったから、パウロがこう語ることができたということではなかったはずです。私たちの思いを超えて、福音は前進していくのです。

ここで「前進」という言葉が使われていますが、この言葉も面白い言葉で、もともと軍隊用語なのだそうです。「切る、前に行く」という言葉から出たことばで、軍隊が進軍するために、道を切り開きながら前に進んでいくことを表した言葉なのです。前には障害があるのですが、それを切り開いて進んでいくのです。何のためかというと、後から来る者たちの道をつくり上げるためです。
パウロはここで、自分が捕らえられたことは、障害にぶち当たったと考えるかもしれないけれども、それでも福音は前に進むのだと語っているのです。なぜかというと、パウロが投獄されていることをとおして、「親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになった」と書いています。この「親衛隊」という言葉ですが、聖書の翻訳によってずいぶん訳が異なります。下の注には「総督官邸」となっています。そのようにも訳せるのです。もともとの言葉はラテン語で、この言葉をラテン語で使う場合には「近衛兵」とも訳されたり、「総督のいる場所」を示したようです。それで、パウロがローマで捕らえられたと考える場合には「親衛隊」と訳されるようですが、そうでない場合は「総督官邸」と訳したほうが良いと考えられています。いずれにしても、パウロを捕らえていた周りの人々に一つのことが明らかになりました。それは、パウロが悪い事をしたので捕らえられているのではなくて、「キリストのゆえに投獄されている」ことが分かったというのです。

前回もパウロがピリピで伝道をしていた時の箇所を読みましたけれども、今回も少し読んでみたいと思います。使徒の働きの第十六章の19-34節です。

少し長い箇所ですけれども、パウロが捕らえられた時に、牢の中でパウロたちがどのようにしていたのかがここによく表れています。パウロは何度もむちをうたれ、足枷をかけられていましたが、真夜中であっても、神に祈り、賛美をささげていたとあります。
暗い牢獄の中で、祈る。誰かが歌を歌う、それは、そこにいた他の囚人たちにとってどのような響きがあったのでしょうか。他の人たちはどう聞いていたのでしょう。不思議なことに、この時地震がおこり、扉が全部開いて、みなの鎖が解けてしまいます。しかし、誰もそこから逃げ出さなかったという出来事がおこりました。
おそらく、パウロがエペソで投獄されていたときも同じであったのではないかと考えられます。パウロの祈りを耳にし、賛美歌を聞いた。パウロのうわさが回りに広まって行きました。そして、誰もが確信を抱くのです。パウロは悪い事をして捕らえられたのではなかったのだと。そのように、パウロの周りで福音が前進していきました。

けれども、そればかりではなかったのです。パウロの周りだけではなく、パウロを失った教会でも、何かが起こったのです。十四節、十五節。

また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。

まだ続きますがここまでにします。
多くの教会の仲間はパウロが捕らえられたと聞いて、奮起して伝道し始めたのです。そして、そうではなく、パウロがいない間に、自分たちの勢力を拡大しようともくろんで伝道を開始した人々もいたのです。
その人が目の前にいないと、その人のことを悪く言ってしまうと言うことが起こります。もちろん、教会の中でも起こります。色々な感情がそこにはあります。ここにあるような、ねたみや争いという意識から起こることもあるでしょう。多くの場合は、正義感で言う場合もあります。パウロは興味深いのですが、自分に敵対する人たちがいることを知っていました。そして、自分が捕らえられたことで、その人たちが喜ぶことも知っていました。けれども、たとえそのような動機からであっても、福音が宣べ伝えられることも知っていたのです。

この教会のことを考えてみても良く分かることではないでしょうか。周りの教会が伝道に成功していると聞けば、私たちもと考えることはあるのではないかと思います。そうやって刺激を受けながら、それが党派心ではないにしても、すくなからず、そのような感情が働くことがあると思うのです。そうやって伝道しても、その動機は純粋なものではないと言われたとしても、パウロに言わせれば、それであっても伝道が進むのだから、それは良い事ではないかと言っているのです。
伝道をしていこう、福音を届けたいという動機には様々なものがあるでしょう。もちろん、ここでパウロが言うように、善意をもって、本当に救いを得て欲しいのだという願いからすることもあるでしょう。けれども、妬みであったり、党派心であったり、そういうあまり褒められた動機ではないものも含めて、実に色々な動機があるものです。
ひょっとすると、自分の教会の姿を家族に見られたくないので、家族に伝道することはためらうということだって起こるかもしれません。
ピリピの場合は、パウロのいない間に、自分たちの勢力を拡大しておこうという、本来の意図からすれば中身の伴わない、ここでいう見せかけであったとしても、それで伝道が進むのであれば、それは喜ぶことではないかと、パウロは語っているのです。

先週の水曜日の祈祷会の時に、私たちは先週の説教の箇所をもう一度読み返しながら、共に語り合う時を持ちました。話の中心はパウロの祈りの内容でした。

あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。

という祈りが九節と十節にあります。この言葉をめぐって色々なことを語りました。語りながら見えてきたことがあります。パウロが祈っているのは、「真にすぐれたものを見分けることができるようになること」だと言っています。そこで考えたのですけれども、私たちが正しく物事を考えることができるようになる時、どうなるかということです。大抵の場合は、自分の正しさを誇るようになるのではないかと考えられます。けれども、パウロはそうは祈っていないのです。正しい判断ができるようになるのは何のためかというと、愛するためです。キリストの愛で愛することができるようになるためです。
私たちは、正しい考え方、正しい判断というのを身につけると、それで正義の裁きをしながら人を見下げてしまうことに利用してしまう。けれども、パウロはそうではなくて、そのようは判断力は愛することの中で見出されるというのです。そして、まさに、教会がそのようになることを、最初の四節で「喜びをもって祈っている」と言っているのです。
それは、まさに喜ぶほかないことです。愛のわざに生きるようになるのですから。パウロがこの部分の最後でも、私は喜んでいるのだと語っています。パウロの判断は、自分がたっとばれたとか、軽んじられているとかいうところに留まらないで、まさに、キリストの思いに留まっているのです。だから、キリストであればこれはお喜びになられることだと思えるので、「このことを私は喜んでいます。そうです、これからも喜ぶことでしょう」と言うことができるのです。

この手紙は喜びの手紙と言われています。それは、獄中にあって、喜ぶどころではない状況にいながら、自分を鼓舞して、自分に言い聞かせるようにしながら、「喜べ」と言っているのではないのです。そうではなくて、心からの喜びにパウロは生きているのです。つまり、キリストの心と一つになっているがゆえに、獄中にあっても、その喜びは失われてはいないのです。

どんな敵意の中にいようと、どのような悪意の中にいようと、身動きがとれない不自由な状況に追い込まれていようと、パウロはキリストに完全に支配されているがゆえに、キリストと一つ思いになって、喜んでいるのです。そうです。これこそが、私たちに与えられている信仰なのです。私たちは、私たちの身に何が起こったとしても、このキリストと共に歩むことができる信仰が与えられているのです。これこそが、私たちの信仰、喜びの信仰なのです。

お祈りをいたします。

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