2013 年 8 月 4 日

・説教 ピリピ人への手紙2章12-18節 「星のように輝いて生きる」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 07:38

2013.8.4

鴨下 直樹

先週から信徒交流月間ということで、水曜日と木曜日の祈祷会で信徒の方々が順に話をしてくれることになっています。毎年のことですけれども、私はこの集いをとても楽しみにしています。普段、みなさんがどのように御言葉を聞いているのかが良く分かるのです。また、そこで話される話を聞いて、その方がどのように聖書と向き合っているかが良く分かります。どのように御言葉と向き合っているか、ということは、どのように主と出会っているかということと同じことです。

今日の説教の題を「星のように輝いて生きる」としました。何だか、何年か前に流行った歌のタイトルのような説教題です。昨日も、直前までタイトルを変えようかと悩みましたけれども、そのままにしました。信徒交流で色々な方のお話しを聞いて、はじめてその方が何に苦しんでいたのか、どのように御言葉に支えられてきたのかが分かることがあります。それはまさに、自分の置かれたところで星のように輝いて生きることになっているのだと、つくづく思わされるのです。

ところが、この聖書の言葉はいったいどこにあるのかと思われるかもしれません。似ている言葉は十六節にあります。

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

新改訳聖書ではそのように訳されています。ところが、口語訳聖書ではこうなっています。

「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」口語訳聖書では十五節です。「世の光」と新改訳聖書が訳したところを、口語訳聖書では「星のように」と加えて訳されているのです。この「光」という元の言葉は少し難しい言葉で、松明のような意味でも使えるので星と素直に訳すことは難しいのですけれども、内容からすると星とするのが自然です。

「あなたの生き方が、星のようにキラキラとこの世界に輝いていますか?」と、尋ねられれば、胸をはってそう答えることは難しいのかもしれません。むしろ、私たちが毎日の生活で味わっているのはその逆で、自分は自分の持っているものを十分に発揮できていないのではないか、くすぶっているのではないか、もっとすべきことが自分にはあるのではないかと考えことが多いのではないでしょうか。

まして、この手紙を書いているパウロ自身、牢に捕らわれた状況に身を置いているのです。外に出たくても自由にでることができない。福音を伝えたくても、自由に人とも会うことができない状況に置かれているのです。そんなパウロがここで、人びとの中で星のように輝いて生きることができのだ、と書き送っているのです。

二週間を置いてしまいましたので、少しこのピリピ人への手紙の流れが分かりにくくなっているかもしれません。パウロはこの手紙で、ピリピの教会の人々に自分に何がおこっているのかを書いて送りました。そして福音にふさわしい生活をしてほしいと語って、それは、主イエスが謙遜であったように自ら謙遜になるようにと、このころの教会で歌われていた讃美歌を紹介しました。主イエスのように生きることこそが、愛に生きる道なのだと語ってきたのです。それで、今日のところでは、「従順」ということを語っています。

特にこの二章は一つの心になるということから語り始めています。一つの心になるという時に必要なことは、自分のことを主張することではなくて、謙遜にならなければできません。心を低くするということによって一致することができるのです。

今日の十二節ではこのように書かれています。「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら・・・」と言っています。尊敬する指導者が一緒にいるときにはちゃんとやろうと思うものですけれども、誰も見ていなかったとしても、ちゃんとやってほしいとパウロはここで書いているのです。これはとても大事なことです。誰も見ていない時というのは、自分の責任で行動しなければなりません。けれども、自分がちゃんと振舞ったとしても、褒めてくれる人もいなければ、間違ったことをしても注意する人もいないのです。そうすると、そこで問われるのは、何に基づいて教会の人々は判断するのかというが問われていることがわかります。これは、言い換えると、何の権威に従っているのかということです。誰に対して従順なのかということです。パウロの顔色をみながら、パウロに褒めてもらうために従順になるのでは意味がありません。あなたは誰に従おうとしているのか、あなたの主である主イエス・キリストに従う事が大切なのだと言おうとしているのです。

それで、パウロはこう語りながら、十二節の最後に「恐れおののいて自分の救いを達成してください。」と書いたのです。人の顔色をみながら信仰の歩みをしていると、せっかく自分に与えられた救いを失ってしまうことにもなりかねないのです。ですから、救いを達成するために、この事がちゃんと分かっていないといけないのだと言いたいのです。

少し前までガラテヤ人への手紙から一緒に主の言葉を聞いていました。そこでパウロは、信仰によって義とされるのだ、救いというのは信じることによって得られるもので人間の努力によって得られるものではない、ということを書きました。私たちが救われるために、神の心にかなう生き方ができるようになるには、主を信じるということ以外にないのだとパウロはかなり激しく書きました。ところが、ここではまるで正反対のことを書いているかのような印象を受けます。

「恐れおののいて自分の救いを達成しなさい。」

もちろん、パウロは違うことを言っているのではないのですけれども、ここでパウロが自分の救いを達成しなさいと言われると少し混乱してしまいます。パウロがここで言おうとしているのは、私たちが罪から救われる、神に救われるのは確かに完全に神の働きによるものです。けれどももう一方で、では信じたらもう私は一生何もしなくてもいいのか。この救いから離れてしまうことはないか、救いを失ってしまうようなことになっていないか、ということに対しては私たち自身で主の権威に従順であることが求められるのですよ、ということを言おうとしているのです。

十三節と十四節にこう書かれています。

神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。

この短い言葉の中にこの二つのことが記されています。神の働きと、私たちの行ないの関係です。神はことを行なわせてくださる。その人の心に働きかけて志を起こさせてくださる。問題はそこで神が働きかけてくださっていても、私たちがそれに従わないなら何も起こらないということです。ですから、パウロはここで、信じてそれを行ないなさいと語っているのです。

神は、私たちを全自動操り人形としてお造りにはなられませんでした。自分で考えて、自分で決断して、行動する者としてお造りになられたのです。ですから、時に失敗することもあるのですが、私たちはそこで、神にお応えすること、応答することを神が願っておられるのです。

そして、このパウロの言葉をずっと読んでいきますと、こうして、神にお応えする事によって「この世にあって星のように輝くのだ」と語ったことが分かってきます。

十六節です。

いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。

神に応答して生きるために必要なことは、この十六節の冒頭で出てくる「いのちのことばをしっかり握って」ということです。

私たちは、私たちを生かす「いのちのことばを握って」いて初めて、この世界に星のように輝いて生きることができるようになるのです。

星というのは自分で光を放つのではなくて、太陽の光に照らされて光を放ちます。それと同じように、私たちもわたしたちを生かすいのちの言葉である、この聖書の言葉をいただいて、この言葉に照らされながら、この言葉のもつイキイキとしたものをもって輝くことができます。そこでは、やはり神が中心なのですが、そこに私がいることによってこの光は輝くのです。私たちが、この方の言葉を頂く事、このお方の言葉をしっかりと受け止める事、それは私たちに託されていることです。けれども、この言葉を受け取るならば、この言葉によって私たちはこの暗い世の中にあって、光り輝く存在となることができるのです。

こう話すとがっかりする方があるかもしれません。神が光で、私は光を映し出す反射物でしかないのかと。最初に言いましたように、この星と口語訳聖書で訳した言葉は、新改訳では「世の光」となっています。新改訳はこの光がどういう光なのか言葉がはっきりしないので、星というよりも光そのものという選択をしました。もともとの言葉には松明というような意味もあるからです。ご存じのように松明は自分で光を放つものです。ですから光そのものと理解すれば、その光は星のような輝きではなくて、自ら光り輝く光をも意味しうるのです。

どちらにしても、パウロがここで語ろうとしているのは神の御業そのものの持つ輝きとともに、私たちが輝くことの大切さを語ろうとしていると言えます。

まどみちおというキリスト者の詩人がおられます。童謡にもなった『ぞうさん』とか、『ヤギの郵便屋さん』などの詩を書いた方です。このまどさんの詩の中に『光』という詩があります。少し紹介したいと思います。

「光」  まどみちお

手で さえぎると

じめんが暗くなるので わかる

こんなに ここに

太陽の光が 流れて着ているのだ

ここに存在する

すべての物に ねだられて

一おく五千万キロの むこうから

川の水のように やすみなく

あとから あとから あとから・・・

だが川の水は さえぎると溢れて

激しくそれを おし流そうとするのに

光は おとなしい

さえぎる ぼくの てのひらの上に

ひよこのように ちょこなんと・・・

ああ 何なのだろう

光というのは

地球の夜を 消し去って

自分は無いかのようにして

ここに 昼があるというのは

このかぎりない やさしさは

まどさんは太陽の光のことを詩にしながら、その光を手でさえぎって影を作り出せることを発見します。けれども、その遮った手に残る光そのものの優しさに注目します。闇を取りはらうことのできる光の強さと同時に、その光のもつやさしさを発見するのです。この光は、好き勝手に光だそうとするいやらしさをもっていないのです。

まどさんはもちろん神さまの光ということを連想していると思います。このまどさんの連想に誘われながら、このパウロの言葉を読んでみる。パウロはこの光が、それこそこの闇のような世界の中で自分の力で輝こうとしている、人が作り上げることのできる人口的な輝きに比べたら、どれほど美しい輝きになるか、この世界をやさしく包み込む光になるかを、パウロもまた考えていたのではないかと思えてきます。

パウロはこの最後の十七節、十八節で、たとえ私がこの牢で死ぬことになったとしても、私は喜ぶことができると語っています。それは、パウロがこの主に自らも従順であったがゆえに、この神の光のぬくもりをピリピの人たちに届けることができたからです。自分を生かすいのちの言葉と出会って、この光の言葉によって自らもこの方の光を届ける者となったのがパウロです。パウロの喜びはここにありました。そして、この喜びをピリピの人々にも知ってほしいと願っているのです。

この喜びは私たちの喜びともなるものです。私たちもまた、パウロとおなじように、この方と出会い、いのちのことばをいただいて、光を受け、また、私たち自身光を届けるものとなるのです。それこそが私たちに与えられている、主への従順の歩みなのです。ここに生きる時に、私たちはこの世界にあって、星のように輝いて生きることができるようになるのです。

お祈りを致します。

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