2013 年 9 月 22 日

・説教 ピリピ人への手紙3章17-21節 「キリストにならいて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 15:27

2013.9.22

鴨下 直樹

パウロは今日の箇所で、「兄弟たち、私を見ならう者になってください。」と言っています。

「自分を見習ってほしい」とは、よほど自分に自信がなければ言うことはできない言葉です。今日はこの言葉を少し考えてみたいのですが、よくよく考えてみても、この言葉の持っている意味は自信のあらわれでしかありません。けれども、私たちは自分をそこまで誇ることがゆるされているのでしょうか。

私たちが聖書を学び、自分のことを知らされていくごとに気づかされていくのは、自分自身の中に誇ることのできるものはないのだということです。自分の罪の自覚といいましょうか、あるいは、自分の足りなさに気づかされます。そして、本当に私には救いが必要なのだ、神の与えてくださるものなしに生きることができないことに気づかされていきます。ですから、自分を誇ることなど本来できるはずはないのです。しかし、パウロは迷うことなく、「兄弟たち、私を見ならう者となってください」と言うのです。

もちろん、それは自分を誇りとしているわけではないでしょう。パウロは「自分は罪びとの頭だ」ということを誰よりもよく知っていた人でした。自分の罪の大きさを誰よりも良く分かっていた人です。けれども、そのパウロが、「私のようになってください」と胸をはって語ることができたのは、パウロが見上げている方を、同じように見上げて生きるものとなってほしいということ以外にありません。パウロが見上げているお方とは、ただ、主イエス・キリストお一人以外にないのです。

私が牧師になったばかりの頃のことです。説教塾という加藤常昭先生が指導してくださる牧師たちの学びの集まりがありますが、この説教塾主宰でルドルフ・ボーレン先生をお招きしての講演会が行なわれました。その時のテーマは「憧れ」というものでした。後で、この時の講演や色々なところでなされた説教が一冊の本にまとめられました。「憧れと福音」というタイトルです。このボーレン先生は加藤先生とともにドイツの神学大学で説教学を教えられた方です。来られた時に、白い見事な髭を蓄えておられました。私は当時、三重県の桑名市にある大山田教会で働いておりまして、ヴォルケ先生と一緒にこの講演を聞きました。ヴォルケ先生が、「今日の講演はすばらしいドイツ語だった」と言われたのがとても印象的でした。後で、本になったものを、もちろん翻訳ですけれども、読んで改めて思うのは、日本語でも詩のような美しさの文章ですから、ドイツ語ではさぞかし美しい言葉だったのだろうと思ったほどです。

福音というのは、新しい人間にされることを憧れること。ボーレン先生の話を短く言うとそういうことになります。それは、牧師になったばかりの私には非常に衝撃的なことでした。自分が教会で語る福音は、聞く人に憧れをもたらすものなのだということを改めて知ったのです。

考えてみますと、パウロは憧れに生きています。それは非常に激しい思いです。

どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

と十一節にあります。前の十四節では

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

と書いています。

パウロがここでいかに、キリスト・イエスに憧れているかが良く分かります。自分もやがて、主のようによみがえりのいのちにあずかることができる。この一点に集中しています。キリストご自身パウロの憧れそのものでした。キリストご自身のようになりたいということ以外にパウロは何もないのです。パウロは、キリストにひたすら憧れ、キリストを求め、キリストを手本としてキリストのように生きたい、そして、死んで、キリストのようによみがえりを味わわせていただきたいと思っているのです。

パウロの言葉はこう続きます。

あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

ピリピの教会にはパウロにならって、パウロを手本として生きている人たちがどうもいたようです。つまり、キリストを見習う生き方を選び取っている人たちがいました。ですから、その人たちと同じようにしたらよいのだと、パウロは勧めることができました。

しかし、パウロにしてみれば自分と同じようにキリストを手本とし、キリストに憧れを見出して生きている人を習ってくれればいいのですが、多くの人々が心惹かれるのは、キリストを自分の憧れとする生き方ではありませんでした。どういう人々に憧れるかというと、そういう中を上手にくぐり抜けながら、一方から敬われ、もう片方からも憧れられるという器用な生き方をする人たちに、人は心惹かれて行きます。教会でも、上手に、適当にやって、世の中の人と同じように生きていける人がいます。決して犠牲を払わず、利益だけを得ることに心を注いで器用に生きることができる人のことを、この世の中ではうまくやっている人と思うのです。

けれども、パウロははっきりと言います。「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる」と。キリストのように生きようとすれば犠牲はつきものですが、犠牲を払わないで益だけを上手に求める生き方というのは、そのような生き方は十字架の敵、キリストを十字架につけてしまうような生き方以外のなにものでもないのだというのです。

パウロの言葉はつづきます。

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

いくらこの地上に上手に生きることができたとしても、どれほど得をしたとしても、そこに待ちかまえているのは滅びなのだ、それは恥でしかないのだと。このパウロの言葉はそうとう厳しい言葉です。一方では涙を流すほどに、そのような生き方に心惹かれていく人、特にキリスト者に悲しみを覚えると共に、そう生きている人に対しては明確な憤りの言葉を発します。

先週の祈祷会で、今週の水曜に予定されている特別講演会の講師、柏木哲夫先生の書かれた『生きること、寄り添うこと』の読書会を致しました。限られた時間の中ですので前回は第一章を読みました。そこには「良き生と死」というテーマで書かれています。その中で良い生というのはこういう生き方をする人のことだと、いくつかの例をあげて紹介しているのですが、その中に「散らす人生」ということが書かれていました。柏木先生曰く、「人生には集める人生」と、「散らす人生」とがあると言うのです。それで、ある一人の方のことを書いています。ある上場企業の責任者です。立派な大学を出て、一流企業に入り、とんとん拍子で昇進して、企画部長をしておられたそうです。良い大学を出て、良い会社に入って、良い結婚をして、良い家庭を築いた。言わばエリートの人生を送って来られた方が初めてかかった病気が末期症状のすい臓癌だったそうです。不都合なことを乗り越えることをしてこなかった、言わば集める人生を送って来たこの人にとって、このように最後を迎えることは大変なことだったというのです。ところが、もう一人の方はナースをしておられた方でしたが、病人の世話をし、人のために生きてきた人がいました。必死にそうするのではなくて、ごく自然にそうやって生きることができる人がいるというのです。それは、散らす人生であったと書いています。

本を読みながら、なぜ、柏木先生はこれを「与える人生」と言わないのかという話になりました。それはきっと、「与える人生」と言うと、一生懸命頑張って与えて行かなくてはいけないのだと考えてしまうけれども、「散らす」という言葉を使うと、それは自分が意識しなくても自然に身についていることと表現したかったのではないか、という話になりました。おそらくそうでろうと私も思いました。

集める人生を送ることは、自分の危機的な状況に弱い。それが、柏木先生の答えでした。他の本でも柏木先生は書いています。死を自覚するときにはじめて、自分が集めてきたものが何の役にも立たないことに気づくのだと。

パウロがここで言っていることはまさにこのことです。この世の人々は集める人生を送る事を求めます。上手にさまざまなものを、お金や、地位や、名誉を集める人が賢い生き方だと思うのです。しかし、それは地上のことでしかない。自分が死に差し迫った時に、何の役にもたたないことに気づくのです。

「けれども、私たちの国籍は天にあります。」パウロはそう語り続けていきます。私たちはこの世でいかに成功するかをゴールとしているのではなく、神の支配のもとで生きることに価値を見出しているのです。もし、そのように生きた私たちが死を迎えた時、パウロは語ります。二十一節。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ここに、パウロの憧れがあります。私が死を迎えると、キリストが死に支配されない復活のいのちに生きておられるように、主ご自身と全くおなじようにされて、主ご自身と同じ栄光のからだと同じ姿にかえてくださるのだと。

完全にキリストのようにされる、ここにこそ、この私たちの人生の喜びが集約されているのだというのです。その時、この世界の様々なしがらみから自由にされます。それは、人間関係というしがらみであったり、老いであったり、病であったり、あるいは、貧しさであるかもしれません。私たちはこの世界では、そのようなものに支配されて生きています。そして、そのようなものが、私たちに襲いかかる時に、私たちは打ちひしがれてしまい絶望を味わいます。だから、少しでも気楽に生きたいと願うし、お金を持っていたいと願うし、あるいは、健康でいたいと願います。

けれども、パウロが見上げていたのは、キリストご自身です。人々からののしられることがある。理解してもらえないことがある。そして、ついには殺されてしまう。まったく、損ばかりをし続けてきたようなこのお方の生き方に、心惹かれるのです。なぜなら、キリストはそのようなものを恐れて、その恐れに支配されることがなかったからです。そればかりか、最後まで人のために心を注ぎ、人を愛して、その生涯を終えられました。これこそが、あるべき生き方だと、パウロはそこに真の人間の姿を発見したのです。そして、そのようないのちを十字架の上で終えられた時に、神はこの方に新しいいのちを備えておられました。そして、よみがえりを与えられたのです。このお方にあずかることこそが、自分のいのちをかけて生きる生き方にふさわしいと思ったのです。そして、そればかりでなく、誰もがそうであるべきだと確信したのです。

だから、パウロは自信をもって語ることができたのです。「兄弟たち。私を見ならう者となってください」と。つまり、「キリストを仰ぎ見る生き方をしてください」、「キリストにならって生きようではありませんか」とパウロは胸をはって語ることができたのです。

私たちは考えてみますと、子どものころからさまざまなものに憧れて生きています。小さな子どもの時からそうです。自分があこがれるものの真似をしながら、私たちはその人のようになろうと志します。そうして、私たちは、本当の憧れの対象とある時出会うのです。そのお方が、主イエス・キリストです。そして、聖書はこのお方と同じ姿に変えてくださるのだと、約束しています。ここに、私たちの向かうべき道があります。真の憧れがあります。ですから、私たちはパウロのように、キリストにならって生きる者となるのです。

お祈りを致します。

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