2013 年 9 月 8 日

・説教 ピリピ人への手紙3章12-16節 「目標を目指して一心に」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:42


2013.9.8

鴨下 直樹

今年、私たちの教会ではホスピスの働きを長年しておられる柏木哲夫先生をお招きして、特別講演会を予定しています。そのために、先週の祈祷会で、柏木先生の書かれた本を一緒に読む読書会をいたしました。ずいぶん前に書かれたものですけれども、『生と死を支える』というタイトルで今から三十年ほど前に書かれたものです。この本は古い本なのですが、柏木先生がしておられたホスピスの働きと、その働きの中で信仰のもつ役割を明確に書いた部分が紹介されております。

その本を祈祷会に出席しておられる方々と一緒に読んだ後で、みなさんと少し自由に話し合いの時を持ちました。そこでは、どのように自分は家族の死を看取って来たのかという話にどうしてもなります。教会でこういう語り合いの時をもつことができることは、とても大事なことだと改めて考えさせられました。みなさんと一緒にお読みした柏木先生の本の、ちょうど読んだ冒頭の部分にこんな言葉があります。すこし長い文章ですけれども、紹介したいと思います。

「人間が不治の病にかかり、迫ってくる死を自覚しなければならなくなった時、この世の地位や名誉や財産は何の役にもたたないことを悟りはじめる。これまで頼りにしてきたものには、もはやすがれなくなるのが死の現実である。人は地位や教養という衣をぬがされて、裸のままで死とむかいあわねばならない。死の床では、その人の持っている人生観や死生観、そして信仰がためされる。人が生きてきたその生きざまそのものが、その死にざまに凝集された形であらわれる。人は生きてきたようにしか死ねないのである。」

多くの人の死とむかいあってきた、この医者ならではの言葉だと言ってもいいと思います。人間は死ぬ時に、自分が築き上げてきた一つ一つのものが何もあてにならないことを気づきはじめる。そこでどうするのかということが、突然襲い掛かってくるのです。それが死とむかいあった人間の現実の姿だというのです。

今、私たちはパウロの書いたピリピの教会の人々に宛てた手紙を共に読んでいます。そういう意味ではパウロも牢にいながら、間もなく死ぬかもしれないという、死を見つめながら書いたのがこの手紙です。今日は十二節から読みました。少し夏休みを頂いておりましたので、前回の箇所を聞いたのは昔のことという思いがあるかもしれませんが、教会で読まれた時は、このように部分的には読みませんから、どういう流れで今日の部分が書かれているかということは明らかです。パウロはこの前の部分で、自分の死を見つめながら、キリストの復活の力をどうにかして味わいたい、本当の意味で自分も理解したいと思っているのだと語りました。

そして、今日の箇所です。

私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。

さきほどの、柏木先生の本の言葉とはずいぶん異なる言葉がここに記されています。人生の中で手にいれてきたものは役に立たないのだというのではなくて、自分の死をみつめながら、「そこでこそ、私は捕らえようとしている、つかもうとしているのだ」とパウロは語っているのです。

一般の世界の人々にこの言葉はどう響くのでしょうか。「まだ、得ていないのだ」と言っているのです。また、十三節でも、今度は教会の人々にも同じ言葉を繰り返しています。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。

私たちはこういうパウロの言葉を読む時に、パウロのように信仰に生きても何も得ていないのだとしたらどうなるのかと不安に思うかもしれませんが、その必要はありません。注意深く読む必要があるのですけれども、パウロは十二節で「すでに完全にされているのでもありません」と語っているのです。

キリスト者として「完全にされている」、というのはみなさんにとってどんなイメージがあるでしょうか。先週まで夏休みをいただいて、長野県の御代田にあるのぞみの村に行ってきました。最後の二日間でしたが、妹夫婦が遊びにきました。そこで、自分が通っている教会の牧師の口癖があるという話をしました。その牧師さんはよく説教ではお話しされるらしいんですが、そこで自分のダメっぷりを語るんだそうです。それで、こう言ったと言うのです。「みなさん。私が牧師だから毎日みなさんのために熱心に祈っているなどと考えないでください。牧師はそんな立派なものではありません。私に頼るんではなくて、自分でちゃんとお祈りしてください。牧師が祈ってくれているから大丈夫なんてことはまったくないんですからね」と言われたというのです。妹夫婦は面白おかしくそれを話してくれましたが、そんなことを言って、誰もその牧師に対して不信感を持つことはないんだそうです。そのことばにある説得力があるんだそうです。というのは、いつも主を自分自身で見上げていかなければ、それが誰であろうと人の信仰は何の役にもたたないということをよく語っておられるからのようです。

私もそれを聞きながら、どう反応していいのかと思いながら聞いていたのですが、ひょっとすると、完全なキリスト者のイメージというと、牧師さんのようになることと考えやすいのかなと考えさせられました。

この「完全」という言葉は、「大人になる」、「成人する」という言葉で説明すると分かりやすいかもしれません。日本では二十歳になったら法的には大人ということになっています。けれども、その年齢に達すればもう立派な大人であるとは言えません。中身が伴うにはそれなりの時間がかかります。先週で私も四十四になりました。もう、決して若いという言い訳ができるような年齢ではとうになくなっています。子どものころから、大人になるように目指して生きている、「ちゃんとした」という形容詞をつけると、ますます難しくなってきますけれども、ちゃんとしたおとなになるということは、実に多くの時間を要するものです。パウロはまさに、そのように自分は完成を目指しているのだ。キリスト者として完全な者となることを私は目指しているのだ、私は「ただ、この一事に励んでいます。」とさえ言っているのです。

十三節のこの言葉のあとにはこう続きます。

すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

「うしろのものを忘れ」とは何でしょうか。「自分の過去のこと」でしょうか。自分の過去を忘れて生きるということを私たちはなかなかできません。年齢を重ねるごとに大事になってくるのは、自分は今まで何をしてきたかということです。過去にあったこと、自分が行なってきたことの一つ一つが重みを持つようになるのです。しかし、「後ろのものを忘れ」という時に求められるのは過去と決別するということです。自分の業に心をとめることを止めるということです。

ここで考える必要があるのは、この自分の過去の業というのは、自分で誇りたい部分と隠していたい部分、覆ってしまいたい部分とがあることに気づくと思います。この覆ってしまいたい部分、それを罪と言い換えてもいいのですけれども、その部分を主イエスは贖ってくださいましたから、この部分で多くの人は喜びを見出すことができます。けれども、自分のしてきた業となるとそうはいきません。それまでも忘れるとなると、自分の今まで生きてつちかってきたものが無駄に思えてしまうので、そこからなかなか自由になれないのです。

ところが、最初にお話ししましたように、それが死に向かうということが自分の中で明確になったときに、人は、自分が築き上げてきたものはそのために何の役にも立たないのだということを認めることになるのです。だから、パウロは言うのです。「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進んでいる」と。

では、そのように進んで行くと何が待ちかまえているのかというと、つづく十四節でこう言っています。

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

私たちがそのように突き進んでいく。どこまでも突き進んで行って。天にまで、死んで神の御許に行きつくまで進んで行くと、そこに神の栄冠が待っているのだというのです。

今日の早朝の五時、次回のオリンピックの開催地が決まりました。日本はこれまで夏のオリンピックにむけて三度招致活動をしてきましたが、三度とも通りませんでした。ようやく今回東京に決まったということです。それはそれとして、オリンピックというと、やはりそのメインの種目はマラソンです。夏のオリンピックと言えばマラソン、冬のオリンピックと言えばフィギアスケートと、日本人なら答えます。ところが、このイメージは国によって違うようで、みんな自分の国の強い種目が、オリンピックの花形スポーツだと思っているようです。私のドイツの友達は冬のオリンピックのメイン種目はアイスホッケーと言っていました。自分の一番好きな種目なのかもしれませんが、これは、私も驚きました。そんなことはどうでもいいのですが、やはり、夏のオリンピックと言えば、誰が何と言おうとマラソンです。ここからこの種目が始まったからです。マラソンというのは、長い距離を走ります。それは、本当に大変な行程です。実際に走ったことのある方は良く分かると思います。

パウロはここで、「一心に走っているのです」と語りました。前の十三節でも新改訳では「ひたむきに前のものに向かって進み」と訳されています。新共同訳聖書では「前のものに全身を向けつつ」となっています。からだを前のほうにぐっとのばすという言葉なのです。まるで、それは走る時の様子を表現しているかのような言葉を、パウロはここであえて使っているのです。疲れ果てながらも、必死に体を前に、前にと押し出しながら走り通すのです。実はピリピの2章の十六節でも新共同訳では「自分が走ったことが無駄でなく」と言っています。新改訳では「努力したことが」と言葉が変えられてしまっているのですが、これも「走る」と言う言葉です。パウロは非常に強くこの「走る」という言葉を使っているのです。のんびり歩いてなどいられないのです。

主の御許に向かって走って行く。もっと言うと、死に向かってひたむきに走っているというイメージなのです。そんなことを聞くと、ちょっと嫌な気がしてしまいます。できるだけのんびり歩いて、少しでも死に近づかないように、できるだけ触れないようにというのが、私たちに近づいて来る死のイメージですが、パウロの場合は非常に明るいのです。

それこそ、オリンピックのマラソンのコールのシーンを心待ちにしている選手のように、死に向かって一直線に進んで行くのです。そこまでいけば、栄冠がまっている。金メダルどころではない。自分が本当に得たいと思っていた、あのキリストの復活に、自分も到達できると思っているのです。だから、死を恐れるのではなくて、向かって行きたい、一心に走って、体をぐっと伸ばしながら、すこしでもそこに近づきたいのだと言わんばかりに走り続けているのです。

パウロにとって、キリストは本当に自分の模範でした。憧れそのものでした。ですから、キリストの全てを知りたいと思ったのです。そして、それは自分が死を迎えたときに、死のゴールテープを切ったその瞬間に、自分にも復活の力が働いて、完全にキリストを知るものとされることが嬉しくて仕方がないのです。

だから、パウロはこう言います。十五節です。

ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。

この新改訳の翻訳は本当に残念なんですが、この「成人である者」と言う言葉は、十二節の「完全な」というのと同じ言葉ですから、本当は「完全な者は」と書いているのです。そうすると、自分は「完全にされていない」と言いながら、十五節では「完全な者はこのような考え方をすべきです」と言っていることになって意味が通じないので、新改訳は意味を通じるようにするために「成人である者は」としたのです。

けれども、先ほどこの「完全にされている」という言葉は、「成人になる」と考えると意味が分かるようになると説明しましたので、ここでは意味がすこしはっきりしてくると思います。パウロがここで「成人であるもの」つまり、「完全な者」と言っているのは、救われているキリスト者のことを指して言っていることになります。もう完全に救われているのですけれども、その中身は、子どもが大人になる時のように、どこからが大人でと簡単にはいえません。ですが、もう二十歳になれば大人とみなされるように、救いを受けている者は「成人」とされていると言うことができるわけです。

救われているあなたも私と同じように考えてもらいたいのだと、パウロは言っているのです。キリストを完全につかみたいと思ってほしい、死も恐れることなく、この信仰の行程を走り切ってほしい。こう考える事ができるようになることが、大人のキリスト者なのだと言いたいのです。

自分のこれまでしてきた行ないに、振る舞いに、罪にくよくよしないでほしいのです。自分のこれまでの実績に留まって、前を向けなくなることが内容にならないでほしいのです。そうではなくて、最後の瞬間まで、その死のゴールテープを切るその時まで、希望をもって、キリストのことを完全につかみたいのだ、もっと主イエス・キリストのことを知りたいと思いながら、その人生を走り続けてほしいと、パウロはここで励ましているのです。

ある人がこの聖書の箇所から「走れパウロ」という説教題をつけて説教をしました。けれども、パウロが言いたいのは、パウロが走るのではなくて、あなたがたも一緒に走ってほしいということなのです。ですから、むしろ「あそこに向かって、私と一緒に走ろう!」としたほうがいいのかもしれません。何か七十年代のスポ根ドラマのようですけれども。「あの夕陽に向かって走ろう」とでもしたくなる気持ちです。

それで「天の栄冠を目指して」というような題がつけられるのですが、私なども無難に「目標を目指して一心に」、などとつけてしまいます。けれども、ここで語られていることは明らかです。私たちは、最後まで主を見上げつつ、復活を期待してこの人生を喜びをもって走り通すことができるのです。

お祈りを致します。

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