2013 年 10 月 6 日

・説教 ピリピ人への手紙4章8-23節 「富める時も、貧しき時も」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 13:47

2013.10.6

鴨下 直樹

このピリピ人への手紙は喜びの手紙と呼ばれてきました。何度もこの手紙の中に、「喜んでいます」、「喜びなさい」という言葉が語られてきました。今日のところにも、パウロの喜びが語られています。

私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。

と十節にあります。何のことを言っているかと言うと、パウロのところにピリピ教会のエパフロデトから献金が届けられたのです。このピリピ教会から届けられた献金のことについてパウロは最後の二十節にいたるまで実に驚く様な言葉を重ねました。「私のことを覚えてくれて、この支援のおくりものを喜んでいます」と、一行で終わりそうなことを、パウロは十節かけて実に丁寧に書いています。しかも、その内容は十一節の「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」とか、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」と言ってみたり、「私は贈り物を求めているのではありません。」「私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。」という、一般的な贈り物に対する感謝の言葉を語る時にはとうてい言いそうもない言葉を語っている一方で、「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」と言ったり、「マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。」と支援を感謝している言葉を語ったりもしています。このようなパウロのこの言葉の中に、パウロがこのことに実に心を砕いているかが現われています。

誰もが経験のあることだと思いますけれども、誰かから物を頂くことほど気を使うことはありません。物を贈る側からすれば感謝のしるしであったり、どこか旅先で買い求めたものを日頃の感謝に合わせて送るということは良く分かります。けれども、貰う側はあまり嬉しそうにしては、物欲しそうにしていると思われるかなと考えたり、かといって、迷惑そうな顔をするわけにもいきません。かえって、これを貰うと、また今後も相手に気を使わせてしまうことになるから、辞退したほうがいいのではないかとか、考え始めればきりがなくなってしまいます。それに対してお礼はどうするのか。電話でいいのか、礼状を書くのか、次に旅行にいったら、同じくらいの物を買っていったほうがいいのか。もう、考え始めるといやになってしまうという方も少なくないでしょう。素直に物をもらうというのはとても難しい事です。

そういう考えからすると、このパウロの文章も、パウロはこう書いているけれども本当はこの支援に対してパウロの心の中に、卑しい気持ちがあったのかもしれないなどと読む人もいます。しかし、パウロのこのことについての考えは実にあっさりしています。

今日はピリピの手紙の最後の部分です。分け方によってはもう三回に分けることもできるとも思いますが、ピリピの教会の人々に向けて語られた最後のパウロの言葉がここに記されています。特に、この最後の部分に記されているのはパウロがうけたピリピの教会からの献金に対する感謝の言葉です。ところが、読まれて驚いた方があるかもしれませんが、パウロの感謝の言葉は、最初の言葉のなかに全て現わされています。

私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来たことを、私は主にあって非常に喜びました。

パウロのこの感謝の思いは「主にあって」もたらされたものだというのです。これはどういうことかというと、パウロはこの支援を横の関係で受けたのではなくて、上から頂いたものと考えると言っているのです。ピリピの人たちから頂いたというよりは、主から送られた物として喜んでいるのだと言っているのです。これは、人によっては誤解を生みやすい事でもありますので、注意が必要ですけれども、妻がおいしい夕食を準備してくれているのに、神さまに感謝の御祈りはするけれども、妻には感謝の言葉を言わないということであるとすれば、一所懸命食事を作った方から言わせれば、「こっちにも一言くらい何か言ってほしいものだ」ということになると思います。実は、そのために、このパウロの文章が何を言いたいのか分かりにくくなっているのはそのためであったと言ってもいいのかもしれません。

パウロが何よりも言いたいのは、私はこれを主から受けたと思っているということです。パウロとピリピの人々を結びつけているのは主にある信仰であって、それ以外ではありません。人間的な同情とか、人情というものもそこには働いているのかもしれないのですが、けれども、それもすべて主にあって、主の中にいれられていることの中で起こったことなのです。ですから、パウロにしてみれば、この支援を本当に感謝しているのですが、ピリピの教会の人たちのこの援助によって食べさせてもらっているとは少しも考えていないのです。だから、パウロは言います。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と。

ここで私たちがよく考えなくてはならないのは、これはパウロだけが到達した悟りの境地なのではないということです。パウロは支援を受けて生活していて、私たちは支援をうけていないというふうに考えてしまいやすいかもしれませんが、パウロはまさに、その伝道の生涯を見ていますと本当に、実に様々な状況に立たされました。それは、パウロのような伝道旅行をしなかったとしても、私たちの生活の中に毎日起こることでしょう。突然家族が病に倒れるということが起こります。それを支える家族は本当に大変です。今まで普通にできていたことが、ある時からは普通ではなくなるのです。出来ていたことができなくなる。からだが思うように動かなくなるということがあります。時間がいままでのように使えなくなるということがあります。あるいは、記憶力が急激に衰えてしまうということもあります。そう考えてみますと、本当に、私たちの生活というのは、主の守りと支えの中に立たされているのだということを認めざるをえません。

パウロの手紙を読みますと、どうもピリピの教会の人々の支援が長い間途絶えていたようです。理由は良く分かりません。おそらく、パウロがこの十節に書いているように、「あなたがたは心にかけてはいたのですが、機会がなかったのです。」ということだったのだと思います。この十節は実に面白い言葉なのですがこの部分の前のところでは「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえったのです。」

ここで、「今ついによみがえった」などと少し仰々しい言葉を使いました。もちろん、このよみがえるという言葉は主イエスがよみがえったという言葉とは違う言葉です。新共同訳では「あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを」と訳しました。「よみがえる」などという仰々しい言葉とは正反対の「表してくれた」とかなり控えめな言葉です。もともとの言葉は「花が咲く」という言葉ですから、「あなたがたに今またついに芽生えてきたこと」と訳した口語訳の方が原文の味わいを良く表していると言えます。

冬の間は枯れてしまっていた木に花が咲くのです。パウロのところに贈り物を届ける機会を失っていた教会が、その機会を得たことを、それは花が咲く様なことなのだと言い表しているのです。

この「機会」という言葉も、「チャンスがなかった」ということですけれども、このチャンス、機会をくださるのは誰かと言うと、それはやはり神さまご自身です。人を愛するということは、実に大変なことです。例えば、苦手な人に声をかけようと思っても、なかなかそれができません。誰かに背中を押してもらいたいような気がするということがあります。ピリピの教会の人々も、パウロを愛していました。これまでパウロを支えてきたのです。けれども、まるでそこに冬が訪れてしまったかのような時期が訪れる。さまざまな理由がそこにはあったのかもしれませんが、そのように冬を迎えていたところに、神は再び機会をもたらしてくださった。そしてそこに花が咲いたのです。

ここでもパウロは、このチャンスを与えておられることすらも主によるものなのだ、ということを強調しているのです。

けれども、その愛の機会というのはいつ、どのようにして訪れるのかというと、これもまた、主と結びついていたことによります。ピリピの教会の人々が主に結ばれ、パウロも主に結ばれていることが、その機会を生み出させます。ですから、パウロはここで、自分のしている主の働きを覚えつづけてくれたピリピの人々に「あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福」があるのだと、十七節で語っているほどです。

パウロはここで献金のことについて語り出します。エパフロデトから届けられたこの献金のことを十八節の後半部分では

それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。

と言っています。これは、献金の仕方が、神に喜ばれる仕方とそうでない仕方があると言っていることになります。

だいたい、献金の話などを、こんなにながながとすべきではないと思う部分が私たちにはあると思います。しかも、「これは神が喜んで受けてくださる供え物だ」などと言われると、色々モヤモヤしたものが頭の中に思い浮かんでくるかもしれませんけれども、大事なことですから、出来るだけ簡潔に話したいと思います。

旧約聖書の時代、神への捧げものはお金ではなくて、動物の犠牲でした。しかも、もっとも肥えた、傷の無いものでなければ捧げることはできません。例えば牛を捧げることがありましたけれども、日本で最上級の牛肉と言えば松坂牛です。牛にはいくつかのランクがありまして、一番上のランクの肉をA5というランクが付きますが、1kgで一万四千円だそうです。何年か前にテレビで見たのですが一頭まるごとだと四千万とか五千万という値段がつくことがあるそうです。一般的には良いもので500万くらいということのようですけれども、それにしてもそうとう高額です。

もちろん、イスラエルでは子牛ですし、または羊であったり、お金の無い人のためには鳩で代用することもできたのですが、毎年、神さまの前に罪を赦していただくためにそれだけの犠牲を捧げるというのは大変な犠牲です。それで、だんだんこの犠牲が形式化されていきます。自分の家畜を連れてくるのではなくて、神殿に行きますとそこに神殿奉納用の子牛や子羊が売られているようになります。こうなると、人々には便利になりますけれども、犠牲を捧げるのは単なる毎年のイベントでしかなく、神さまへの悔いた心を示すということは無くなっていきます。それで、神さまのほうから、動物を殺すのが可哀そうだ。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

と詩篇五十一篇十七節にあります。神がご覧になられるのはその心です。そして、ピリピの人たちの主への心こそ、神は喜んでおられると言われたのでした。

今日の説教題を「富める時も、貧しき時も」としました。題をみると、結婚式の時耳にする誓約を思いだされた方があるかもしれません。私たちはそこで、自分が富んでいたとしても、貧しかったとしても、健康であったとしても、そうでなかったとしても、自分の状況に関わらず妻を愛する、夫を愛する、そのために相手を裏切るようなことはしないと誓いをいたします。その誓いは、その誓いを果たさせてくださる神がいなければなりたちません。それで、教会で結婚式をあげることを希望される方には、必ず時間をとってカウンセリングの時を持ちます。そこで話すのは、この誓約を果たしてくださるのは神さまだということを話します。

パウロのように十二節を読みますと

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

と勇ましい事を書いております。こんなことが言えるようになりたいなどと思いながら、この部分を読んだかもしれません。しかし、私たちは、私たちが意識していようと意識してなかろうと、この神の前に生きているのです。貧しくても、たとえ病の中にあったとしても、私はこの神に支えられ、この神が私のことをしっていてくださるから大丈夫だと、私たちは胸をはって言うことができるのです。

今、Oさんが入院しておられます。先週の月曜から肺炎のために近くのA診療所で入院することになりました。水曜まで私は訪ねることができなかったのですが、病室に行きますと、実にすがすがしそうな顔をしているOさんにお会いしました。いろんな話をしました。といっても、もっぱら病室で暗唱している聖書の御言葉のことです。

そして、このピリピの手紙で語られた言葉、三章の十三節と十四節を文語訳で朗読されました。「兄弟よ、われは既に捕へたりと思はず、唯この一事を務む、すなわち後ろのものを忘れ、前のものに向かいて励み、標準(めあて)を指して進み、神のキリスト・イエスによりて上に召したまふ召しにかかはる褒美を得んとてこれを追い求む。」

「こうして病室で寝ていると、まさにこのパウロの心境になってくる。もういつ死んでも大丈夫という平安な思いでいるので何も思い煩うことはない。」とはっきり言われました。反対に病室を尋ねた私が励まされて帰ってきました。肺炎を患って息苦しいことがある。夜もぐっすり眠れない、隣の部屋からは「苦しい、苦しい」といううめきの言葉が一晩中聞こえてきても、何の不安にもならないでいられるというのです。これこそが「あらゆる境遇に対処する秘訣」でなくてなんでしょうか。私はOさんだけが特別な信仰に生きているわけではないと思います。おそらく、どなたが入院なさっても、同じ平安をもつことができると信じています。なぜなら、私たちは同じお方を主と仰ぎ、このお方が与えてくださる喜びの中に生かされているからです。

パウロは言います。十九節二十節。

また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。どうか、私たちの父なる神に御栄えがとこしえにありますように。アーメン。

この素晴らしい約束の御言葉に、心からアーメンと言うことのできる信仰に私たちは生かされているのです。

お祈りをいたしましょう。

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