2013 年 10 月 13 日

・説教 出エジプト記20章2節 「自由の道標としての十戒」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 14:16

2013.10.13

 鴨下 直樹

 

 新しい電化製品を買う時に、取扱説明書というのが必ず付いてきます。この取扱説明書をちゃんと読んでから新しい機械を触ってみるという方もあるでしょうし、とりあえず動かしてみて、分からなかったらその部分を取扱説明書を読むという方もあると思います。ただ、大事なことは、ちゃんと取扱説明書があるので、いざという時にはこれを読めば何とかなるという安心感が、この取扱説明書にはあります。

 この十戒は、神さまが私たちに与えてくださった人生の取り扱い説明書、私たちにとって無くてはならない大切な「みちしるべ」です。これが記されたのは今から数えることもできないくらい大昔のことです。しかし、書かれた当時とはまるで異なる現代に生きている現代の私たちにも意味あるものでなければ、それが、私たちのみちしるべになるとは言えません。この十戒は現代でも正しい事と間違っていることをどう判断するのかという、倫理的なテキストとしても、今日まで大きな意味を持ち続けています。 今日は「自由の道標としての十戒」という説教題を掲げました。これからしばらくの間、この出エジプト記二十章に記された十戒から御言葉を聞き続けていきますが、この題は、十戒の全体のタイトルとしてもいいと思っています。 「十戒」とは「十」の「戒め」と書きます。ですから、「なになにしてはならない」ということが十、記されているわけです。それは、普通に考えれば十の禁止事項ですから、それが、自由の道標になるなどということは、普通なら考えにくい事です。けれども、ここで私たちがはっきりと聴き取りたいと思っているのは、神が神の民をどのようなものから解放したいと思っておられるかということです。この十戒は、神の民に自由の道標としての方向を与えるものになるのです。 今日の箇所はまだ十戒の本文ではありませんが、十戒の前提となるとても大事な言葉がここに記されています。

 わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 最初に、まず私たちがどうしても知っておかねばならないのは、ここで、はじめに神が救いの御業を行なってくださったのだということが宣言されているということです。まず、神が人を愛されたのです。すべてはここから始まっているのです。 私たちは戒めの言葉を聞くときに、まず何をしなければならないか、何をすることが求められているのかと言うことに心を留めます。けれども、人を愛しておられる主は、人の行ないの先に神の愛があることを、この戒めに先立って示しておられるのです。 そのために、まずこの十戒が与えられる前に、神がイスラエルをどのように導かれたのかを思い起こす必要があります。

この時代、イスラエルの民はエジプトの地で奴隷として生きなければならなくなっていました。イスラエルの十二人の子どもたちは、この地で大きな民族となっていました。そのために、この民の力を恐れたエジプトの王パロはイスラエル人を奴隷としていたのです。そこに、神はモーセを指導者としてお立てになり、エジプトから連れ出して、約束の地カナンに導く途中で、この十戒が神から与えられたのでした。 ですから、ここで神はエジプトの地で奴隷になっていたイスラエルの民に、出エジプトという解放の出来事をもう一度思い起こさせておられるのです。というのは、この十戒が与えられた時、イスラエルの民はエジプトを出て、カナンの地にたどりつくまで四十年もの間荒野をさまようことになったので、神の御業を忘れて、人々の口には不平不満が出るようになっていたのです。 「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」という諺がありますが、苦しいところから救い出されても、その生活がつづくと、それが「普通」の生活になり、自分がどこから救い出され、何から解放されたかを忘れてしまいます。そして、さらに、「ああして欲しい、こうして欲しい」と次々に、更なる要求がでてきてしまうのです。 エジプトの奴隷の状態から解放されて、自由な民としての新しい生き方が示されても、とりあえず説明書も読まないままに、おもうがままに生きて行くと、すぐに壁につきあたってしまいます。そうすると、現状が改善されることを求めるという、消極的な生き方しかできなくなってしまいます。本来、自分はどのように生きるべきなのかということを、考えないまま、気づかないまま、毎日の生活に不平不満だけを並べ立てながら、目の前の問題が解決すると、次々にまた別の問題が訪れて、また新しい不満が出て来る。こういう負の循環の中に生きることは、神が本当に与えようとしておられる自由な生き方ではないことを、神はもう一度人々に示す必要があったのです。 そこでも、私たちが気づかなければならないのは、まさに神がイスラエルにこの十戒を与えられたこと自体が、神の深い愛の行為であったということです。神はこの十戒を与えることによって、神の救いを体験した人間が、どのようにして、その自由を味わうことができるかを、ここで丁寧に教え導こうとしておられるのです。ですから、まさに、この十戒こそが、荒野をさまよい歩きながら、どこに向かって生きて良いか分からない人々への自由の道標となったのです。

 そこで、もう一度、ここで神が何と言って語りかけられたかに注目してみたいと思うのですが、この冒頭に「わたしは、あなたを」と記されています。これは、この世界を創造なさり、エジプトから解放された救いの神が、その民に向かって、「わたしとあなた」という関係においていてくださるということです。この呼びかけはとても大事です。神と私たちは「わたしとあなた」と呼びあうことのできる関係、間がらなのです。

自分のことを話して恐縮なのですが、私たち夫婦は、お互いのことを名前で呼び合います。私は妻のことを「愛」と呼びます。妻は私のことを「直樹」と呼びます。毎日、お互いにそう呼び合っていますから、その会話を聞いているまだ一歳九カ月の娘は、私たちのことを「直樹」「愛」と呼び捨てにします。最近、ようやく「とーちゃん、とかパパ」と呼ぶようになりました。聞いた事のある方も多いと思います。私は子どもの手前だからということで、私の母ではない妻に対して「お母さん」とはどうしても呼べません。 先日も、私の両親のところに遊びにいきました。普段はほとんど二人で生活していますが、いまだにお互いのことを「お父さん」、「お母さん」と呼んでいます。もう子どももいないのにです。もちろん長い子育ての間でそうなったのは想像できることですけれども、少し不思議な感じがするのです。これだけではありません。私たちは、日常の生活で誰かを呼ぶ時に、相手の名前で呼びかけないで、「先生」とか「奥さん」とかと呼んでしまうことがあります。これは、「わたしとあなた」という関係ではありません。お互いが本当にむかいあうことをしないで、その間に「何か」があるのです。たとえば、その間に「こども」を挟んで、お互いのことを、「子どもから見た視点でお父さん」と読んでしまうのです。それは、とても残念なことです。 神さまは、私たちにむかって「あなた」と語りかけてくださるということは、私たち自身に深い関心をもっていてくださるということの現れです。他の誰でもない、「あなた」をご覧になって、十把一絡げでなくて、「あなた」と語りかけてくださるお方なのです。それは、つまり、神であられる主に、私たちが受け入れられているということです。

 カトリックの聖書学者の雨宮慧先生が、もうずいぶん前のことですけれども、『旧約聖書のこころ』という本をだされました。旧約聖書のいろいろなテーマを取り上げながら、そこにどのような神の思いがこめられているのかを明らかにしてくださった大変素晴らしい本です。その本の最初の項目が「戒めを語る今日 –おきての意味–」となっています。そこで、神はどのような思いで戒めを与えられたのかが記されています。全部を紹介することはできないのですが、その中にこんなことを書いておられます。 「民は神の導きによって神の手厚い配慮を知り、今まで知らずにいた、新しい生き方に気づく。神の慈しみが彼らを包み、その慈しみのなかで真の幸せを生きる。救いとはかぎりなく優しい神のまなざしに出会うことであり、おきてとはそのまなざしを見続けようとする心のことだ」 この最後の部分が特にいいのですが「救いとはかぎりなく優しい神のまなざしに出会うことであり、おきてとはそのまなざしを見続けようとする心のことだ」と書いておられます。 私たちを救ってくださる神は、私たちに優しいまなざしを向けてくださっているのです。この十戒があたえられたこともそうです。わたしたちに向かって「あなた」と語りかけてくださることもそうです。その中で、戒めをお語りになるのです。その戒めというのは、この神の愛のまなざしを見続けようとすることなのだと、雨宮先生は言いきるのです。この戒めの中にこそ、神の愛のまなざしがこめられている。神がどのように私たちを自由に生きさせようとしておられるか。右も左も分からないままで、何の目当てもなく生きなければならないのだと思いこんでいる人間を、愛のまなざしを向けて、こう生きたらいいのだ。こう生きることが、あなたが自信をもってその道を進みつづけていくことになるのだと、まさに手を取ってその人を導くように、ここに十の言葉を刻みつけようとしておられるのです。 ですから、「わたしとあなた」という関係を明らかにした後で、神は続けてこのように言われました。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」あなたがエジプトで自由を奪われ、生きる意味を失い、ただ言われることだけをする人間性を完全に奪われていた状況から解放したのは、わたしである、と宣言なさったのです。 神の救いの事実が「奴隷の家から連れ出した」という言葉の中にあります。あなたは、今、この神の救いの事実をもう味わっているのだと、今置かれている状況をお語りになったのです。確かに、この時、イスラエルの人々は荒野で何十年も放浪の旅を続けています。食べるものは神があたえてくださる天からふるマナとウズラです。毎日、テントで生活し、連日のように移動を繰り返して、落ち着いた生活を手に入れることができていないという事実に目をむけることももちろん出来るのです。実際、この生活に人々は愚痴を言い続けていたのです。けれども、神は、今あの奴隷から解放されて、自由を味わうことができる者とされているという、神の救いの事実に目を向けさせるのです。

このことは、現代に生きる私たちにとって、とても大事なことです。主イエスを信じて、神の子どもとされた。罪が赦されたという。救われたというけれども、私の毎日の生活は何にも変わっていないではないかと感じるのです。神の救いの事実に目をとめることができないで、現実の生活苦にだけ目がとまり、救われる前と何も変わらないままで、毎日目の前におこる困難をどう乗り越えるかだけを考えてしまう、その生活から抜け出せないでいるのです。 それは、とても簡単なことなのです。神が与えてくださった自由に目をとめて、その自由を選びとりながら喜んで生きることよりも、目の前の厳しさにだけ目をとめて、不平を言い続けることのほうがリアルだし、そしてそう生きることのほうが簡単なのです。 もう一度言いますが、だからこそ神は、そこの道標を置いてくださったのです。どう生きたらよいのかを、自分で考えて選び取って行くことができる指針を、道標をお与えになったのです。そして、まさにそれこそが、雨宮先生に言わせれば、神の愛のまなざしを見つめ続ける、いましめに生きることなのです。 ここに自由があるのです。神は、私たちがこの現代という生きにくい、荒野の時代にあっても、希望をもって生き抜くことのできるように、あそこにも、ここにも、標識を立ててくださるのです。こう考えればいいのだ。こう決断すればいい。この十戒を見つめさえしていれば、あなたは喜んで、わたしが与えようとしている本当の自由を味わうことができるのだと。 ここに、私たちの人生を決定する判断の基準があります。ここに、自由の道標があるのです。わたしとあなたという関係に招き入れてくださる救いの神の、愛のまなざしを知ることこそが、この荒野の中で、勇気をもって決断する自由を私たちに与えてくれるのです。

 お祈りを致します。

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