2013 年 11 月 10 日

・説教 出エジプト記20章7節 「主の御名を呼ぶ」

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2013.11.10

鴨下 直樹

あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかれない。

 

 今日は十戒の第三の戒め、「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めです。

 みなさんの中にもご経験のある方がおられるかと思いますが、自分がいない場所で、自分の名前が使われるという経験がおありになるのではないでしょうか。「たしか、あの人があの時にこう言っていた」、「これはなになにさんの言っていたことだけれども」、「なになにさんも参加すると聞いたので、私も参加したんだけれどもなぜいないのか」。色々な状況があると思いますけれども、自分の名前が正しく使われていればいいのですけれども、まったく身に覚えのないこと、あるいは悪意をもって使われているとすればいい気持ちはしません。そんな話が耳に入ってきますと、自分の名前を出して話をした人に対して嫌な気持ちをもつことになってしまうことがあります。この第三の戒めが戒めていることは、まさにこのことです。

 名前が正しく用いられていないということは、はじめにその意図はなかったとしても、結果として自分の名前が軽んじていると感じてしまいます。まして、その名前が神さまの名前だというのですから、これはよほど注意深くする必要があります。先日も、ある政治家が天皇に直接手紙を手渡して自分の政治的な意見を知ってもらおうとしたという出来事がおこりました。そこで、一世に、天皇の名前を政治利用することになるのだと騒いでおりますから、みなさんも良くお分かりいただけるのではないかと思います。自分の都合のために相手の名前を用いるということは、相手に対する威厳も、尊敬もなくなってしまいます。

 今から何年も前のことですけれども、ある大きな戦争の時に、教会が戦争で使うミサイルに聖水をふりかけて祈ったという出来事があったそうです。「神さま、このミサイルが用いられますように」と祈ったんだそうです。本当の話かと耳を疑いますけれども、そういうことがあったという記録を読んだことがあります。このような例は、神の御名を間違った仕方で用いたのは誰の目にも明らかなことです。けれども、当事者はというと、それが間違ったことであるということに気づかないということが起こるのです。自分がしたいことやろうとしていることに没頭しすぎていると、たとえそれが神さまであろうとも、利用してしまってもいいのだという気持ちになってしまうことが起こってしまいます。

 あるいは反対に、そのようにして神の御名を軽はずみに、あるいは自分勝手に用いていっていると、今度は自分の祈りに効果がないと判断すると、手のひらを返したように、こんなものは必要ない、意味は無いのだと決めつけてしまうことも起こります。やはりそこでも神の名を軽んじるということが起こってしまいます。ですから、この戒めは、私たちの信仰の歩みの中で、実に多くの場面で犯す過ちであるということがおわかりいただけるのではないかと思います。こういったことがこの戒めでおしえられているのです。

 

 今、ずいぶん極端な例をあげて、この戒めがどのように誤って用いられてしまうかについて考えてみました。けれども、少し冷静に考えてみますと、これは、私たちの日常に形を変えて色々な場面でこの過ちを犯してしまうということに気をつけていくことが大事です。

 この戒めの後半にこんな言葉で続けられています。「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」

 「罰せずにはおかない」とは厳しい言葉です。この戒めが守られなければ、神からの制裁があるというのです。そうであるとすればよほど気をつける必要があるわけですが、そこでもまず知っていなければならないのは、神はご自分の名前を正しく呼ばれることを求めておられるのであって、人を罰するためにこの戒めを与えているのではないということです。私たちの神、主は私たちが御名を呼ぶことをとても喜んでくださるお方です。というのは、私たちが名前を呼ぶということは、そこに深い信頼関係があるからできることだからです。

 創世記十六章にアブラムの妻サライのところにいた女奴隷ハガルの出来事が記されています。アブラムの妻サライは、自分たちに子どもがないので、自分の奴隷のハガルによって子どもをもうけようとして、イシュマエルが生まれてきます。ところが、ハガルは自分に子どもが生まれ、主人のサライに子どもがないことでサライを見下げるようになります。それで、サライはこのハガルをいじめてしまいます。ハガルとイシュマエルは逃げ出してしまいます。逃げ出すとっても、外は荒野です。当然子どもを養うことなどできません。そういう状況の中で、神はこのハガルに目を留めてくださいます。その時に、このハガルは、神のことを「エル・ロイ」と読んだと記されています。ハガルは自分のような過ちを犯した者であっても神が自分を見つめていてくださると知って、「見ていてくださる神」と、神の御名を呼んだのです。ですから、神の御名を呼ぶ、主の御名を呼ぶということは、とても素晴らしい事で、神はこのように正しく呼ばれることを喜ばれるお方です。

 ところが、この十戒に「罰せずにはおかない」とありますから、この後、イスラエルの人々は神の呼び名を変えてしまいます。新改訳聖書ではこの神のことはヤハウェという御名が記されている時には太い字で「」と表記しています。この太字で書かれているときは、この真の神の御名で記されていますが、時折細い字で「主」と書かれている場合があります。これは「アドナイ」と言う言葉で、この世でいう「ご主人」というような意味です。イスラエルの人々は間違って主の御名を用いると神さまから叱られてしまうので、「ヤハウェ」という名前を呼ぶのを止めてしまったのです。これもまた、この戒めをただしく用いたことにはなりません。イスラエルを救う慈しみ深い神の御名を、この世の主人という言葉と同じにしてしまったからです。

 けれども、罰されてはたまらないからと便宜上の名前をつけて、それでよいことにしてしまったのです。確かに賢い方法ではありますけれども、自分の名前が呼ばれなくなってしまうのですから、それはとても残念なことです。

 

 このように、私たちはこの戒めの主の心を正しく理解しようとしないで、自分の都合のいいように神の名を用いようとしたり、制裁が加えられてはかなわないからといって、主の御名を呼ぶのを止めてしまう。そのどちらもこの戒めの心を理解したことにはなりません。

 先日も、教会で学生たちと一緒にゲームをしていまして、私が一番弱かったのです。何度やってもうまくいきません。そうすると、ひとりが「日ごろの行いが悪いからやって」と私に言いました。その時はみんなで笑ったのですけれども、ここにも、この戒めで教えられていることが姿を表しているなと思います。ゲームをしているときにも話したのですけれども、「日ごろの行いが悪いのは、神さまが制裁を加えておられるからだ」ということです。私も牧師家庭で育ちまして、親は一度もそんなことを教えていませんけれども、「悪い事をすると、罰が当たる」ということが、知らないうちに身についてしまっていました。私も子どもの頃には同じように、この言葉を使った事があるのです。いや、神学校に行くまでほとんど意識しないで使っていたのです。神がどういうお方かということが正しく理解されていないと、このような間違った考え方がいつまでも身についていってしまいます。特に、この戒めでは「罰せずにはおかない」と書かれていますから、余計に、神の罰ということを考えてしまうのです。ここで、主が教えようとしておられるのはどういうことなのでしょうか。

 

 主の祈りの冒頭の祈りの中に「御名があがめられますように」という祈りがあります。この十戒の第三の戒めを積極的に言い換えるとすると、この主の祈りの言葉で言い表すことができます。主の御名は、あがめられるために用いられるものです。主の御名は、私たちが主をたたえたいと思う時に、正しく呼ばれている、正しく用いられていることになります。つまり、神の栄光をあらわさない用い方はみな、神の御名を正しく用いたことにならないのです。主を賛美する時、主に語りかけて祈る時、主を証しするとき、つまり、賛美と祈りと宣教の中に神の御名が用いられることこそが正しく用いられている時なのです。

 

 今から子どもの祝福を祈る式を致しますけれども、子どもたちにもこの主の御名を聞くときは、いつも主にある喜びの中で主の御名が語られるのであって、決して私たちの使用の目的のために、子どもを畏れさせて、親の言うことを聴かせるために用いてはいけません。そこに、私たちが神の御名を間違って使ってしまう危険があるのです。悪い事をしていると神さまは罰を与えるよ。神の御名はそのように使われるべき名、私たちの躾の手段として使われてはならないのです。そうではなくて、主の御名を聞く時、それはいつも喜びの中にある御名なのです。祝福の御名なのです。この主の御名による祝福が、ここにお集いの方々にあるように、特に、祝福を祈ろうとしている子どもたちのために、主の御名で祝福を祈りたいと思います。

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