2013 年 12 月 1 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-5節 「はじめにことばがあった」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 12:19

 

2013.12.1

鴨下 直樹

 

  今日、礼拝においでになって、「あれ?」と思われた方があるかもしれません。私たちの教会では今十戒の御言葉を聞き続けております。それが、今月から礼拝説教がヨハネの福音書になっているからです。先週お配りした教会の予定表にもそのことがすでに書かれておりましたが、十戒の説教を途中でやめてしまって、鴨下牧師は何を考えているのだろうと思われた方が少なからずあるだろうと思います。ご安心ください。十戒は来年また続けて学ぶ予定にしております。実は、十戒の説教を始める前にすでにヨハネの福音書から講解をすることを決めておりました。始めるのはぜひ、アドヴァントからにしたいと思っておりました。アドヴェントというのは、ほとんどの方はご存知かと思いますけれども、クリスマスを迎える四週間前からの季節のことをアドヴェントと言います。そして、教会の暦ではここから一年が新しくなります。このアドヴェントからヨハネの福音書の説教をはじめようと決めていたのですけれども、ピリピが終わった時点で数回間があいてしまいます。それで、その間に十戒の説教をしたのです。来年また十戒を最後までして、この十二月はこのヨハネの福音書の第一章一節から十八節までを何回かに分けて、御言葉を聞きたいと思っています。

 予定表に一カ月分の説教箇所と、説教題がすでに記されております。実は、一月先の説教題まで付けておりますけれども、説教がすでにできているわけではありません。これは、前任の後藤牧師の残した、私にとっては弊害と言ったほうがいいかもしれませんけれども、毎月、翌月の説教箇所と説教題、讃美歌、あらゆる奉仕担当まで表にしてお渡しすることになっています。このために、まだ準備もしていない説教の題まで書かないといけないわけですから、これは大変なことです。ですが、はっきりしていることは、この十二月の間、ずっとこのヨハネの福音書の冒頭の部分の言葉を丁寧に学びたいと思っているのです。それほどに、この部分は内容の豊かな言葉が詰まっております。それで、何度かにわけて学んでみようと思ったのです。

 

 教会の祈祷会で今、ヨハネの黙示録を学んでおります。出席してくださっている方々は大変面白がってこの学びに出てくださっております。ヨハネの黙示録は難しいという印象を持っておられる方は少なくないと思います。けれども、難しがって読むことを止めてしまうのは残念なことで、このヨハネの黙示録には実に豊かな言葉が満ち溢れております。

 実は、私自身、これまで何度か部分的にはヨハネの福音書から説教をしたことはありますけれども、講解説教をしたことは一度もありません。苦手意識があって避けてきたのです。一緒に働いておりますマレーネ宣教師も、もう三十年以上日本の教会で奉仕しておりますけれども、日本で一度もヨハネの福音書からの説教を聞いたことがないと言っておりました。何となくわかる気がするのです。ですが、祈祷会で、ヨハネの黙示録を難しいからといって避けないで読むと、そこにはびっくりするような言葉との出会いがあるのだと一方で語っていながら、自分自身で苦手意識を持ってはやはり良くないだろうと思いまして、意を決してヨハネの福音書の説教からの説教に挑戦してみることにしたのです。もちろん、ヨハネの福音書に苦手意識があると言いましても、私はこのヨハネの福音書の中にある実に豊かな言葉の数々に心捕らえられてきた人間です。私が牧師になるきっかけを与えられたのもこのヨハネの福音書の言葉です。ヨハネの手紙の第一も、ヨハネの黙示録もすでに、この教会で語ってきました。もう、覚えておられる方があるかどうか分かりませんけれども、実はこ箇所も、私がこの芥見教会に来たばかりの時にすでに一度説教をしております。それほど、このヨハネの語る言葉を大切にしております。

 ついでに、少しお話ししておく必要があると思いますけれども、このヨハネの福音書を書いたのは、十二弟子のヨハネであるということに昔からなっております。それで福音書のタイトルとしてヨハネの福音書となっているわけです。そのために、いまでも便宜的にヨハネが書いたと言われておりますけれども、厳密には誰が書いたものであるかははっきりしません。使徒ヨハネとは別の長老ヨハネであるという説明がされる場合もあります。 今となっては、見た人が一人もいないわけですから厳密なことは誰にも言えませんが、これまでの習慣にならって、私はこの福音書を書いた著者をヨハネとして話しますが、いずれにしても、ヨハネの福音書にしても、ヨハネの黙示録にしても、ヨハネの第一の手紙にしても、ある共通するものの考え方があります。それは、今日の多くの学者はヨハネの共同体とよばれる集団があって、その影響が深く関係しているといいます。そのヨハネの共同体、つまり、ヨハネの教会とよばれる集まりがあったのはあの主イエスの弟子のヨハネたちがいたカペナウムの周辺であったことは間違いのないことのようです。ですから、昔からこの福音書が十二弟子のヨハネとされたのも、無理はないことであったということはできると思います。

 

 さて、このヨハネの福音書ですけれども、この書き出しはじつに魅力的な書き出しで始まります。今日は、一節から五節までの御言葉に耳を傾けたいと思います。一昨年の九月に、私たちの教会であの絵本の福音館の現在は相談役をしておられます松居直先生に講演をしていただきました。覚えておられる方も多いと思います。松居先生が私どもの芥見教会で講演してくださった時に、話の最後にこのヨハネの福音書の第一章一節から五節を朗読されました。その時にお話しくださいましたけれども、松居先生自身、はじめて教会に行った時に、このヨハネの福音書の言葉を聞いて心を打たれたのだと話してくださいました。ここに何かあると思ったと言われました。まだ覚えておられる方も多いと思います。実はあの話を聞いた時から、いつかヨハネの福音書の説教をと考えていたのです。ここには何かある、そう思わせる魅力的な語り出しをヨハネはしているのです。

 ヨハネの福音書のこの冒頭の部分、とくに一節から十八節は言ってみればクリスマスの事が書かれているということができます。マタイの福音書やルカの福音書のようなクリスマスの物語を書き記しませんでしたけれども、なぜ、主イエスがこの世にお生まれになったのかがこの所で書かれていると言っていいと思います。しかも、内容はどう読んでもここで語られている「ことば」は、主イエス・キリストの事であると書かれているのにもかかわらず、最後の十七節になるまで、この名前が記されてはいません。ヨハネはこうして、この「ことば」こそが、あのクリスマスでお生まれになられた神の御子、主イエス・キリストなのだということを書き記したのです。

 

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

松居先生でなくとも、はじめにことばがあったというこのヨハネの福音書の冒頭の宣言は、耳にする者にさまざまなことを考えさせます。私たちは毎日言葉の中で生活しています。私たちの生活にはいつもあらゆる言葉があふれています。毎日、私たちはさまざまな言葉に心動かされます。嬉しくなることもあれば、悲しくなることもあります。憎しみを抱くことがあれば、希望を抱くこともあるのです。そういうさまざまな言葉の歴史というものがあるとすると、そのことばの起源をずっとたどっていくと、ひとつのことばにたどりつく。「そのことばは神とともにあった。そのことばこそが神であったのだ」とヨハネは語ります。誰も思いついたこともないようなことを、ヨハネは言葉にしたのです。そして、さらに

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

四節で書き記しています。根源であることばは、いのちの言葉、そして、人の光なのだとヨハネは書き進めて行きます。この初めにあったことばは、人を死へ、悲しみへ追いやることばなのではなく、暗闇へといざなうのでもない、人にいのちを与え、人の光となることばが、はじめにあったことばなのだと、ヨハネは宣言するのです。

 

 いったい、どれだけ多くの人々がこの言葉に慰めを見出してきたことでしょう。いのちのことば、光の言葉。これこそが、私たちがもとめている言葉なのです。

 松居先生が教会を訪ねてこの「ことば」と出会ってから、この人にいのちを与え、光を与えるほんとうの言葉と出会ってから、すべての人がこの「はじめにあったことば」と出会うべきだと思うようになります。それで、このほんとうの言葉と出会うために、そのことばが聞こえるようにしたいのだと、ある本の中で書いております。子どもの本をつくって来た歩みから、ことばが人をつくるのだということを松居先生はよく知っています。そして、ことばによって人は育っていきます。けれども、本当のことばと出会うことが何よりも大切なことなのだということを、松居先生はこのヨハネの語る言葉を耳にして以来知るようになったのです。

 私たち夫婦には長い間子どもがありませんでした。それでも、松居先生の書かれた本を二人とも非常に喜んで読んできました。今、子どもが絵本を毎晩何度も読むように求めます。毎晩十冊は読んでやります。そう求めるのです。まだ、ふたつ、みっつの言葉が続けて言える程度しかことばが分かりませんが、昨日も、図書館から借りてきた「もこもこ」という絵本を私が手に取ると、まだ十回も読んでいないと思うのですが、もうほとんど覚えてしまっています。もちろん、言葉の多い絵本ではありません。短いことばです。一ページめは「シーン」、次のページは「もこ」、三ページめは「もこもこ」と「にょき」という言葉しか書いていません。けれども、全部覚えています。こうやって、言葉を体験していくのだということがよく分かります。

 こういう言葉の体験をしながら、親として心から願うのは、この子が、自分を本当に生かしてくれるいのちの言葉に出会ってほしいということです。ひかりの言葉を知ってほしいということです。これにまさるものは何もありません。何もなくても、このはじめからあったことば、いのちのことばを、人の光であることばを聞き取ることができるなら、闇に支配されることはないのです。

 はじめにあったことばは、いのちのことばです。人の光となる言葉です。決してあなたを傷つける言葉でもなければ、闇に陥れる言葉でもないのです。このことばと出会うなら、ここに何事かがあることを感じ取るのです。そして、その「何事か」こそが、私たちすべてのひとにとって、もっとも必要なもの、つまり、主イエス・キリストなのです。このことばは、今、私たちの前に、私たちに聞き届けられるために、クリスマスに届けられたお方、主イエスなのです。

 

 お祈りをいたします。

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