2013 年 12 月 8 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-8節 「いのちの光」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:33

 

2013.12.8

 

 鴨下 直樹

 先週からヨハネの福音書の御言葉をともに聞き始めました。先週も、ヨハネの説教をするのは覚悟がいるのだということをお話ししました。どんな覚悟が必要になるのかと言いますと、、ヨハネについて書かれた文献は非常にすぐれたものが幾つもあります。そうすると、できるかぎりそれらの本には目を通しておかなければなりません。どれもやさしいものばかりではありません。難解なものもあります。昨日も妻に、まだ読むべきものが全部読めていないと話しましたら、そんな小難しい話をしなくてもいい、と言われてしまいました。そうです。難しいものをずっと読んでおりますと、あの本も素晴らしい、この本も素晴らしいということになって、色々と盛り込んで行くうちに何の話だかすっかり分からなくなってしまうということが起こります。ですから、自分の頭の中には入れておく必要はありますけれども、それらを全部ここでみなさんに聞いてもらおうとすれば大変なことになってしまいます。ですから、そういった数々の本を読むということは覚悟のいることですけれども、同時にとても豊かな時間でもあります。色々な、豊かなことばとの出会いをそこで味わうことができるからです。

 今日の説教の箇所は一節から八節としました。本来であれば一節から十八節とすべきです。十八節までがひとつのまとまりになっています。しかも、この十八節までの部分には実に豊かな内容があるために、どうやって区切ったらいいのかということがすでに大きな問題でもあります。どの学者も、あるいは説教者もそのことで苦心しています。特に、今日のところはヨハネが登場してくるところです。十五節にもこのヨハネの言葉が出て来ますから、当然、十五節についても一緒に取り扱う必要がありますが、今日は主に、八節までに焦点を当てて話したいと思います。

 

 さきほど、色々な本を読んだという話をいたしましたが、ヨハネについて書いている本の多くは、この冒頭から出て来る「ことば」についてずいぶん丁寧な註解をいたします。これは、「ギリシャ語ではロゴスという言葉で、この言葉の意味は・・・」という解説をするわけです。先週も短い時間でしたけれども、この冒頭の「ことば」についてすこし考えてみました。新改訳聖書はこれをひらがなで表記いたしまして、普段私たちが使っている「言葉」とは違うのだというニュアンスを出そうと試みました。新共同訳聖書をお持ちの方は、そこには漢字の「言」という字を一時かいて「ことば」と読ませています。ここで、色々な難しい説明をしようとは思いませんけれども、今朝は少しこの「ことば」が旧約聖書ではどのように表現されていたのかをまず考えてみたいと思います。旧約聖書のヘブル語で、この「ことば」は「ダーバール」という言葉です。ところが、この「ダーバール」には、「ことば」という意味と、「出来事」という二つの意味があります。これは、神のことばとわざによって神ご自身が働かれるという意味で、このふたつを切り分けて考えることができないということです。そして、この「ことば」と「わざ」は、「神の言葉は必ず出来事となる」という意味でもあります。

 

 いつも、お話ししていることですけれども、「神が語りかけると、かならず何かが起こります。」たとえば、礼拝で神の言葉を聞きます。そうすると、聞く人の中で何かが起こります。たとえばそれは悔い改めが起こることもあるでしょう。慰められるということもあれば、道が示されるということもあります。そのように、かならず、神の言葉が語られると私たちの中でそれは出来事となるという性質があります。

 ヨハネがこの福音書の冒頭で、主イエスとは書かないで「ことば」という言い方で意図しているのは、神は「ことば」と「わざ」とでご自身をしめされるのだということを言い表そうとしているのです。これを、「啓示」と言い換えることもできます。神は、ことばとわざ、出来事において、ご自身を啓示なさるのです。そして、それは主イエスによってなされるのだということなのです。

 

 ヨハネはこの「ことば」をすぐに「光」と言い換えました。直ぐに思い起こされるのは天地創造の出来事です。創世記にしるされている天地創造の時、はじめに、神が「光よあれ」と仰せられると、光ができたと記されています。これを読む人はだれもがこの出来事を思い起こすと思います。神が「光よあれ」とことばをはっすると、それはそのようになったのです。こうして、聖書は、神が最初にこの世界にもたらしたものが光であったと書いています。ヨハネはそれをうけて、神がことばによってもたらしたものは光そのもの、つまり、神の性質そのものが光なのだとここで語っています。

 私たちにとってこのことはとても大切なことです。神の言葉はこの世界に光をもたらすものだと宣言しているからです。私たちは、毎日のように聖書の言葉にふれます。そこで、キリストと出会います。そこで、何かが起こります。その何かとは、神がそのことばによってもたらす光の中にいきるようになることだと言うことなのです。

 この季節になるといつも思い起こす、竹森満佐一牧師のクリスマスの説教があります。仕事の帰りみち、突然、目の前に明るい光が飛び込んで来ます。前を歩いていた人が、自分の家の扉を開けたとたん、その家の主人を迎える明るい声が聞こえてくる。そして何事もなかったかのように扉が閉じられまたもとの闇に戻る。あのクリスマスの夜、羊飼いたちを訪れた天使たちがもたらした天のまばゆいばかりの光は、そのようなものだったのではなかったかというくだりで説教がはじめられるのです。

 説教のままではなくて、読んだ私の印象ですから少し内容が異なっているかもしれませんけれども、忘れられないイメージの伴う豊かな言葉です。私たちが日常の生活のなかで味わう光はそのようなささやかなものであるかもしれません。しかし、そのような光であったとしても、そうして、確かな光があるのだと予感させるには十分すぎるものです。

 

 クリスマスの日、神はこの闇の世界に光をもたらすためにお生まれになりました。この時、神がこの世界にもたらした光は、ことばを通して私たちに届けられるのです。主イエスの言葉を通して、その光に包みこまれることができるのです。そして、この光に対して、闇は、この闇の世界はそれに勝つことができないのだと宣言されているのです。これこそが、クリスマスに私たちが聞くべき福音です。神が言葉をとおして私たちにもたらしてくださる光は、かならず、出来事となる、それを味わうことができるのです。

 

 このヨハネの福音書はさらにそこでヨハネを登場させます。他の福音書ではバプテスマのヨハネとか、洗礼者ヨハネとして紹介されているヨハネのことです。この福音書が書かれたころには、明らかに、主イエス・キリストの教会、分かりやすく言うと、グループと、また、このバプテスマのヨハネのグループがありました。そのことは、聖書の中に何度も出てまいります。そうすると、ヨハネのグループに属する人と、主イエスのグループに属する人々との間に、色んな違いがあったのは当然のことです。おそらく、その中で、どちらのグループがより重要なグループなのかというようなことが議論されたことでしょう。どちらのグループも同じ神を信じる人々です。ただ、役割が若干異なっておりました。このヨハネの福音書はこのヨハネのグループの人々のことを、他の福音書とは別の描き方をしています。ですから、バプテスマのヨハネとは言わないのも、その一つです。この六節から八節記されているのは、この神から遣わされたヨハネが「あかしのために来た」と説明しています。このヨハネは証をする者なのだということが、ヨハネのグループの教会の理解だったということなのです。

 

 先日、私たちの教会の礼拝に深谷福音自由教会の鈴木先生をお迎えして、礼拝説教をいただきました。鈴木先生自身が息子さんの病気、ALSという何年もかけて筋肉が動かなくなっていく病の息子さんとどのように関わりながら、歩んでこられたのかということを証してくださいました。ずいぶん正直なことをお話しになりました。自分がどうやってこの難病とむかいあってきたのか、そのためにどれほど疲れ切ったことか、そしてそういう中で、先生は「現場の祈り」という言い方をされましたけれども、その厳しい現実の中でどう祈って来たのか、どう主に支えられて来たのかを証してくださいました。その証の中心は、自分がどのように主に生かされて来たかということでした。自分を通して働いてくださった主イエスのことをお話しくださいました。息子さんがその病の中で信仰に生きるようになったことが、どんなに喜びであったかということをお話しされました。

 証というのは、自分を語ることではありません。自分を生かしてくれているお方のことを証言することです。ヨハネはここで、自分がすぐれているのではなくて、自分は主イエスを紹介するために生きているのだと語ります。

彼は光ではなかった。ただ光について証するために来たのである。

と八節にあります。

 主イエスが働きを開始する前に、主の備えをしたのがヨハネでした。ですから、ヨハネの共同体の人々は、自分たちのほうが先に働きを始めたのだからというような思いが、ひょっとするとあったのかもしれないのです。けれども、ヨハネは、自分は光ではないのだということをわきまえていました。私は光をもたらすことはできない。私の言葉は、その光を証するためなのだと。

 このヨハネはこのあとの二十九節で主イエスをみながら「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と主イエスのことをさし示します。ヨハネの仕事は、主は神の小羊なのだと宣言することにあったのです。

 今、祈祷会でヨハネの黙示録を学んでおります。先日学んだヨハネの黙示録の第五章に、この小羊が登場してまいります。黙示録をしるしたヨハネは天の礼拝を目の当たりにします。天の門をくぐって、ずっとみてみると、そこに御座があって、みんなが礼拝を捧げているお方に注目します。すると、それは小羊で、ほふられたとみれる小羊が立っているのが見えたと書かれています。この「ほふられたと見える」という言葉は「喉が切り裂かれた」という言葉がもともと使われています。

 

 グリューネバルトという画家の描いたイーゼンハイムの祭壇画にこのバプテスマのヨハネが主イエスをさし示している絵が描かれています。この絵は主イエスがペストに犯された姿をしておりまして、奇麗な絵だという表現はできません。しかし、この絵はヨハネはここで「見よ、罪を取り除く神の子羊」という言葉を語っているであろうことを想像させます。ヨハネが「この方は光だ」と言い、「神の小羊」と言ったお方は、十字架におかかりになるお方なのだと、グリューネバルトは描きます。この十字架の足もとに、ヨハネ黙示録に出てまいります「喉が切り裂かれた小羊」が描き出されております。

 このグリューネバルトの描いたイーゼンハイムの祭壇画の絵を見ておりますと、ヨハネがここで決して、私は光ではないと言ったことばが、自己卑下する言葉なのではないことが良く分かると思います。人に光を与えるこのお方は、このようなお姿に自らをさらすことによって、人の光となる。それはつまり、ひとのすべての闇を、悲しみを、恐れを、そして死をすべて身に引き受けることによって、光となるのだというのです。

 

 私たちに語られている神の言葉は、気楽な言葉なのではありません。聞いても、聞かなくても、あまり違いはないのではなくて、まさに、このお方はご自分のいのちを全力でささげるほどに、必死な思いで私たちに語りかけ、私たちがこの世の闇に飲み込まれないために、いのちがけで、光を届けようとしてくださるお方なのだということを、私たちはよく知っていなければなりません。だからこそ、このお方が私たちに語りかけるときに、そこに何かが起こるのです。神の御業が起こるのです。闇の世界に光がもたらされ、死からいのちへ移され、嘆きが喜びに変えられるのです。そうして、今度は私たちが、このお方を、光の主を証する者へと変えられていくのです。

 

お祈りをいたします。

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