2013 年 12 月 24 日

・燭火礼拝説教 ヨハネの福音書1章1-18節 「いのちの光」

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2013.12.24

聖夜、燭火礼拝説教

鴨下 直樹

 

 最近クリスマスの季節になると、色々なところでイルミネーションを使った飾り付けをしているところが増えてきました。木曽川の河川敷にある138タワーの公園も夜になると沢山の電飾をつけたクリスマス・イルミネーションの飾り付けをしています。先日、車で通りかかって、家族で見て来ました。とても寒い夜でしたけれども、駐車場に車が入りきれないほど沢山の人が来ておりました。公園の中に入ってみて納得したのですけれども、とても色鮮やかな電飾で、本当に公園が不思議な光のイルミネーションで全く別世界にいるかのような不思議な美しさでした。子どもがとても喜びまして、今では遠くから一宮タワーを見つけるたびに、「ピカピカ見たい!」と叫んでいます。

 光というのはとても不思議なものです。そのように、人の心に訴える優しさがあるのでしょう。今晩もこうして、蝋燭の輝きを見ておりますが、この光もまたとても幻想的です。

 

5節「光はやみの中に輝いている、やみはこれに打ち勝たなかった。」とあります。

光は闇の中で輝くものです。闇に対する恐れがあるからこそ、光に私たちは慰められるのでしょう。 

 光というのは、いつも外から来るものです。自分自身で輝くことはできません。自分自身で光をつくり出すこともできません。私たちはその光を見る、あるいはその光に包みこまれることしかできません。この聖書箇所は「やみはこれに打ち勝たなかった」と言っています。

 この「打ち勝たなかった」という言葉は他の聖書のでは実に色々な翻訳がされています。

口語訳「光は闇の中に輝いている。そして、やみはそれに勝たなかった。」

新共同訳 「光は暗闇の中で輝いている、暗闇は光を理解しなかった。」

文語訳 「光は暗きに照る。暗きはこれを悟らざりき。」

 

もともとのことばは 「捕らえる」という言葉です。心に捕らえることができなかったと理解すれば、理解できなかったということになりますし、手で捕まえ損ねたと理解すれば、自分のものにすることができなかったということになります。

このような言葉はこの後で何度も繰り返されます。

10節 「世はこの方を知らなかった。」

11節 「ご自分の民は受け入れなかった。」

 これはどういうことかというと、ここで「闇」といっている光を捕まえ損ねたものは、この世界の人々のことだということになります。光を捕まえ損ねたから、闇の中に生きているのだということです。

 私たちは光に憧れています。光の輝きに照らされたいと思っています。しかし、その光を自分の手に入れることもできなければ、しっかりと理解することもできません。なぜなら、光は、外から照らすものだからです。自分の中に持つことはできないのです。

 闇は恐ろしいものです。恐怖を起こさせます。悲しみ、恐れ、不安、そういうものを全部まとめて闇と呼ぶこともできます。だからこそ、光を求めるのです。けれども、光を手にいれることができない。捕まえそこなっているのです。理解しそこなっているのです。

 しかし、このヨハネの福音書はこの光のことを、「ことば」と表現しています。そして、これはとても大事なことです。私たちは言葉であれば理解することもできるし、それを自分の心の中に受け入れることもできるのです。

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

と四節にあります。

 

 神はクリスマスに光をお与えになりました。ことばのひかりです。このことばにはいのちがあります。そして、このいのちは人のひかりです。この日お生まれになられた神の御子、イエス・キリストはそのことばを通して、私たちにいのちを与え、私たちにひかりをもたらすのです。私たちが手にすることができ、理解することのできる光を、この日、私たちにもたらしてくださったのです。

 だから、私たちはひかりに照らされながら、この年もクリスマスを祝うのです。

 

お祈りをいたします。

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