2013 年 12 月 29 日

・説教 ヨハネの福音書1章1-18節 「恵みとまことを実現させるお方」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 23:06

 

2013.12.29

 

 鴨下 直樹

 毎年この季節になると感じることですけれども、お店にまいりますと、もうどこもクリスマスの飾りはかたずけられてすっかり正月の飾りつけに様変わりします。二十五日に買い物に出かけますと、もうすでにクリスマスはいつのことだったのかというほどに、隅に片づけられているのをみて寂しい気持ちになります。

 私たちは今年の年間聖句としてヘブル人への手紙十三章十四節の御言葉をあたえられました。新共同訳聖書では「私たちはこの地上に永続する都を持ってはおらず、来るべき都を探し求めているのです。」となっています。私たちが探し求めているのは、この世で今の一時を楽しむのではなくて、主がもたらしてくださる御国を求めているのだという言葉です。年末になると、本当に、この世が求めているのはいかに、今の幸せを長く感じられるかということに価値を見出していることに驚きます。もちろんそれはお店のことにとどまりません。テレビを見ていてもそうです。政治のあり方もそうです。この世の中の考え方そのものが、今にしか価値を見出していません。それと、同時に、こんなにも目まぐるしく次々に代わっていくさまざまなものを目にしながら、本当の今の世で、人は少しでも長く幸せを感じていたいと思っているのだろうかという矛盾を感じずにはいられません。それほどに、私たちの生活は安定というものとは矛盾するかのように、次々と新しい商品、最先端のファッション、流行りの考え方などを誰よりも先に手にいれることにつきあわされている気がしてなりません。そういう新しいものに追われる毎日の生活の中で、私たちは何が人にとって本当に大切なことなのかを考えないようにさせてしまっているのではないかと考えざるを得ません。そして、人々もまた大切なことを考えることを避けるかのように、次々とでてくる新しいものに身をまかせることに安心を得てしまっているのかもしれません。

 

 ヨハネの福音書を今私たちは学び始めています。今日で、四回目になります。ヨハネはここで、私たちにいのちを与え、わたしたちの光となることばを紹介することで、この福音書を書きはじめました。今日は特に、十四節から十八節を中心にみていきたいと思いますが、ヨハネはこのヨハネの福音書を書きはじめるにあたって、私たちにもっとも必要なものは何かということを書いています。私たちにとってかけがえのないほどに大切なもの、それは、この世界の根源である「ことば」。永遠に確かなことばを得ることこそが大切なのだと語りはじめました。このことばは、いのちそのものであることば、人の光であることばです。そして、そのことばが、「人となって、私たちの間に住まわれた」というのが、クリスマスの出来事です。このクリスマスにお生まれになられた神のことばのことを、十四節で「この方は恵みとまことに満ちておられた。」と紹介しました。

 ヨハネはここで「恵み」について語っていますが、少し丁寧にこのことばについて書いています。つづく十六節ではこの「恵み」のことを「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と書いています。恵みというのは、ヨハネはここで、クリスマスにお生まれになられた方、つまり、主イエスの満ち満ちた豊かの中から受け取ることができるものだと言っているのです。イエス・キリストを通して、この恵みを、神の満ち満ちた豊かさを、受け取ることができるというのです。

 クリスマスの物語には何人もの人物がでてきます。牧場の羊飼いたち、東の国の博士たち。アンナとシメオンという老夫婦、それがマタイやルカの福音書が記した証人たちでした。この人々は、主イエスがどれほど素晴らしいお方であるのかを、それぞれが表しました。ヨハネの福音書がこのクリスマスの物語を描くときに登場させているのは、バプテスマのヨハネです。前にもお話ししましたけれども、注意してみると、バプテスマのヨハネはここでは「洗礼者」とは言わないで、「証しするために来た」と言われています。ヨハネは、このクリスマスにお生まれになられたお方が、どんなに豊かな福音を携えてきたのかを証ししたいのです。ですから、この十五節では「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。」とありますが、叫ばずにはいられないほどの豊かさがこのお方には秘められているのだと、黙っていることができませんでした。そのヨハネは何を叫んだのかというと、「私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。」と言っています。ヨハネもまたこのクリスマスに出て来る登場人物の一人として証ししているのです。そして、その証の内容は、少し変わっていまして、クリスマスにお生まれになられたお方は私より先におられた方だと叫ばずにはいられなかったのです。

 ヨハネはここで私の後でお生まれになられた主イエスは、実は私よりも先におられたのだと言っているのです。では、その「先におられた」というのはどういう意味かというと、最後の十八節で「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」と言って、このクリスマスにお生まれになられたお方は、神を見た方なのだと言っています。これはどういうことかと言いますと、だから、この方は神であり、この方が説き明かされることは、神をかたることなのだということなのです。

 

 少し理屈っぽいことをはじめに言いましたが、このヨハネの福音書の冒頭の流れは、ヨハネの福音書の性質をよく示しています。この福音書を書いたヨハネという人は、非常に理屈っぽい人です。けれども、その内容は、実に筋道の通った仕方で、これから主イエスについて書いていくけれども、この方のことを読んでいくうち、神がどんな豊かなお方で、そして、それはどれほど恵みに満ちているか、それがいかにまことを示しているかをしるしているのだということをはじめにことわっているのです。まさに、自分も叫び出したい思いをもちながら、クリスマスにこられた主イエスの恵みとまことを伝えたくて仕方がないのです。

 

 その恵みの内容については、これから福音書を学んでいくうちに少しづつ明らかになってきます。しかし、今日特に注意して学びたいのは、このクリスマスにお生まれになられたお方は、神が、人となられたということです。神が、人間と同じ身分になられたのです。それは、人を理解するためでもありますし、人に理解されるためでもあります。そこから分かるのは、神がどれほど優しい方かということです。

 この一年、私は何度病院に訪問に行ったか分かりません。色々な方が病のために入院されました。病になるということは、とてもつらいことです。痛みをともなう病があります。回復の見込みがなかなか見えてこない時があります。病室で眠れないことが起こります。病院の医者に症状を訴えても、なかなか理解してもらえないということがあります。私はそこに、同席して話を聞いて、祈って帰って来ます。それで、私は役目を終えるのですけれども、入院している本人はその後も入院生活は続きます。牧師が祈っても不安も取り払われないということが起こるでしょう。その苦しみを、不安を理解してもらえないということはどんなにつらいことでしょうかと思いながら、病院を後にすることが何度もあります。どれだけ訴えても、分かってもらえないのです。もちろん、それは入院生活にかぎったことではありません。私たちの日常生活の心配事や、恐れのほとんどはなかなか人に伝えられないことばかりです。ひそかに心の中で、誰にも伝えられないまま、その心にしまいこんでいることが、人には何と多いことでしょうか。

 しかし、私たちの神、主は、人となられたのです。私たちがその人生で味わいつくすすべてをご自分は味わわれたのです。そんなにつらいのか、そんなに怖いのか、そんなに痛いのか、そんなに不安なのか。それならば、私があなたを完全に理解するために、あなたの傍らにいようと、神は自ら決意して、私たちのところにおいでになったのです。

 ですから、私たちがこのクリスマスにお生まれになられた主イエスを受け入れる時に、私たちは神が、私たちにどれほど優しく、どれほど私たちを愛してくださっているのかを、しることができるようになるのです。それが、ここで語られている神の恵みの豊かさのひとつです。

 

 私たちが求めているのは、この世界で富を手に入れて、できるかぎりよい物を、よい考えを、よい教育を手に入れて、それを少しでも長い間、持続させるということなのではなくて、本当は、この世界で本当に安心して生きることができる。自分の生き方に確信を持って、健やかに生きることができる、それにまさるものはないはずなのです。私たちは「来るべき都を探し求めているのです」との御言葉を今年の初め与えられてきました。私たちが求めるべき、来るべき都というのは、そういう私たちの傍らに立って下さる神と共に生きることができるようになること以外の何物でもありません。

 

 だから、ヨハネはこのまさに、福音を叫ばずにはいられませんでした。「私の後に来られた方は、実は、わたしよりも先におられたお方なのだ!」。この方が来てくださるということは、私たちは本当に救われるということなのだ!と、叫びたくて仕方がなかったのです。この主イエスに満ち満ちた豊かさの中に、私たちは恵みの上に、さらに恵みを受け取ることができるのです。

 

 ヨハネはここで「恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」と書きました。それは今お話ししたような、豊かな計り知れない恵みという意味でもありますけれども、ヨハネはここでもう少し厳密な意味を持って語っています。

 ヨハネはそこで、十七節にこう記しました。

というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 今、礼拝で十戒を同時に学んでおります。来週からはまた十戒を学びます。この十戒はかつてイスラエルの民がエジプトにいた時に、神によって与えられた契約のしるしです。これは、今十戒を学んでおります中でも「自由の道標としての十戒」という言葉を何度か紹介しました。十戒それ自体が、神の恵みです。神の民がどう生きることを神が願っておられるのか、それがどれほど豊かな神の約束の中に生きることなのかを、この戒めは語っています。

 今日の十六節の「恵みの上にさらに恵みを」と書かれているところに新改訳聖書は注がついていまして、欄外に別訳として「恵みに代えて恵みを」となっています。これは、この文章を直訳すると、そう訳す以外にないのです。はじめ、神は神の民に、十戒という恵みの約束を与えられました。しかし、今度は主イエスによって、その時に与えられた恵みに代わる恵みとして、あるいは、その恵みにまさる恵みとして、主イエスによって受ける恵みがあるのだというこことが書かれているのです。

 今日の説教題を「恵みとまことを実現させるお方」としました。クリスマスにお生まれになられた主イエスは、神がどれほど深い愛で私たちと伴ってくださり、私たちが永遠の都、神の国で豊かな恵みの中で生きることができるように、まことを尽くしてくださるお方だということをここから聞きとって欲しいと願ってつけました。

 間もなく私たちは新しい年を迎えます。その一年は、神の満ち満ちた恵みをまことを受け取る一年となるのです。私たちはいつも、共にいてくださる主とともに、新しく迎える一年も常に望みをもって歩むことができるのです。

 

お祈りをいたします。

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