2014 年 2 月 16 日

・説教 主エジプト記20章16節 「偽りの心を捨てて」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 21:04

 

2014.2.16

 鴨下 直樹

 

 十戒を学び始めてようやく第九戒まできました。最初にこの十戒を学ぶことは自由の道標となるという、ロッホマンという人の言葉を紹介しました。私たちはこれこれをしなければならないという戒めを聞くと、それをまもならければならないなら、それは自分の自由を奪われることになってしまうとすぐに考えてしまうものです。実際、戒めに従う生活ということだけに心を向けていきますと、不自由を感じると思います。しかし、すでにここまで十戒の戒めを学んできて、この戒めの背後に神がどれほど深い愛をもってこの戒めを与えてくださったか。神はこの世界でどのように生きることを願ってこの戒めを与えられたのかが少しづつお分かりいただけたのではないかと期待しています。

 神に支えられて生きる歩み、そして、私たちと一緒に生きている人々と共にどうしたら豊かに生きることができるか。そのためにこの十戒を心にとめることによって、私たちは神が私たちを本当に自由に生きることができるようになることを望んでおられることを知ることができるのです。

 

 今日も、この後で教会総会を行ないます。みんなで話し合いながら昨年の教会の報告を聞き、また、新しい一年の計画を立てます。そして、その背景には同盟福音基督教会の教会憲法や教会規則にのっとって話し合いが進められます。普段、あまり教会憲法とか教会規則というものにふれる機会がありませんから、こういう時に、私たちはこういう制度をもっている教会なのだということを改めて感じるかもしれません。先日も、舛田神学生が教団の補教師試験を受けました。この補教師試験というのは、教団の規則集をあらかじめ渡しておきまして、さまざまな教団の規則がどのようになっているのかを質問して、それに答えていきます。そうすることによって、この教会の規則を正しく理解してもらうわけです。こういう規則だとか憲法というもののうえに教会は建て上げられて行きます。おなじようにこの十戒は、人として最も基本的なことを教えている、生きていく上での大切な使信だということができると思います。

 

 今から学ぼうとしているこの第九戒は「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」という戒めです。ここに「あなたの隣人に対し」と、ここではじめて「隣人」という言葉が出てきます。私たちは一人では生きていかれません。私たちは私たちの近くに住んでいる人たちと一緒に生活を築き上げていかなければなりません。そうすると、すぐにそこで問題になるのが私たちの言葉です。私たちは毎日、朝から晩まで言葉の中で生活しています。そして、その中にはさまざまな種類の言葉があります。優しい言葉、配慮に満ちた言葉もあるでしょう。けれども、自分の利益のために使われる言葉というのもあります。あながち嘘ではないけれども、真実をしめしてはいない言葉というのもあります。

 

 少し、この十戒が与えられた時のイスラエルの人々の状況を考えてみたいと思います。モーセはイスラエルの人々を率いて旅をしたということは、その間に色々な出来事がおこります。この前の十八章の十三節以下にモーセが実際にどのようにしてこういった問題を扱ったのかが記されています。十三節には

モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。

と書かれています。朝から晩までこの裁きのために時間をとられていたのです。大勢の人々と一緒に旅をしているのですから当然様々な出来事がおこります。けれども、朝から晩までモーセ一人で裁きをしていたのでは追いつかないのです。それで、モーセのしゅうとのイテロはモーセに助言をします。二十一節と二十二節です。

あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。

 こうしてイスラエルの人々は裁きをする制度をととのえていきました。はじめはモーセ一人で裁きをしていたのです。けれども、この裁きのときに大切なのは、その裁判の時にみなが嘘を言っていたのでは正しいことが分かりません。ですから、その証言が真実な証言であることが、この裁判の大前提となりました。

 

 ですから、この十戒の第九の戒めは、直接的にはこの裁判の時の証言のことを意味しました。もともとの文章を直訳するとこうなります。「あなたは嘘の証人として、あなたの隣人に不利に答えてはならない。」

 裁判の証言というのは、いい加減なことを話しては何が真理なのかわかりません。自分が見たことをありのまま話すことが求められます。

 前任の後藤喜良牧師が『キリスト教Q&A21』という本を出されました。後藤先生の時に洗礼準備会をする方々はこの本を使いましたので、私もそれを引き継いで同じ本を使って洗礼の学びをいたします。その本の中で後藤先生がある交通事故の現場に居合わせたことから、参考人として警察に証言をした時のことが書かれておりました。同じように事故を見ていた人から事情聴取をしたのですけれども、これがみんな少しづつ意見が異なっていたのだそうです。ところが、これこそ他の証人の人々と口裏を合わせていない証拠だということが、こういうところから分かったのだとその中で書かれていました。同じ出来事を見てもそれぞれに受ける印象は変わりますから、自分の感じたとおりに話すことこそがそこでは大事なのだそうです。

 ましてここで問われているのは、単なる事情聴取というのではなくて裁判の場面です。そういうところで口裏を合わせたり、相手の不利になるようなことを証言したりしていきますと、もうどこに真実な言葉があるか分からなくなってしまいます。よく映画などで、裁判の時に聖書の上に手を置いて真実な証言をするという誓約をする場面を見たことがあると思います。神がその証言の証人となるということは、畏れを引き起こさせるのです。

 私の母が今でもよく口にしますけれども、子どもはときどき嘘をつきます。どちらが先に手を上げたのか。誰が他の兄弟のものをとってしまったのか。子どもなりに言い分があります。そして、自分に都合のいいことだけを語ろうとします。そうすると、母はいつも私たちにお祈りをさせました。子どもながらに神さまの前に嘘をつけないことが良く分かっていたと母は言います。

 神の御前に畏れを持つ。このことがなければ、実は他の人との関係を持つことができません。みんなが自分のことだけを考え、自分のことばかりを主張しつづけるなら、言葉のキャッチボールにはなりません。弱い人にボールをぶつけることにしかなりません。それで、何よりもまず、この裁判の場面で偽りの言葉を通して相手の不利になることを語るのを戒めたのです。

 

 

 ハイデルベルグ信仰問答のこの第九の戒めのところの部分を少しみてみたいと思います。

問い一一二 第九戒は、何を、求めていますか。

答え わたしが、誰に対しても、偽りの誓いをなさず、誰に対しても言葉を曲げず、陰口をきかず、悪口をいわず、誰をも、調べることなく、軽率に、罪に定めることを、助けず、反って、すべての虚言、詐欺を、悪魔自身のわざとして、神の重き怒りをおそれるがゆえに、避けて、法廷においても、他のすべての事柄においても、真理を愛し、正直に語りまた告白し、自分の隣人の栄誉と威信とを、自分の力でできるかぎり、救いまた増すように、ということであります。

 

 この第九の戒めは、第一には裁判においての証言についての戒めだとお話ししました。けれども、それだからと言って、裁判の時だけ気をつければいいのだということではもちろんありません。ハイデルベルグ信仰問答はこの戒めについて、それは、私たちの日常のあらゆる場面でも偽りを口にすることは悪魔のわざであることを覚えてこれを避けるようにと勧めています。しかも、偽りの言葉を言わないという消極的な理由だけでなくて、私たちの隣人栄誉と威信とが救われ、増していくように、自分の力でできるかぎりのことをすることだとさえ言っています。

 いつも言っていることですけれども、私たちは自分の意見が正しいと思いながら相手を戒めようとすることがあります。特に、人々の前で相手を非難する言葉を口にする場合は、得意になって話してしまう。自分は正義なのだと考えて、相手の栄誉を奪う、相手を辱めてしまう。それでも、その相手の心にまで思いがいかないで、自分はこれほど正しいのだ、自分の意見はこれほどすぐれているのだと主張したくなる、そういう愚かしさがあります。裁判の場所でだって、自分はそう宣言できるというような自信をもって私たちは語る時には、一層、相手を傷つけることになるのです。

 裁判というのは、何もそのような公の裁判所ばかりではありません。私たちは毎日のように家庭で裁判所をもうけて、まるで自分が正義の審判官ででもあるかのように振舞って、相手をさばくことをしてしまいます。裁きをするということは、つまり相手を自分の罪人とするということです。それは同時に自分が神となり、正義の審判者になるということを意味します。もうそうなってしまうと、唯一の存在に自分でなってしまうのですから当然周りが見えません。相手を思いやる気持ちも、相手が傷つく気持ちも見えなくなって、ただ、自分の正義だけを主張することになります。

 

 けれども、神の御前に、それほど見苦しいことはありません。そこには神を思う思いも、人を愛する思いも失われて、ただ、自分がこだわっている事柄だけがぽつんとそこで浮かび上がってしまうのです。私たちが人と関わる時にはどうしても、その土台として言葉が必要です。ですから、その私たちが語る言葉が、相手を思う思いとともに語られるならば、真実な言葉を誠実に語ることができるならば、そこに主は幸いを置いてくださるのです。

 

 以前、私が古知野教会で牧師をしていた時に、教会の伝道集会で加藤常昭先生をお招きしました。その時に、加藤先生がお語りになったのは本音で語るということについてでした。私たちは本音で話そう、腹を割って話そうと言う時に、奇麗事を言わないで、正直に話そうという意味で使うと思います。加藤先生は、キリスト者の語る本音は何か。それは心の中の醜い思いを曝け出すことなのか。それが、本音なのかということを問われました。キリスト者にとっての本音は、キリストの心を自分の心とすることなのではないのかと、その時に話されたのを私は今でも忘れることができません。

 私たちの心の中の思いは、キリスト者になる前は醜い物であったかもしれません。しかし、主は私たちを贖い、私たちに新しい霊を注いでくださいました。そして、キリストの心を、私の心とすることを教えてくださったのです。そうであるとするならば、私たちの口から出る言葉は、愛のある言葉、相手への配慮のある言葉を語ることができるようになるはずなのです。そこで何よりも思いださなければならないのは、主もまた裁判において罪に定められました。しかし、人々は不正な証言をして主を罪に定めようとする時に、主イエスはご自分の正しさを神の御前で宣言なさるというようなことを行なわなかったのです。いつらでも、自分の正しさを宣言できたにもかかわらず、主はご自分の正義を貫くことをえらばれないで、人々を愛されることに心を注がれました。ここに、主の心が現われていると思います。私たちは自分の正しさを語ることから離れて、相手のことを思いやる言葉を語ることにこそ、主の心があることを私たちはいつも心に留める必要があるのです。

 ハイデルベルク信仰問答で、最後の部分に「自分の力のかぎりに隣人の栄誉が増すように語るのだ」とありましたが、それは、自分の努力によってとうことではなくて、主がその力を与えてくださるということです。私たちは、私たちの奥深くに潜む、偽りの心を捨てて、主によって真実な言葉を語ることができるのです。そうして、私たちが真実な言葉を語り合うところでこそ、主はこの世界に今も生きて働いておられることが証されていくのです。

 今日は、この後で教会総会が行なわれます。そこでも、私たちはこの主に支えられて、主にある配慮の言葉をつくしながら、主がこの教会に何を求めていてくださるのかを祈り求めていきたいと思います。

 

 お祈りをいたします。

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