2014 年 3 月 23 日

・説教 ヨハネの福音書1章35-42節 「何を求めているのか?」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:05

2014.3.23

鴨下 直樹

「あなたたがたは何を求めているのですか。」

これが、このヨハネの福音書の中で最初に主が語りかけられた言葉です。主イエスは、ご自分に付いて来た者に向かって尋ねられました。この弟子たちは先日までバプテスマのヨハネの弟子でした。ヨハネが語る言葉にそれまでは何かあると感じていた人たちです。そのヨハネが主イエスを指し示して、このお方は「見よ、神の小羊」と言ったのです。そうヨハネが言うのを聞いて、イエスに従ったと記されています。このヨハネの弟子達だったうち、一人はシモンペテロの弟アンデレと名前が紹介されています。もう一人ははっきりしません。この二人は、最初から、主イエスが苦しみの道を歩むお方だということを知っていたのだと、この福音書は意図しているようです。けれども、このお方が「神の小羊」であるということが何を意味するのかはまだこの時には良く分かっていなかったようです。まだ出会ったばかりで、二人の弟子にしてみてば、イエスというお方が良く分からない時に、主イエスはこう尋ねられたのです。「あなたがたは何を求めているのですか」と。

この問いかけは、私たちすべてに向かって今も問いかけられている問いです。「あなたは、何を求めてきているのですか」。私たちは何を求めて、教会に集い、こうして礼拝をささげているのでしょうか。しかも、私たちは知っています。このお方がやがて十字架の上で殺されてしまうお方だということを。十字架で人の手にかかって殺されてしまうお方に、私たちは何を期待しているのでしょうか。

今、主イエスの受難を覚えるレントの季節を迎えています。そこで私たちは、自分自身にもう一度問わなければならないのは、「私は何を求めているのか」ということなのかもしれません。

この一週間、私ごとですけれども、慌しく一週間を過ごしました。先週の日曜から東京に向かいまして、舛田友太郎神学生の卒業式に出席してきました。月曜の夜遅くに戻りまして、次の火曜日には、私が教えております名古屋の東海聖書神学塾で入塾説明が行われました。前日に、神学校で学びを終えてこれから牧師になろうとしている方々を見て、翌日、今度はこれから神学校に入ってくる人たちと共に一日を過ごします。「あなたは何を求めているのか」。神学校を卒業して、これから何を期待しているのか。神学校に入るに際して何を求めているのか。そう一人ひとりに聞いてみたい気持ちになりました。そして、それと同時に、自分自身にももう一度このことを問わなければならないのではないかと思いながら、この聖書の言葉に耳を傾けてみたいという気持ちになりながら、私はこの一週間を過ごしました。

今日、私たちに与えられているのは、主イエスの弟子たち召命の物語です。本来ですと、51節まで続く物語ですから、まとめて読んだほうがいいのですけれども、ここで切りました。内容があまりにも豊富だからです。今日のところで主イエスの弟子として従って行ったのはアンデレともう一人の弟子です。最後にはアンデレの兄弟シモン・ペテロも弟子として従っていくことになったことが記されています。注意深く読んでいきますと、ここで主イエスに従っていった最初の二人の弟子たちは、はじめバプテスマのヨハネの弟子たちであったと記されています。しかも、先ほどもお話しましたように、このヨハネが「見よ。神の小羊」と言うのを聞いて、主イエスに従っていったことが書かれています。そして、実はここでもうバプテスマのヨハネはヨハネの福音書では登場してこなくなってしまいます。明らかに、主イエスに自分の弟子を従わせて、ヨハネは舞台から姿を消すように描いているのです。そういう意味でも、ここからいよいよ主イエスがお働きになるのだということを、ヨハネの福音書は描き出しているのです。

しかも、よく読んでいきますと、今日の聖書の部分にはいくつもの仕掛けがあるのですけれども、「見て」とか「見る」という言葉がずいぶんたくさん使われています。

最初に出てくるのは、ヨハネの二人の弟子たちが「イエスが歩いて行かれるのを見て」と36節にあります。今度は38節で「イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て」と主イエスが「見た」とあります。はじめは弟子たちのほうで、主イエスを見ていたのですけれども、今度は主イエスに見つめられるようになります。そのあとの39節に「泊まっておられる所を知った」とありますけれども、この「知った」という言葉も実は「見た」という言葉です。そして、最後の42節で「イエスはシモンに目を留めて言われた」と、ここでも、主イエスを見たことによって、主に見られるようになったということが書かれています。

カトリックの聖書学者で雨宮慧という方が、教会暦にあわせて毎日、その日の福音書の解説を書いている「主日の福音」という三冊の本を出しておられます。さまざまな福音書の解説を、言語学者の視点で紹介してくれるのでよく読むのですけれども、今日のところで雨宮先生は、ヨハネの福音書では「来て」という言葉と「見る」という言葉がセットで使われていると説明しています。この前の部分の29節から34節のところでは、ヨハネのところに主イエスが「来て」、最後の34節で「私は見た」と証言しています。今日の部分でも、「来て」という言葉と、「見た」という言葉、また、43節からのとこではピリポとナタナエルが弟子となったところが記されていますけれども、そこではピリポがナタナエルに「来て、見なさい」と語っています。雨宮先生は、ヨハネはこの「来て、見て」そうして「信じる」ということを、信じたものはそこから「外へ出て行く」というような一連の流れとして書いていると説明していました。

普段、なんとなく読んでいるとつい読み飛ばしてしまうことですけれども、このようにヨハネが書いていることを注意してよく読むことが大事なのだと改めて気づかされます。ここで、ヨハネの福音書は、主イエスの下に来て、主イエスを見ている。すると、反対に主イエスに見つめられることになるということを、淡々と書いております。そして、主イエスに見つめられながら、そこで何かを発見するのです。

ここで、主イエスは「あなたがたは何を求めているのですか。」と問いかけます。すると、この二人の弟子たちは「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」と尋ねたと、38節に記されています。この「ラビ」という呼びかけは、律法学者に対して語りかけられた言葉で、今日で言えば「先生」というような意味あいです。つまり、このアンデレともう一人の弟子は、この時点で主イエスのことをまだ律法学者の一人くらいにしか考えていなかったということです。ただ、「今どこにお泊まりですか。」という問いかけは、先生が泊まっているところに私たちも行って、じっくり腰をすえて教えを請いたいという意味が入っています。それで、主イエスは「来なさい」と言われました。先週の礼拝にも、また水曜日にも、教会を訪ねてきてくださった方々があります。聞いてみますと、まだ、洗礼を受けておられる方々ではありません。

はじめて教会を訪ねてくださった方に、「あなたは何を求めて来られましたか」と質問するのはそれほど難しいことではありません。「だれだれに誘われて来ました」、「聖書に興味があって来ました」とか、ご自分が教会に来るきっかけになったことをお話くださることが多いと思います。すでに教会に長くこられておられる方々でも、はじめはそのようにしてここに来られたのだと思います。

それで、主イエスは答えられました。「来なさい。そうすれば分かります。」と。教会にこうして何年か通われるようになった方々は、きっと何かが分かってここに集っておられるのだろうと信じます。最初はおいしいケーキがあると聞いてという方もありますけれども、それでも、来ているうちに、ここで主が語られたように、主イエスのところに何かがあるということを発見するのです。

39節にはこう記されています。

彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。

この「イエスの泊まっておられる所を知った」というのは、「あっ、あの家に寝泊りしているのね」ということではありません。そういう「知った」なのではなくて、もともとの言葉はこれも「見た」という言葉です。発見したのです。主イエスと腰をすえて語り明かしたのでしょう。そうしているうちに、このお方に従っていってもっと知りたいと思えるものを発見したのです。興味深いことに続けてこう書かれています。

そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

「時は第十時ごろであった」とあります。新共同訳聖書をお使いの方は「午後四時ごろ」となっていると思います。これは、もともとの言葉で「第十の時」という時間の数え方をしていました。新解約聖書はそれをそのまま訳していますので、十時ごろとしました。時の数え方は今とは違うのです。しかし、今の時間でいえば、午後四時ということになるので、新共同訳ではそうしました。つまり、どういうことかというと、もう日が暮れる時間だということです。

この福音書は、最初に主イエスと出会った弟子たちが、主のところにいるうちに何かを発見した、その大事な時間をちゃんと記録しておこうと思ったのです。なぜなら、この時間こそが教会にとって記念されるべき時間になると考えたからです。主イエスにこれから従っていこうと最初に決心したのは、もう日も暮れかかるころのことだった、とその時間をここに記録したのです。

最初に言いましたように、これは主イエスを見た弟子たちの証言です。その翌日、その翌日と記していって、最初の一週間がどのようにして始まっていったのか。主イエスと行動を共にしたのか。何を発見したのか。それが、自分たちにとって何を意味したのか、それを丁寧に書き記しているのです。

こうして、アンデレは主イエスのところまで来て、主イエスを見て、主イエスのまなざしの前に立つことによってとても大きな発見をします。それで、アンデレは自分の兄弟シモンを見てこう言います。「私たちはメシヤに会った。」と。弟子たちがそこで発見したのは、このイエスはメシアであったということなのです。そして、そのメシアであることを発見したのが夕方の四時だったということです。それは忘れられない発見であったに違いないのです。そして、それこそが、アンデレや多くの人々が長い間待ち望んできたもの、救いなのでした。

「何を求めているのか」との問いの前に、ついに答えを見出します。それは、神が与えようとしておられる救いです。それは、まだこの福音書が記されたばかりですから、その内容は、それこそこれから主イエスをじっと見つめるうちに、私たちも発見していくことになるのです。しかし、その答えははじめに明らかにされます。私たちが求めているのは、メシア、救い主であると。

その告白に押し流されるようにして、アンデレの兄弟シモンが主イエスの前に導かれていきます。そして、何も話すこともないままに、このシモン、あとでペテロ、岩と呼ばれたあの弟子の代表となるべき人が、主イエスの前に来ることとなったのでした。ペテロも主の前に来て、そして、主を見、主に見つめられます。ここの42節では「シモンに目を留めて」と記されています。

始まりはとても静かなものだったのです。そして、主に「『ケパ(訳すとペテロ)』と呼ぶことにします」と語りかけられるのです。けれども、ここから、ペテロの主イエスとの出会いがまたはじまっていくのです。私たちは主を求めて教会に足を運び、少しづつ主を発見していったようにです。

その発見は、はじめは私の願うような救いであったのかもしれません。しかし、よくよく見ていくうちに、このお方が与えようとしておられる救いの中身を知っていくことになります。そして、それそこが、信じるに値するすばらしい恵みであることを経験させられていくのです。

先日の舛田神学生の卒業式のときに、名前は忘れましたが、卒業生の教会の牧師が説教をされました。その牧師は、この春で牧師を辞する年齢になられて、いわば遺言だから聞いてもらいたい、と言いながら実に楽しそうに説教をされました。その中で、こんなことを話されました。「神学校で学んできたことは、神の御前に受身になるということだったはずだ」と言われたのです。神のしてくださることを、ひとつづつ思い返してみると、それはすべて神がしてくださったのであって、受身になりながら、あとはこの主にさせられているだけ。すべて主がなしてくださることに、ただ従って行く事が、この道を歩んでいくことなのだと言われた。現役を退く牧師らしい言葉と思いながら、私自身もう一度新しい思いでこの言葉を聞きました。

神がしてくださることに、私たちは自分の人生を参与させていく。そのような歩みこそが、主イエスが、「来て、みなさい」と言われた言葉の中身だというのです。まさに、神が私たちの主となってくださることこそが、このお方が、私たちの主であることの意味です。

このお方が私たちを導いてくださるのです。信仰に導いてくださり、困難な歩みであったとしても、いつも喜びと平安を心に与えられている人生を、このお方が導いてくださるのです。それは、はじめ私たちが思い描いたものではないのかもしれません。しかし、その中で私たちは何かを発見していくのです。その生涯は、驚きの発見の毎日かもしれませんが、実に豊かな生涯を歩むことができることをこの神が約束してくださるのです。そして、それは、このお方が私たちの生涯を導いてくださるということを、知らされていく歩みとなっていくのです。

お祈りをいたします。

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