2014 年 4 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書1章43-51節 「偏見から確信へ」

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2014.4.6

鴨下 直樹

 

 今週の金曜日、私が関わっております名古屋の東海聖書神学塾で入塾式が行われました。この春に神学生となって新しく学びを志す人たちの歓迎のときを持ちました。そのようにして、学びに来る方々は、礼拝の後で短い自己紹介をいたします。「なになに教会の誰それです」と紹介します。みなさんも、この春から新しい職場や新しい環境に移ったりして自己紹介をする機会が多くなる季節だと思います。新しく神学塾で学びを志す方々を見ながら、これからどんな働きをしていくことになるのかとても楽しみにしています。今日の聖書にも、二人の弟子たちが紹介されています。最初に出てくるのは、ピリポです。

ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

と、44節に記されています。ベツサイダというのは、ガリラヤの出身ということです。つまり、主イエスと同郷の人々ということです。最初に弟子になった、アンデレやペテロ、そして、今日のところで登場するピリポやナタナエルという弟子たちはみな、主イエスと同じ町の出身者だったのだということをここで記しているわけです。

 昨日の神学塾の入塾式でも、ご自分の名前を面白おかしく紹介してくださった方がありました。そうすると、どうしても印象に残りますからその方の名前を覚えてしまいます。このヨハネの福音書もそうです。主イエスの弟子となった一人ひとりをここで順に紹介していますが、この最初の弟子たちはみな主イエスと同郷の人々であったことを印象づけようとしているのです。

 しかも、ヨハネはそればかりでなくて、主イエスについてもありとあらゆる紹介の言葉がこのところに立て続けにならべられています。そうすることによって、これから紹介する主イエスがどのようなお方であるのかを、この福音書を読む人々にイメージ豊かにうけとってもらいたいと思っているのです。

 少し、この一章の後半部分に記されているものだけでも拾い上げてみたいと思います。

29節、「世の罪を取り除く神の小羊」。34節、「神の子」。38節、「ラビ(先生)」

41節、「メシア」これは「油注がれた者」という意味です。今日のところでは45節、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」という言い方がでてきます。続いて、45節の後半では「ナザレの人で、ヨセフの子」とあります。49節「神の子」。同じ49節「イスラエルの王」。そして51節には「人の子」とあります。

 もう、聖書を読んでいると訳が分からなくなってしまうような、色々な紹介の言葉が並べ立てられています。実はこのように、主イエスのことを色々な視点で紹介しているのが、このヨハネの福音書の特徴と言っていいと思います。こうすることによって、このお方は、実に様々な顔を持っているお方なのだということが分かるわけです。主イエスは、一面的な顔を持つお方なのではなくて、さまざまな面影を見せてくださる方なのだということが、この書き方からもよくお分かりいただけるのではないかと思います。

 

 今日のところからはいよいよ、主イエスが働きをはじめられる部分でもあります。先日の神学塾の入塾式でも、マタイの福音書の荒野の誘惑の箇所から、「神学生の誘惑」という題で、今年から理事長になられた河野勇一先生がお話くださいました。主イエスの伝道の初めは、荒野の誘惑から始まるともう誰もが思い込んでいるほど、この出来事は意味深い箇所です。しかし、ヨハネの福音書では荒野の誘惑の場面も記されていませんで、「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた」と記されています。最初にお話したように、ガリラヤというのは自分の生まれ育った町です。他の福音書では、主イエスの言葉として「預言者は郷里では敬われない」という言葉があります。そこでは、主イエスはあまり郷里で伝道することに消極的だったという印象を受けます。しかし、ヨハネの福音書は違うのです。最初に行ったのが、自分の町です。

 今日もこの後で、この春神学校を卒業いたしました舛田友太郎君が牧師になりまして、その伝道所での会所式が行われます。それで、先週の礼拝で、これから一緒に働くアイマン先生たちをお招きして礼拝をいたしました。友太郎君も挨拶したと聞きました。先日も、子供の頃のことを思い起こしながら、あんなに小さかったのにとか、あんなに腕白だったのにという声をみなさんから聞いたばかりです。自分の生まれ育った町で伝道するというのはとても難しいことです。私も、自分の生まれ育った町であまり伝道したいと思いません。小さな町です。近所の人々はみな、子供のころからの私の素行を知っています。神学生の時に、一度母教会で説教を以来され、説教したのですけれども、あんなにやりにくいことはありません。みんなが人の話を聞きながらニヤニヤしています。何も言ってないのに、「そんなこと言ったって、全部知ってるんだからな」と言われているような気がして、とにかくやりにくかったということだけは今でも覚えています。

 ですから、主イエスにしたってそういうところが少なからずあったと思うのです。たとえば、今日のところで最初に出てきたピリポという弟子が登場します。ピリポは漁師をしていて主イエスの弟子となったアンデレやペテロと同じ町の出身です。主はこのピリポを招かれました。他の福音書のマタイの福音書8章21節では、そのときに、「まず行って、私の父を葬ることを許してください」とこのピリポが答えたと記されています。

 いずれにしても、こうしてピリポは主イエスの弟子となります。それから、ピリポは自分の友人であったのでしょう、ナタナエルのところに行ってこう言います。45節。

「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

このピリポの紹介の仕方が面白いのですけれども、前半部分は、聖書に記されているとおりのお方に出会ったのだ、このお方は約束された方だと、もう信仰告白ともとれる紹介をナタナエルにしました。ところが、その後半では、「ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」と続きます。今のように、何千人、何万人という人口の町ではありませんから、おそらく、自分たちの町のどこの誰それと言えばなんとなく顔くらいは分かったのだろうと思います。この辺の言葉で言えば「一丁目の鴨下さんちの慈乃ちゃん」と言うようなものです。そうすると、「ああ、あのかわいい子」、とか「あの良く食べる子ね」という返事がたぶん返ってくる。

 ですから、このピリポの知らせを聞いたナタナエルはこう答えます。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」言ってしまうと、そのくらいの田舎です。学問をしているわけでもない、ギリシャの大きな町で育って子供のころから教育を受けてきたとか、エルサレムで子供のころから神殿で教育を受けたとか、そういう環境に育つような人は誰もいない町なのです。「お父さんも、お母さんも良く分かる。確かに良く働いているようだけれども、だからと言って、そういう環境から一体何者がでてくるというのだ」。ナタナエルの答えは、その時代の常識を良くあらわしていると思いますし、私たちも、良く分かることだと思います。

 ところが、ピリポはこのナタナエルにこう言うのです。「来て、見なさい」と。前にもお話しましたけれども、このヨハネの福音書は、「来て、見る」。「行って、見る」ということをとても大切な言葉として使っています。信仰というのは、行って、そして見るところから始まる。そして、発見するところに信仰が生まれるのだということをヨハネが何度も語っています。こうして、主イエスとナタナエルは初めて出会います。

 人の噂というのは、実際に自分の目で見てみるまでは信じられないということが時々あります。この季節ですと、どこどこにとても綺麗な桜が咲いている。この町に引っ越してきたんなら一度は見てみないと言われて、見に行ってみると、それほどでもないということがあります。実は、私もまだこの町の中将姫請願桜をまだ満開のときに見に行っておりません。毎年この季節になると、ぜひ一度と言われているのですが、重い腰が上がりません。樹齢千二百年ということですから、さぞかし美しい桜なのだと思います。それこそ、ここから車で五分もかからないところなのに、「来て、見なさい」と言われているんですが・・・

 話が横道に逸れそうですので、元にもどしたいと思います。主イエスは、ナタナエルをご覧になって言われます。

「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

47節です。実は、ヨハネの福音書の中で、ここでだけ「イスラエル人」という言葉が使われています。ということは、本当に厳密な意味で主がこう言われたということです。そうすると、どの説明を読んでも必ず出てくるのが詩篇32篇の2節の御言葉です。

幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。

誰もがこの詩篇を思い起こしています。この詩篇はダビデの七つの悔い改めの詩篇の一つです。これまでにもよく読まれてきた詩篇です。多くの人がこの節に心をとめ、このように生きることができる人は何と幸いだろうかと誰もが重い抱くのです。そして、今、ここで主はナタナエルをご覧になりながら、まさに、ナタナエルこそ、この詩篇に歌われているような人だと言われたというのです。もちろん、ナタナエルに罪はなかったのだと読む必要はないと思います。ただ、このナタナエルは、それほどに真実に主に心を注いで生きて来たのだろうと思います。この「イスラエル人」という言い方も、ここに正しい信仰者の姿勢があるという意味です。

 こう言われて悪い気持ちになる人はいないと思います。ナタナエルはこう答えます。「どうして私をご存知なのですか」。この答えはなかなかの答えです。私たちだと、「いえいえ、私はそれほどの者ではありません」という言葉がつづいて出てきてしまいます。けれども、ナタナエルはもちろん、そんな表面的なことを言うのではなくて、主は自分の心までもご存知なのだということを、恐れつつ、たずねたということなのだと思います。すると、主はこう言われました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と続いて書かれています。

 いちじくの木の下というのは、最近あまりいちじくの木を見なくなってしまいましたけれども、ちょっとした木陰になります。私が子供のころ、家の迎えに大きないちじくの木があって、よくそこで蚊に刺されながら遊びました。大きな葉っぱが体をすっかり隠してくれるのです。私が呼んだ説明では、この聖書の時代、家に個室というものがなかったので、いちじくの木の下で聖書を読んだり、祈りをしたり、黙想をするための場所としていちじくの木の下を好んだようです。そういうナタナエルの祈りの姿勢を主はご覧になっておられたのです。このお方は自分のことを知っておられる。ナタナエルにとって、それはとても大きなことでした。

 みなさんも、経験のある方がおられると思いますが、自分の心の奥深くにしまいこんだ思いをいい当てられると、分かってもらえたという何ともいえない感動が心の内に沸いてくることがあります。それは、自分で気づいていないことであっても、何かのきっかけで自分の心の中にある思いを表現してくれると、不思議と涙がながれてしまうということが起こります。もちろん、このナタナエルの場合がそうであったと断言することができませんけれども、ナタナエルは「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と告白します。

 はじめの、「ナザレから何の良いものが出るだろう」という言葉とは正反対の言葉です。田舎生まれの男に何が期待できるかという偏見があったのですが、自分の心の思いをこのお方は探られるお方なのだと知って、このお方は神の子なのではないか、私たちが待ち望んでいたのはこのお方ではなかったかと、告白するまでに至るのです。

 これは、ナタナエルの心が移ろいやすいということではなくて、それほどに、主イエスとの出会いが衝撃的であったということです。主イエスと出会うということはとても衝撃的なことです。ここでナタナエルが経験したように、自分のことを知っていてくださるということは大きな慰めです。しかし、主はそのようにしてナタナエルに慰めを与えることを目的としておられませんでした。ですから、このあと続いてこういわれたのです。

「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」

50節から51節です。

 ここで主イエスがお語りになられたのは、イスラエルと後に呼ばれたヤコブが、長子の権利を奪ったために兄のエサウを恐れて逃げたとき、その旅の中で石を枕に休んだところ天からはしごを目の当たりにします。創世記28章10節以下に記されていますが、ヤコブは後にベエル・シェバと呼ぶこの土地で、天と地が一つのはしごでつながって、御使いがこのはしごを上ったり下ったりするのを見たのです。

 これはまさに、この場所が地からの天の入り口であることをヤコブが見たという出来事でした。衝撃的な出来事だったのです。そして、主イエスはここで、あなた方はこれから私とともに歩むとき、天の御国とこの地上がまさに一つにされるような出来事を見るようになるのだと言われたのでした。

 これが、ヨハネの福音書が記した主イエスの伝道の初めです。弟子たちを招き、これから何を見るのかを垣間見させているのです。そして、それは、ナタナエルが主イエスを、あなたは神の子、イスラエルの王ですと告白したことが、本当に何を意味するのかを知ることになるのです。

 

 主は私たちの偏見を取り除いてくださるお方です。そればかりか、私たちを見出してくださり、私たちに望みを見せてくださるのです。そして、その望みは、私たちが願うことよりもはるかに大きなものであることを見させてくださるのです。

 「来て、見なさい」。ピリポはそう言いました。そう言いましたが、ピリポ自身もまた、主イエスに従っていって、自らもこのすばらしい御業を目の当たりにすることになるのです。そして、そのすばらしい御業は、私たちがこの主イエスと共に歩むときに、日ごとに豊かに味わうことがゆるされているのです。

 

お祈りをいたします。 

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