2014 年 4 月 20 日

・説教 ヨハネの福音書2章13-25節 「神殿を建て直すお方」

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2014.4.20

 鴨下 直樹

 

 今日はイースターです。イースターの祝福がみなさまの上に豊かにありますように。今年は久しぶりに朝早くからみなさん教会にお集いになられて、共にイースターの朝食会をいたしました。日曜の朝早くからずいぶん多くの方々が参加してくださり、共に食事をすることができました。また、そこですでに聖餐をいたしました。お腹も満たされて、聖餐も受けたので、もう帰ろうとなさる方があるかと思いましたが、幸いみなさん、こうして礼拝に集ってくださり、共に主の復活を祝うことができることをとてもうれしく思います。

 モーニング・サービスと言う言葉があります。もともとは、朝の礼拝という意味の言葉ですけれども、私たちにとって馴染み深いのは、喫茶店のモーニング・サービスのことでしょう。何かの番組で見ましたけれども、岐阜県というのは外食にお金を使うのが、全国で二番目の県だそうです。私もびっくりしたのですけれども、そのほとんどがモーニング・サービスなんだそうです。朝、喫茶店に行きまして、朝からコーヒーを注文しますと、サービスでトーストと玉子がついてくる。このあたりにお住まいの方、あたりまえの文化のようですけれども、全国的な習慣ではないんだそうで、東京の方はたいてい、このモーニング・サービスというの見て驚く方が沢山おります。

 けれども、もともとは、モーニングにコーヒーを注文すると、トーストがサービスでついてくることではなくて、「朝、礼拝をすること」というのが、モーニング・サービスです。そういう意味でも、今朝、芥見教会のみなさんは、朝、モーニング・サービスをする前に、一緒にモーニング・サービスを受けまして、コーヒーと、パンと、イースターエッグをいただいたわけですが、礼拝のサービスのほうがもちろん大切なわけです。

 

 なぜ、こんなだじゃれのような話から始めたのかと言いますと、今日は、このサービス、礼拝ということについて、この箇所から少しみなさんと考えてみたいと思います。創世記から、黙示録にいたるまで、ずっとこの礼拝ということを語り続けています。そして、私たちも何よりも礼拝を大切にしております。けれども、聖書を読んでもそうですし、教会のこれまでの歩みのことを考えてもそうですが、礼拝とは何をするのかということについては、ずいぶん変化があります。たとえば、創世記の最初に出てくる、天地創造の七日目は、なさっていたすべてのわざを休まれて、「その日を祝福し、この日を聖であるとされた」と記されていますが、具体的に何をしたのかについては書かれていません。その後出てくるのは、カインとアベルの捧げものの出来事です。その後からもそうですけれども、神のために祭壇をつくりまして、捧げものをいたします。ところが、旧約聖書の中でも礼拝の姿というのはさまざまに変化していきます。幕屋のことも、神殿ができてからも、やはり、礼拝の中心は捧げものです。ところが、だんだん、捧げもの中心の礼拝は、人々がよりよく捧げものをすることができるためにシステムが作られていきます。たとえば、毎年、過ぎ越しの祭りの季節になりますと、イスラエルの人々はわざわざエルサレムまで行って、神殿でささげものをします。本当ですと、その捧げものは、自分の飼っている家畜の中から最上のものを捧げることになっておりましたけれども、エルサレムまで旅をする間中、動物をつれていくというのは大変なことです。途中で捧げものにする家畜が傷ついてしまいますと、もう捧げものとしてふさわしくありませんから、予備の家畜も持っていかなければなりません。しかも、馬だとか、犬のように、人間が綱をつければ言うことを聞いてくれるという動物ではありません。荷台に乗せて運ぶとしても、何頭もの動物を運ばなければならないとすれば、どれだけ人手がかかるか分かりません。まして、放牧するようにしてイスラエルまで連れていこうとすると、もう何日日数がかかるか分からないのです。

 それで、エルサレムの神殿側も考えまして、神殿側で捧げものは準備しておくので、それを買って捧げればいいというシステムを作ったわけです。あるいは、両替も同じことですけれども、当時の通貨であったローマの貨幣は、人間の肖像が刻まれているので、捧げものにふさわしくないということで、わざわざティルスの貨幣というのに両替しなければなりませんでした。もちろん、そうする以外に、この時代に礼拝において捧げものをすることは不可能でしたから、よいも悪いもなかったのです。

 ただ、旧約聖書の時代の後半に入りますと、もうこういう犠牲の礼拝の制度自体、もはや意味がないのだと、預言者たちは何度も語ってきました。それと同時に、ユダヤ人たちは外国に支配されるようになって、世界中に散っていってしまいましたので、それぞれの場所で、シナゴグと言う礼拝の場所をつくりまして、そこでもっぱら聖書を学ぶということを安息にするようになっていました。そういう礼拝の新しい形がこの聖書の時代にすでにはじまっておりました。

 

 ずいぶん、前置きが長くなりましたけれども、このように、旧約聖書の中ですでに、礼拝の姿というのはすいぶん変化しております。そして、それぞれの状況の中で、どうすることが最善なのかということを考えてきたのです。そういうことが、まず、今日の聖書の箇所の背景にあります。

 興味深いことにヨハネは、カナで最初のしるしを見せられた主イエスは、その後にエルサレムに行ったのだと記しています。他の共感福音書では、今日の箇所はまさに、受難週に入っていよいよ主イエスが十字架につけられる直前の出来事として書いています。しかし、ヨハネはこれを最初の出来事として書いているのです。おそらく、時間的な順序でいえば、他の福音書の方が正しいのだと思いますけれども、ヨハネはある意図を持って、これを最初のしるしの後に持ってきたようです。つまり、主イエスは何をなさるために来られたのかということを、まず最初に整理して分かってもらいたいという意図があったのです。ヨハネの意図は、歴史的な順番よりも、優先されるべきだと考えたのです。

 そういうわけで、今日のところは、「宮清め」と呼ばれる出来事が突然でてくるわけです。書かれている内容自体は、それほど難しいことではありません。主イエスがエルサレムに入られまして、神殿で牛や羊や鳩を売っている者たち、両替人たちに向かって、むちを使って家畜を追い出してしまわれ、両替人の台をひっくり返しておしまいになった。そして、ここから出て行けと言われたのです。当時の神殿のあり方に対して、明確に、「No!」と言われたのです。このような礼拝は神の喜ばれる礼拝ではないのだと宣言なさったのです。

 ここで、弟子たちは何の役割を果たしておりません。ただ、17節で

弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした。

と記されています。

 ここに「家」と言う言葉が出てきます。ヨハネはいつもそうですけれども、実に細やかな言葉使いをしておりまして、その前に「宮」と書かれた言葉があります。神殿を指す言葉です。ヨハネはここで、この「宮」と「家」と言うのは別々の言葉を使っています。本来、宮は、父の家と同じ言葉で表現してもいいのですけれども、今、商売人の家となってしまっています。そのために、別の言葉で表現しなければならなくなっているのです。父の家は、祈りの家です。礼拝を捧げられるべきところで、それは商売の家とは異なるものです。そのためにその本来の姿から離れてしまったものを、ここで、「宮」という言葉で表現しているのです。なぜ、そうなったのかというと、弟子たちは詩篇69篇9節の御言葉を思い起こしたと言っています。

 詩篇69篇というのは先ほどもお読みしました、この詩篇の言葉を思い起こしたと言っているのです。しかも、その前の商人たちを追い出すときに言われた言葉「わたしの父の家を商売の家としてはならない」という言葉は、ザカリヤ書14章21節に「エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人はいなくなる」と書かれた言葉を思い起こさせているのです。

 父の家は、商売の家ではなく、祈りの場であるのだと、主はここで宣言をなさっているのです。

 

 しかし、詩篇69篇にあるように「人々の熱心」というものが、それを壊してしまいます。何とか、すべての人が礼拝に来て、捧げものをしやすくしよう。現実に即した礼拝にしようと、神殿の人々は努力をして当時の礼拝制度を築き上げました。そのために人々は喜んだのです。これで障害が取り除かれて、心から礼拝ができると考えたのです。

 ここで使われている「熱心」という言葉からすぐに思い出すのは「熱心党」と呼ばれる人たちが当時のイスラエルにはいたということです。主イエスの弟子のシモンも、この熱心党のメンバーでした。先日の受難日の礼拝でも、ルカの福音書の23章32節から説教をいたしました。ここで主イエスと共に十字架につけられた犯罪人たちも、言ってみれば、この熱心のために生きた人々ということができます。

 人にはそれぞれに言い分があります。しかも、そのことのために、一所懸命に、まさに、熱心に何かを成し遂げようとする心があります。神殿が作り上げた、この時代の礼拝システムなどというものは、イスラエルの人々からしてみれば画期的なことであったに違いないのです。人に優しい礼拝。それが、テーマであったといってもいいのかもしれません。実に配慮に満ちた礼拝でした。しかし、主イエスは、そのような礼拝を見て、これはもはや父の家ではない、商売の家となってしまったと怒られたのです。

 どこでずれたのか。人の便利さということに心を砕いたところからずれたのです。はじめは、きっと、ほんのわずかなずれだったに違いないのです。けれども、何百年もたっていくうちに、それは、まるでかけ離れたものになってしまっていたのです。

 

 では、どのような礼拝を主はここで教えておられるのでしょうか。当時の神殿にいた人々は主イエスに詰め寄ります。

「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」

そう尋ねます。あまり、説明する時間はありませんが、ここで尋ねている「しるし」というのは、一体何の権威があってこのようなことをしているのですかという意味です。その権威のしるしとやらがあるのなら見せて欲しいと詰め寄ったのです。それに対して主が答えられたのは20節です。

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

 お気づきの方もあると思いますけれども、ここではまた「宮」でも「家」でもなく「神殿」という言葉が使われています。この「神殿」と言う言葉は神殿の中でもっとも中心的な場所である「至聖所」を示すと考えたほうがよい言葉です。この至聖所において、大祭司だけが神の臨在を感じることできました。ここが神と出会う場所なのです。主イエスはここで、旧約聖書の宮はもはやその役割を終えて、いまや、主イエスの体である神殿においてこそ神と出会うことができると、言おうとなさったのです。神と出会うことができるはずの神殿を壊しても、私はそれを三日で建てる。そう答えられながら、まことの神と出会うことができるのは、私の体を通して建てあげられる、十字架と復活によると主はここで宣言なさったのです。

 しかし、人々はこの主の言葉の表面的な意味しか理解することができません。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました」。当時立てられていた神殿はソロモンによって建てられたものではありませんでした。この最初の神殿はすでに崩壊し、紀元前19年にヘロデ大王によって神殿の再建がはじめられました。ここで、46年とありますから、紀元27年頃ということになります。ちょうど、主イエスの伝道を開始したのが、誤差を考えると、主イエスの伝道の生涯の時期と重なります。いずれにしても、ここで、ご自分の体こそが神の礼拝を捧げる宮となるのだと言われたのです。

 

 そして、私たちはそのように、このイースターの礼拝に先立って、キリストの体と血にあずかる聖餐に預かったのです。まことの礼拝。それは、主イエスの復活を通してこの主に預かることです。聖餐を祝うことのないときであったとしても、私たちは、主の御言葉をとおして、主に預かることができます。主に預かる。これこそが礼拝の中心です。そして、その礼拝には、私たちの熱心、私たちの努力、私たちの何かという、私たち側の都合は最優先とはなりません。

 

 興味深いことに、この後ヨハネは、イスラエルで主イエスのしるしを見た人々が主イエスを信じたと記しています。けれども、その後で、

しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、

と書いています。自分のために役に立ちそうだ、これは、私は気に入った。そうして、自分本位に信仰に至ること、自分中心の信仰というものを、主イエスはここであてにしていないのだと書いています。これはとても厳しいことです。

 しかも、今日の部分の結論の部分が、21節と22節に書かれています。

しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

 復活の出来事の後に、ここで主イエスが言われたことが弟子たちに初めて理解できたのだと書いているのです。これが本当だろうと思うのです。主イエスの復活を知ることなしに、まことの礼拝ということは分からないのだということです。主に預かることこそを、主が求めておられるということは、イースターを祝ってはじめて分かるようになるのです。

 

 主は死から勝利されました。人の絶望を乗り越えて、新しい道を示してくださいました。それは、ただ主イエスを通してのみ分かることです。そして、この主イエスに預かること、主イエスと共にあることが、神に対して礼拝を捧げること、神が本当に喜んでくださることなのだと、主イエスはここで私たちに示していてくださるのです。人が46年かけてせっせと神殿をこしらえても、その努力は神の御前に覚えられていなくて、ただ、主イエスと共にあることを主は覚えてくださる。

 そこには、私たちの常識をはるかに超えた、主の思いがあります。私たちが考えている以上に、私たちが主と共にあるということは、神にとって大切なことなのです。主は難しいことを求めておられるのではないのです。私たちにできもしないことをせよと言われるのでもないのです。ただ、主イエスにとどまりなさい。そして、この主イエスと共に神を喜ぶのです。 それこそが、イースターの喜びなのです。

 

お祈りをいたします。 

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