2014 年 7 月 6 日

・説教 ヨハネの福音書5章1-18節 「今に至るまで働かれる主」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 19:54

2014.7.6

鴨下 直樹

先週の金曜日のことです。いつも月に一度マレーネ先生と一緒に朝食を共にしながら祈りの時間を持っています。その朝の祈りの時にマレーネ先生との話の中でも、今日の聖書箇所の話をいたしました。また、午後には今寝たきりになっておられる病の床にある方を訪ねましたから、どうしても、今日の聖書の言葉を心に留めずにはいられませんでした。この聖書のみ言葉は、長い間、病の床に臥せっている人にどのような響きをもっているのでしょうか。

今日の聖書の中にでてくるのは「三十八年もの間、病気にかかっていた人」です。ここの箇所を見ますと、主イエスはまたエルサレムに来ていたようです。しかも、1節にはユダヤ人の祭りがあってと書かれています。主イエスは再びイスラエルの首都であるエルサレムを訪ねられたのです。しかも、9節を見ますと、その日はちょうど安息日でした。安息日に祭りの行われているエルサレムに来ているのです。そうすると、人々は当然神殿に集まります。そういう独特の祭りの雰囲気の中で、エルサレムにあるベテスダの池と呼ばれたこの池だけは、変わることのない日常の光景が続けられています。そこに大勢の病の人がこのベテスダの池の周りに集まっているのです。このベテスダの池は、近年になって考古学者たちによって発見されまして、だいぶ詳しいことが分かっています。私たちは池といいますと、自然の池をイメージしますが、この池は40メートルから50メートルの台形の形をした二つのプールのような池が並んでいたんだそうです。その周りには美しい五つの柱廊で囲まれています。その池がどういうわけか分かりませんけれども、水が動くことがあったんだそうで、その水が動いた最初に入った者はどのような病気にかかっている者でも癒されたのだそうです。その説明は口語訳聖書には入れられておりましたけれども、新改訳聖書では下の欄外の注のところに書かれています。そういう説明書きか書かれた聖書の写本がありまして、この説明はかなり信憑性がたかいということで、長い間、聖書の本文の中にいれられてきました。けれども、どうも、これは後世の加筆だということが分かりまして、今は、欄外にその説明の言葉をいれるようになっています。

私がまだ中学生のころですけれども、学生キャンプの時の説教で、この水が動いたのは間欠泉だったのではないかという説明を聞いたことがあります。間欠泉という言葉をその時初めて聞きましたので、とても印象的でした。温泉のお湯が噴き出すのです。あとになってテレビで間欠泉を見て、地面からものすごい勢いで噴き出しているのを見て、またびっくり致しました。しかし、この池は、ずいぶん整備されたプールのような池ですから、どうもこの説明ではしっくりきません。このベテスダの池は二つの池が繋がっておりまして、その池の高低差があったために、時折、どういうことか分かりませんけれども、水が移動して水面が動いたというようなことがあったようです。

けれども、この時代の人々はもちろん、そんな夢のないことは考えません。天使が水浴びに来たのだというように考えられていたという説明があります。天使は人には見えないけれども、時々水浴びに降りてきて、そのしるしに水面が動くと考えたのです。すると不思議な出来事が起こって病気が癒やされるのだと信じられていたようなのです。しかも、二世紀にこの池に沈められておりました碑石に、「ポンペイヤ、ルキリアが奉納した」とギリシャ語で書かれたものが、今のルーブル美術館に保管されているのだそうです。これは当時、病を癒された人が奉納した実際的な記録だと考えられています。

説明が長くなりましたけれども、この時代にはそういう不思議なことが実際に起こったようです。しかし、水が動いた後で、最初に池に入った人だけが癒されるのです。当然、重い病の人になればなるほどチャンスは失われます。あるいは、一大計画を家族や友人たちと立てて、水にはいれるように準備していたとしても、いつ水が動くかは分からないのです。ゆっくり寝ていることもできません。当然、周りの人はライバルと言うことになるわけですから、殺伐とした雰囲気になっていただろうと思います。そうやって、何年も何年も、チャンスを待ち続けて水のそばに生活するようになる。けれども、そういう生活が長引けば長引くほど、心はどんどん荒んでいくと思います。そういうところに、主イエスはおいでになられたのです。そして、三十八年もの間、病にかかっている人にこう言われました。「よくなりたいか」と。

病に伏している人のところを訪ねて行って、決して口にしてはならない言葉と思います。もし、私が誰か病でふせっておられる方のところに行って、こう言ったとしたら、憤慨して「もう来ないでください」と言われてしまうと思います。治りたいからその池の周りに長い間、池の水が動くのを待ち続けているのでしょう。すると、病人が答えます。7節です。

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

絶望的な言葉です。わずかな希望を持って、このベテスダの池の周りにいるのです。けれども、水が動いても、自分には誰も手伝ってくれる人がいない。「自分には病が癒されるという希望を持つ前に、もう一つ障害があるんだ。誰も、私を気にかけてくれる人なんかいないんだ」そう聞くと、捨てゼリフのようにも聞こえてくる寂しい言葉です。誰もがその悲しみを理解することができるのではないでしょうか。

先日、マレーネ先生の家で一緒に祈りをするときに、私がこんなことを言いました。いったい、イエス様はなぜあんな言い方をなさったんだろう。「よくなりたいか」とはあまりにもひどいのではないかと。

すると、マレーネ先生がこう言いました。「この人はどこかで、変わらないでいられる自分に安心していたのではないか」と。私はドキッとしました。誰もが、この人はかわいそうな人だと見てくれる。私には誰も助けてくれる人がいない。仕方がないのだ。自分は仕方がないのだ。そう自分に言い聞かせていることに、気付かせようとしたのではないか。そういうところで、「本当にあなたはよくなりたいと願っているのか」それが、主イエスの問いかけであったのではないか。マレーネ先生はそう言われたのです。

この病の人は、ここで自分が治らないのは、私を助けてくれる人がいないからだと答えました。そこに、この人は絶望しているのです。自分は、この愛のない世界の被害者なのだという叫びです。誰も私をかまってくれない。誰も、自分を理解してくれない、受け止めてくれない、私こそが、もっともかわいそうな人間なのだ。そう、自分で自分に言い聞かせながら、周りの人を責めることで、自分の心を保っているのです。この人だけのことではないのです。この病んだ人の姿は、よく考えてみると、ちまたに溢れています。誰もが、と言っても言い過ぎではないのだと思います。私たちの心の中には、そういう被害者根性と言ったらいいでしょうか、自己憐憫といいましょうか、被害妄想といったらいいのでしょうか。そういう心があることを否定することはできません。でも、周りの人のせいにできるということは、実はとても楽なことです。しかし、自分が健康であったなら、その池に一番にいって、他の人を助けるのでしょうか。いいえ、この人もすぐに加害者になるのです。残念ながら私たちはそんなに人のことなど考えていません。ただ、わかるのは、誰も顧みてくれない自分はかわいそうだと、そこにとどまることを正当化してしまうことにとどまってしまうのです。

「よくなりたいか」この主イエスの短い問いかけが、そういう私たちに聞こえているのでしょうか。この自分のことしか考えられない醜い姿から、抜け出したいと本当に思っているのでしょうか。とても興味深いことですけれども、主イエスは、「はい、治りたいのです」とも答えていないこの人に向かってこう言われました。

「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

8節です。

すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

と続きます。

主イエスはここで、何をなさったのでしょうか。この日は安息日でした。それが、すぐに問題になります。神殿で人々が祭りをしている。礼拝をするために人々は集まっていたのです。しかし、主イエスは神殿には行かないで、病んでいる人々のところに行かれて、癒しの業を行います。しかも、安息日には働いてはいけないと分かっているのに、「床を取り上げて歩きなさい」と言われたのです。もちろん、この時代、「床を取り上げる」ことは労働することになると考えられていて、それは罪にあたると考えられていました。

日曜日に、牧師が礼拝に来ないで、病院を訪問していたとしたら、みなさんはなんと思われるでしょうか。ずいぶん、うちの教会も軽くみられたものだと、腹を立てるのではないかと思います。礼拝は大事でしょ。何をおいてもと私たちは考えます。主イエスだってそのことは百も承知していたはずです。しかし、主イエスは、とても自由です。

今日、礼拝の後で、礼拝の学びを致します。私たちはそこで考えてみたいと思うのです。主イエスは、なぜ、こういうことをなさったのか。では、私たちも礼拝をやめにして、病院に行ったらいいのでしょうか。もちろん、形だけまねることに意味はありません。主イエスはここで、何をお考えになっておられるのでしょうか。

安息日、働いてはならない日に、主イエスは人を癒されて、床をあげるように命じられました。当然、エルサレムの人々は、「床を取り上げて歩け」と命じられた方を探そうとします。人々が祭りのとき、みなで神殿に集まっている時に、主イエスは、病の人のところに行って、そこで、戒めをやぶるようなことを命じられたのです。人々が怒る気持ちはよく分かります。ところが、主イエスのほうから、わざわざ見つけられるためにとでもいうように、この癒された人を見つけてくださいます。そして、こう言われました。

「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

14節です。

これもまた、ちょっとびっくりすることが書かれています。因果応報という言葉があります。罪を犯すと、もっと悪いことが起こる。まるで、主イエスがそう言っているようにも読めます。もちろん、そんなことはないのです。ここで罪を犯すというのは、「もう、私を拒んではならない」という意味で言われたのだと理解すべき言葉です。

主イエスを拒んではならない。だから、続く15節。

その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

と書いているのです。主イエスを密告したと書こうとしているわけではないのです。

ここに書かれているのは奇跡と言われる出来事です。そこで私たちは病が癒されることが奇跡だと考えます。しかし、そういう奇跡はこのベテスダの池ではたびたび起こっていたのです。奇跡という言葉は、聖書のギリシャ語では「テラス」という言葉で、「人々を驚かせるいわゆる奇跡のこと」を意味します。ところが、主イエスの業については「不思議」という言葉を使いました。そして、ヨハネはそれを「しるし」という言葉で表現しています。この「しるし」は「セーメイア」という複数形を使いますが、この言葉が主イエスの業に使われています。特にヨハネの福音書では、主イエスの業を、いわゆる奇跡という言葉ではなくて、「しるし」と言ったのです。

この三十八年の病の人からすれば、何が奇跡であったかと言うと、誰も自分を顧みてくれない周りの人々の冷たさばかりを感じていたこと人が、自分に向かって語り掛けてくださる方と出会ったのです。これこそが、奇跡でした。

自己憐憫に陥り、人を非難し、自分も同じ人間であることを見ようともしなかった自分に、語り掛けてくれるお方がいた。しかも、安息日に、神を礼拝する日にです。これこそが、安息日に行う業なのだと言わんばかりに、主イエスは神の御業を、人のところに届けられるのです。そして、もはや、私を拒んではならないと語り掛けておられるのです。

主イエスのしるし、本当の奇跡というのは、私たち醜い自分のことしか考えることのできない者と出会ってくださるということ、そんな私たちに、心を向けて語り掛けてくださり、私たちの醜さに、私たちの罪に、気付かせてくださるのです。なぜ、私たちの心が荒んでいくのか、人が自分を大切にしてくれないと、いつまでも心の中にその思いが支配するのか。それは、主イエスを締め出しているからなのです。自分のことばかり考えて、自分の悲しいことばかりに捕らわれてしまって、神をその心から追い出してしまうのです。

主イエスはここで、それこそが罪だと言っておられるのです。そして、私を見よ、私から聞け、私と共に生きよと語りかけられるのです。二度と私を拒んではならないのだと語り掛けられるのです。

17節。

イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

これが、安息日、働いてはならないと言われていた日に働かれた、主イエスの心です。安息日に神が休んでおられると誰もが考えていた時に主イエスは言われたのです。主はこの日こそ、働いておられる。あなたと出会うために。あなたの心が、自分の悲しみに支配されないために、だから、この日、主イエスはベテスダの池に足を延ばされたのです。そして、今も、主イエスは私たちのところまで足を延ばして、私たちを今ここで、この礼拝の席に訪ねてくださっているのです。

今日、今から聖餐をいただきます。私たちは、この聖餐をとおして、主が私たちのところまで来てくださったことを思い起こすことができます。そして、この時、私たちは知るのです。私は一人ではない。私は孤独にされてはいない。このお方が私と共にいてくださり、私の心の悲しみを、歎きを、癒してくださるのだと。このお方が、私たちに向かって手を差し伸べてくださっていることこそが、奇跡なのです。

お祈りを致します。

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