2014 年 7 月 13 日

・説教 ヨハネの福音書5章19-30節 「いのちと裁きの主イエス」

Filed under: 礼拝説教 — miki @ 20:28

2014.7.13

鴨下 直樹

先週、礼拝でも少しお話をしましたけれども、可児教会のO長老が先週亡くなりました。そのO長老の葬儀が先週の火曜日に行われました。前任の後藤牧師が可児教会と芥見教会と兼牧をしておりましたその時、可児教会の長老たちが何度もこの芥見の礼拝説教をしてくださり、O長老も何度もここで説教をしてくださいましたから、ご存じの方が多いと思います。この方は大学の英語の教授として名古屋にあります国立大学、その後で、名古屋のキリスト教系の私立の大学、そして晩年は、この教会からすぐ近くにありますキリスト教系の私立の大学、高校などの学院長として勤めておりました。教会でも大学でも説教をしておられましたし、可児教会では礼拝の前に毎週役員の祈り会を持っておりまして、いつもそこでも聖書の話をしておりました。「デイリーブレット」という毎日のディボーションの冊子の翻訳もしてこられました。非常に深い聖書知識のある方です。

その葬儀で、娘さんのMさんが挨拶をなさいました。亡くなる少し前のことだったようですけれども、よく天国に行く夢を見たんだそうです。天国で、すでに十数年前に天におくった奥様や、教会の方々と会って来たよと言われたそうです。それで、娘のMさんが、「天国で誰とあったのが一番嬉しかったの?」と聞かれると「それは、キリストさぁ」とここやかに答えられたんだそうです。

私はこの話を聞いて、とても心打たれました。英語の教授や、言語学者として深い聖書知識を持たっておられたお方ですけれども、葬儀で紹介された略歴でも、そういうことは一言も書かれておりませんでした。ただ、これまでどういう教会で信仰の歩みをしてこられたのかということしか書かれていませんでした。Oさんはひとえに子どものように主イエスにお会いすることを望むような信仰に生きたのだということを、この娘さんのお話を聞いて知りました。本当に子どものように主イエスとお会いすることを心待ちにしていたのだということが良く分かりました。そして、今、天に召されたOさんは今まさに主イエスとお会いして、永遠のいのちの喜びをかみしめているのだということを心から喜ぶことができます。

今日の説教の題を「いのちと裁きの主イエス」としました。予告していたものと違いますけれども、今日の箇所の主題はまさに、「いのちと裁き」です。24節にこう記されています。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです

ここにもはっきりと、「主イエスを信じるものは永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている」と記されています。だからこそ、私たちは、この世で死を迎えたとしても、永遠のいのちに生きる者とされていることを喜びながら、希望をもって葬儀に臨むことができるのです。

今、私たちはヨハネの福音書のみ言葉を順に聞き続けています。少し、もう一度ヨハネの福音書の流れを確認しておくことが今日の箇所を理解する助けになると思います。先週聞いたところは安息日に主イエスがベテスダの池でなさった癒しが記されています。そこで、主は「父は今に至るまで働いておられます」と語られました。人々は安息日に父なる神は安息していると考えていました。しかし、父が本来安息になさろうと願っておられることは、人に顧みられることのない悲しみに沈んでいる人に、「父は今に至るまで働いておられる」それこそが父なる神の御心なのだと語り掛けられました。

そして、それに続いて、主イエスはご自分と父なる神との関係についてひたすら語っているところが、今日のところです。

19節にこうあります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

先ほどの24節も、この19節も「まことに、まことに」という言葉で始まっています。また、25節にも「まことに、まことに」とあります。これは、「アーメン」という言葉です。私たちは祈りの最後に「アーメン」と言って祈りを結びます。祈りを教えられた時に、「アーメンと言うのは、それは本当ですという意味ですよ」と教えられたことがあると思います。興味深いことに、ギリシャ語では「アメーン」と言います。旧約聖書のヘブル語では「アーメン」です。もともとこの言葉はヘブル語の言葉ですから、私たちも「アーメン」と言って祈っています。「その祈りが真実となりますように」という意味で祈りの最後に使っているのです。新共同訳聖書では「はっきり言っておく」とこのところは訳されております。そういう強い言葉です。けれども、翻訳としてはここに関しては新改訳が良いように思います。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。」ここで語られている言葉には、それを聞く私たちにとってこの言葉が真実となるように、という願いを持って主イエスは語っておられる。ぜひ聞き取ってほしいと願っておられる言葉がここで語られているということです。

そして、そこで何と言われたのかというと、「子は、父がしておられることを見て行う以外のことは、自分から何事も行うことができない」と言われたのです。ご自分は無力だということが、それを聞く私たちにとって真実となるのだと、その言葉を聞くものにお求めになられたのです。

私たちのことを考えてみたいと思います。私たちはなかなかそのように考えることはできません。自分が無力であるということほど、私たちを絶望に追いやることはありません。少しでも何かができることを私たちは求めます。また、私たちも、少しでも役に立つことができるように日々努力します。この御子は、み父の行われることを見て、行うとここにあります。まず、見ること、そして、その次に行うこと。主イエスはこの安息日において、ベテスダの池で長い間重い病に伏している人のところにお訪ねになられ、その人に声をかけられました。その人の心にあるものを引き出され、そして、いのちへと、主とともにある交わりに生きるようにお招きになられました。これこそが、父を見て、私が行った業なのだということです。人々はその出来事を奇跡と言うのかもしれません。しかし主は、ご自分を、自分は無力な者にすぎないのだということを知っておいてほしい、それこそが、あなたがたにとって恵みとなる、真実となる。と語って下さったのです。

主が私たちにいのちを与えてくださるということは、自分の力に関係なく主はいのちを与えてくださるし、また、私たちも自分の無力さを覚えるときに、無力な私たちでさえ父なる神の子どもとして、確かな生き方、確かないのちが与えられるということなのです。つづく20節ではそのことが

これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。

と語られて。続いて21節では

父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます

となっています。

さらに大きなわざ、つまり、このベテスダの池のみわざ以上のことを主は行われ、さらに多くの者にこのいのちをお与えになられるのです。この主イエスによって与えられるいのちこそが、さばきに会うことなく死から贖われたいのちとされるのです。

それが、続いて記されている24節の「まことに、まことに、あなたがたに告げます」として語られている主からの約束の言葉です。ここには「わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」と語られている言葉の意味なのです。

今、水曜日と木曜日の祈祷会でヨハネの黙示録を学び続けています。ヨハネの黙示録のテーマは裁きです。このヨハネの黙示録を学んでおりますと、この24節で語られている「裁きに会うことがない」という言葉の意味がよく分かるようになると思っています。

ヨハネの黙示録の学びの中で何度もお話ししていることの中に、神の裁きは、神の救いの御業だ、ということがあります。私たちは、神の裁きというのを、神からの刑罰という意味にとらえてしまって、とても恐れを持ってしまいがちです。もちろん、神を敬わない人にとってはそういう意味も持っていますけれども、黙示録が語る裁きというのは、神の救いの完成という意味合いがとても強いのです。神が、ご自身の御業を行われるということは、救いの御業をなしとげてくださるということです。そして、この神の救いの業は、この世界の神に敵対するもろもろを滅ぼされること、まさに、神の国を、神が与えようとしておられるまことのいのちを与えることと同じことです。ですから、主イエスを信じて、いのちを受けているということは、そのまま、私たちは神の裁きの対象ではなくなっているということと同じ意味なのです。

もう何度も話していることでもありますが、「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」というあのヘブル人への手紙の一節だけが独り歩きをしまして、キリスト者も死後に裁きを受けるのだから、その時になってみないと本当に裁かれるのか、救われるのか分からない。もし、まだ悔い改めていなかった罪が一つでもあるのなら、この時に裁かれてしまうのではないかというような事を考えてしまう人がいるようです。しかし、私たちのさばきは、主イエスが十字架にかけられた時にこう完成したのです。そして、そのことのゆえに私たちは、この方の贖いによっていのちを与えられたのです。ですから、私たちは、私たちの将来のことについて、完全な希望を持つことができるのです。

最後の「まことに、まことに、あなたがたに告げます」と語られている25節には、こう続いて語られています。

死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

とあります。この「死人」というのは、すべての人間のことをさして言っています。神のいのちに生きていない者はみな、神の目からみて生きた者ではなく、「死人」です。それが、罪を犯している人間の、神からご覧になられた状態です。しかし、その死人であるような私たちが、神の子の言葉を聞くときに、生きた者となることができます。それが、このお方によって与えられるいのちをいただくということです。なぜか、27節に、「父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。」とあります。

この「人の子」という言葉はとても大切な言葉です。はじめ、この言葉を説教題にしようと思ったほど大切な言葉です。この言葉は旧約聖書のダニエル書7章13節にこういう言葉があります。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

とあります。このように、旧約聖書の中に、「人の子」と呼ばれる方が、神の裁きの権限を与えられた方として、やがてこられることが語られていました。そして、主イエスは、自分はこの人の子なのだと語られているのです。つまり、このダニエル書に書かれているように、人を裁く権限を私は父から与えられているのだと、ここで語っておられるのです。

主イエスは、私たちに父の御業を行う方として、私たちに救いを、いのちをもたらすために来て下さったお方です。「まことに、まことに、あなたがたに告げます」、この言葉の中に、私たちを真実に生きる者としてくださる言葉が宣言されています。この三度語られた言葉にはこうありました。

「私は無力な者として来たのだ」とこの方は語り、「私はいのちを与えるがゆえに、あなたがたは裁きにあうことはない」と約束してくださり、そして、「私の言葉を聞くものが生きる者となるのだ」と宣言されています。私たちは無力な者でもいいのです。主イエスもそうだったと言われているのです。しかし、その私たちがこの主イエスの言葉を聞くときに、このお方の言葉に身をゆだねるときに、私たちはいのちを受け、裁きに会うことがなくなる。これこそが、主イエスが私たちにもたらしてくださる希望、喜びなのです。

私たちの誰もが、いつか死を迎えます。けれども、私たちは死を恐れることなく、希望を持ってそれに備えることができます。なぜなら、私たちに待ち構えているのは、裁きなのではなく、まことにいのちに生きる道がそこに待ち構えているからです。

可児教会のOさんのように、私たちも、死後、天国で誰とお会いするのが一番嬉しかったと聞かれたら、「それはキリストさ!」と、誰もが答えることができるのです。そのように、私たちの毎日の生活は、このキリストによって、主イエスによって、希望のあるいのちへと移されているのです。

お祈りをいたします。

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